第14話 夢魔の王 その四



 *


「もう聞きましたか? アスモデウス」


 約束の入江に、その日、ミカエルは来なかった。ずいぶん長いこと、あの唄を口ずさんで待っていたのに。

 あきらめて、楽園の神殿に帰ったアスモデウスに声をかけてきたのは、同じ智天使ケルビムのサキエルだ。水を司る優しい天使だ。


「何をですか?」

「塩の神殿で大変なことが起きたらしいですよ」


 そう聞いただけで、アスモデウスの胸は不安に波打った。理由はある。約束の時間にミカエルが来なかったことなど、これまで一度もなかった。それに、からだ。


(ミカエルの鼓動が、聞こえない……)


 天界のどこにていも必ず共鳴していた、ミカエルの心臓。その音が今、聞こえないのだ。


 戦は大ダコを封印したので、一時的に休戦になっている。今夜はその戦勝の宴がもよおされているはず。だから、予定が変わって、ミカエルだけが戦場におもむくなんてことは絶対にありえない。


 耳をふさぎたい心地でいると、サキエルが告げた。


「戦勝の英雄が何者かに殺されたらしいです。心臓がえぐりだされ、神の力を持ってしても蘇生は不可能だと……」


 その瞬間、アスモデウスは失神した。

 ミカエルが死んだとしても、まだ心臓があれば一つになれたのに、その心臓が失われたなんて、絶望以外の何ものでもない。


 次に気づいたとき、アスモデウスはゆりかごのなかにいた。長らく意識が戻らなかったらしい。

 周囲に誰もいなかったので、急いでミカエルを探しにかけだした。天使の遺体を保管しておく納骨堂へ行くと、ミカエルは柩によこたわっていた。聞いたとおり、胸が大きく裂かれ、心臓がなくなっている。


「ミカエル……どうして……」


 いったい、誰がこんなことをしたのか。

 ミカエルはこのたびの戦で、もっとも活躍した英雄だ。すぐに位階もあがり、能天使になるはずだった。いずれは座天使にも。そうすれば、楽園でいっしょに暮らせたのに。


 いや、そんなことはいい。

 何よりも大切なのは心臓だ。

 彼の心臓はどこへ消えてしまったのだろう?

 ミカエルを殺害した何者かが持ち去ったのか?


 すると、天上から声が降ってきた。神の代理の異名を持つメタトロンだ。最高位のセラフィムよりも高貴な天使と言われる。メタトロンは地上から神の御許まで届くほどの身長を有するため、誰の目にも止まらない。存在が巨大すぎて、視界に入りきらないのだ。


「なげいてはいけない。アスモデウス。ミカエルの心臓は我々が保管している」

「ほんとうですか?」

「アズライールが見つけてきたのだ。彼は死の天使だから、血の匂いに敏感だからね」

「お願いです。ミカエルの心臓をわたしにください。わたしたちは、つがいです。一つになると誓ったのです」


 しかし、返ってきたのは冷たい答えだ。


「それはなりません。ミカエルの心臓はひじょうに強い魔王の力を何柱も吸収しました。今や天界の宝です。彼の心臓から生まれるのは、神に等しい力を持つ者でしょう。つがいの相手は慎重に精査されなければなりません」


 アスモデウスは落胆し、失意の底で日々、なつかしい唄を歌い続ける。涙があふれ、止まることを知らない。ただミカエルを呼んだあの唄だけが、ほんの少しだけアスモデウスの心をいやしてくれた。


 そのころ、幻を見た。

 いつものように入江で歌っていると、とつぜん、次元がゆれた。異なる時間に通じたことを瞬時に悟った。天使に似た、でも天使より遥かに虚弱で小さな生き物が、目の前に立っていた。信じられないことに、その生き物はミカエルの心臓を手の内に宿していた。


 ——ミカエル。君なの?


 ——ああ。おれだよ。アスモデウス。


 ——わたしたち、まだ終わりじゃない。


 ——そうとも。一つになれる。


 はまだ生きていた。あれは天使を造るときにできた失敗作だという生き物だ。人という。ミカエルの魂は人に転生している。


「待っていて。必ず、あなたを見つけるから」


 決意して、ミカエルの心臓を盗んだ。それはアスモデウス自身が天使でなくなることだったが、それでもよかった。ミカエルと一つになれるのなら……。


 そして、長い長い放浪のとき。

 何度も何度も人に生まれ変わった。痛みや苦しみ、ツライことがたくさんんあった。天使としての記憶も薄れ、いつしか忘れ去った。


 それでも、心のどこか奥底で、ずっと求めていた。


 あの人と一つになれるときを……。


「青蘭。今がそのときだよ」


 ふりかえると、が立っていた。優しく微笑んでいる。


「ミカエル?」

「そうだよ」


 彼が笑いながら手をさしのべてくる。

 あの手をとれば一つになれる。

 やっと、探し求めていた人に出会えた……。


 でも、ほんとに?

 なんだか、頭がかすみ、耳の奥でサイレンの音がぼんやり鳴り渡る。不安な底流が胸をさわがせる。


(ほんとに、この人だった? 僕の探してたの……)


 たしか、ミカエルと出会って愛しあった。とても幸せだった。あの人は黒髪だったような……?


 すると、強引にが手をとった。サッと胸にひきよせられると、めまいがする。


(ミカ……エル……)


 ——もう何も考えなくていいんだよ。いっしょになろう。一つに。


(うん……)


 考えると悲しいことを思いだしてしまう。今度こそはと信じたのに、やっぱり裏切られて、すてられてしまった——とか……。


 だから、もう何も考えない。


 ——さあ。おいで。青蘭。


(うん……)


 だが、そのときだ。

 眠るような心地よいけだるさをやぶり、声が届いた。


「青蘭! 行くなーッ!」


 光のなかに男が立っている。

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