エピローグ
エピローグ
青蘭と二人で別館のなかを歩いた。現実の城内は、やはり異様に静かで人影がない。
ベルンハルトやクレメンス、ヨナタンの部屋へも行ってみた。ベルンハルトとヨナタンはかろうじて呼吸をしていた。意識も戻りかけたが、極度の脱水症状だ。すぐにも治療が必要だった。
クレメンスにいたっては、眠るように亡くなっていた。おそらく、彼の精神はとても繊細だったため、夢のなかで何度も自殺をくりかえしたことにより、完全に心が破壊され、現実に戻ることができなかったのだ。
今ごろは使用人たちもそれぞれの部屋で助けを待っているはずだ。
龍郎は119と電話をかけそうになってから、ここは日本ではなかったことを思いだした。とりあえず、穂村に電話してみる。事情を説明すると、穂村が応援を呼んでくれると請け負った。
「ついさっき、クトゥルフの結界が消えた。うまくいったね。救急は私が呼ぶから、君たちは外に出てきなさい」
「わかりました。すぐ行きます」
とは言ったものの、まだ行っていない部屋がある。
「ヴィクトールは、どうなっただろう?」
「自分の結界のなかで殺されたから、本体も生きてないと思うけど」
悪魔が自身の結界内で退治されるというのは、存在が消滅するということだ。
しかし、仮にもクトゥルフのクローンだ。その死を確認しなければならない。
迷路のような廊下を歩いていく。見覚えのある部屋にたどりつくと、ドアがあいていた。なかをのぞくと、高価な服で埋もれた室内に、ヴィクトールの姿はない。ただ、ベッドが
「体ごと消えたのかな?」
「どうだろう」
しかし、なおもよく見ると、ベッドの脚元から水のしずくが点々と廊下へむかっていた。
「外へ出たんだ」
龍郎は急いで水滴のあとをたどっていった。それは別館を出て、中庭まで続いていた。
噴水の前でとだえる。
噴水には水がこんこんと、たゆたっている。水瓶から透明な水が流れだし、水深は一メートル近くありそうだ。
「青蘭。ここで待ってて」
「うん」
龍郎は意を決して水のなかへ入った。腰までつかりながら、ようやく中央の人魚の像のもとまで来る。だが、手を伸ばしてさぐってみても、以前、夢のなかではあったはずの押しこみ式のボタンが見つからない。最初からそんなものは存在しないかのように。
かわりに、像の下から布の切れっぱしが漂った。黒い布切れ。エメリッヒがまとっていたマントの端切れだ。
ルルイエに帰ろうと、夢のなかで、エメリッヒは言っていた。きっと、わが子の死体をかかえて、そこへ戻っていったのだ。崩壊する直前、彼らにだけ最後に一度、ルルイエへの扉がひらかれたのだろう。
なんだか、とても悲しくなる。
エメリッヒはなぜ、おぞましい儀式で得たはずの異形の息子を、そこまで愛したのだろうか? それじたいが、もはや狂気だったのかもしれない。
だが、たとえ狂愛であっても、真実の愛だったからこそ、ヴィクトールにも届いたのだ。ヴィクトールが本当の意味で化け物にならなかったのは、エメリッヒの存在が大きいに違いない。
「ルルイエは主を失った。もう二度と現実にはつながらない」
とうとつに声が降ってきた。
ふりかえると、本館からリエルが現れた。うしろからフレデリック神父もついてくる。
「クトゥルフを抹殺したことで、邪神たちのバランスが崩れた。君たちは身のふりかたを本格的に考えなければならない。邪神が君たちを狙うだろう」と、リエルは告げる。
「邪神が、おれたちを?」
「二つの玉の力が完成に近づいている。それは多くの魔性にとって魅惑的な力だ。君たちを我々の組織のもとで保護する。そのほうが君たち自身のためでもある」
だが、そのときだ。
「そんなこと、許可できないわ」
バサバサと鳥の羽音が聞こえた。空中から黒い翼を持つルリムが舞いおりてくる。褐色の肌のルリム=シャイコースの女王は、傲岸に言い放つ。
「龍郎。約束の時よ。あなたはクトゥルフを倒した。もうこれ以上、待てない」
それは当然の主張だ。
本来なら三択の答えを出したときに、とっくに履行されていなければならない契約だ。クトゥルフを倒すまで待ってほしいと条件をつけたのは、龍郎自身だ。
だが、今ここで、それを宣告されるのは、できることなら、さけてほしかった。せめて、あと一日、いや、一時間でも猶予があれば……。
案の定、青蘭が絶望的に硬い表情で、龍郎を見つめている。
「龍郎……さん?」
「ごめん。青蘭」
「どういうこと?」
龍郎は説明しようとした。
以前、青蘭を助けてもらう代償として、快楽の玉、苦痛の玉、龍郎自身のうちどれか一つを支払うと、ルリムと契約をかわした。
その三択のどれもがきわめて大切なもので、とくに二つの玉は、青蘭がミカエルの心臓と一つになるために欠かせないものだ。
だとしたら、そのなかで唯一、渡すことができるのは、龍郎自身。消去法でそれしかなかったのだ、ということを。
だが、龍郎が口をひらくよりさきに、ルリムが勝ち誇ったように告げる。
「龍郎はルリム=シャイコースの王になるの。わたしとそう約束したのよ」
青蘭はふるえながら、朱唇をおしひらく。
「ウソ……だよね? 龍郎さん」
「ごめん」
ルリムが龍郎の腕をとり、翼をはばたかせる。
「じゃあ、もういいわね? 行くわよ。龍郎」
異次元へ翔ぶときの感覚が迫る。龍郎は必死に叫んだ。
「青蘭! 君との約束は、必ず果たす。君をミカエルと一つにさせてあげる——」
「龍郎さん!」
体がフワフワする。
青蘭の姿がまたたくうちに遠のいた。
第十一部『ルルイエの夢魔王』完結
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