第14話 夢魔の王 その三



 力で負けているわけではない。こっちの攻撃がクトゥルフに苦痛をあたえているのはたしかだ。

 ただ、相手の存在が膨大すぎるのだ。アリが人間の足の小指をどんなにかじったところで、傷つけられる範囲はたかが知れている。それに似ている。


 まだ、やれる。まったく疲労は感じていない。おそらく数日でも、数十日でも戦い続けられるだろう。だが、このまま、いつかは力つきていくのだろうかと考えることが恐怖だった。


 それに、こっちの攻撃に抵抗するように、さっきからあのマインドアタックが再開されていた。風が吹きぬけるたびに、一瞬、意識が遠のく。


 青蘭と初めて鍋をつついたときのこと。

 アパートの窓がこわれて、吹きっさらしの部屋で、二人、コタツにあたったこと。

 桜を見ながらの散歩コース。

 ロココ調のドレスをまとった、お姫様のような青蘭にドキドキしたこと。

 青蘭が少年時代をすごした診療所の地下で見た天使の卵。

 暗闇でふるえていた傷ついた姿の青蘭。

 黒川温泉で二人の心が通じあった瞬間。

 ペアリングをつけて、はしゃいでいた青蘭。


 どの青蘭も愛しい。

 それらすべての青蘭が、龍郎を夢の世界へ誘う。

 もうどうだっていいじゃない。このまま、何もかも忘れて一つになろうよ、と。


(ダメだ。青蘭。おまえが愛しいよ。でも、これは思い出だ。過去のおまえの幻影。おれが救わなければならないのは、過去じゃない。おまえの未来だ)


 遠くなりそうな意識をどうにか保った。龍郎だけなら、また夢に捕まっていたかもしれない。が、飛翔の力を持つガブリエルには、クトゥルフのマインドアタックが効かないようだ。彼に手をひかれて、我に返ったことが何度もあった。


 クトゥルフ。やはり強敵だ。攻撃方法が精神におよぶところが、もっともやっかいだ。


「ふつうの人間なら、ヤツの夢の世界に囚われただけで気が狂う。君は善処しているとも。龍郎」


 そう言って、ガブリエルが励ましてくれる。


「青蘭の位置まで、あとどのくらい?」

「半分は来たと思う。そのぶん、ヤツの抵抗が強くなった。心をしっかり持て」

「ああ」


 時間さえかければ、青蘭のところまで行きつけるだろうか?

 でも、さっきから呼びかけても、青蘭の反応がにぶい。快楽の玉の共鳴が弱い。邪悪な子宮コアのなかで、青蘭の魂がいよいよ受胎に入ろうとしているのだと、龍郎には理解できた。


(青蘭! 待ってくれ。そいつはミカエルじゃない! 青蘭!)


 必死の叫びも届かない。

 触手が時間かせぎのためか、総攻撃をしかけてきた。いっせいに龍郎を狙う。あるいは捕まえて、苦痛の玉を奪おうとしているのかもしれない。邪神は苦痛の玉にちょくせつさわることはできないが、たとえば龍郎の腕ごとひきぬけば、奪うことは可能だ。


(早く——早く青蘭のもとへ行きたいのにッ!)


 これでは、まにあわない。

 青蘭の存在がけがされてしまう。


 そのときだ。

 進軍のラッパを吹きならして、大勢の天使が現れた。


「天使? なんで?」

「いや、違う」と、ガブリエルが困惑の声音を出す。

「あれは、私たちの仲間ではない」

「でも、翼がある」


 天使たちは、まるで羽蟻はねありのように大群で押しよせ、触手を喰らい始めた。恐ろしい勢いで食いちらしていく。


「龍郎! わたしも力を貸すわ。あなたはわたしたちの王になるんですものね!」


 ルリムだった。

 そうだ。彼女は邪神だが、天使によく似た戦闘要員をかかえている。銀色のボディスーツをまとい、フルフェイスのヘルメットをかぶっていた。手にしたバトンのような華奢な棒は、思念をこめれば大砲なみの威力を持つ飛び道具となる。


「ここは任せて。あなたは行って。龍郎!」

「……ありがとう」


 ルリムには代償として自分自身を支払わなければならない。複雑な気分だが、今ここで青蘭を救うためには、ありがたい助力には違いなかった。


 さしもの触手も、これだけ多くの攻撃を受けて、その数を減らしつつある。空洞になった部分を通って、ガブリエルがフルスピードで飛翔する。

 みるみるうちに、赤く脈打つ薔薇が近づいてきた。


「青蘭ーッ!」


 こたえるように、静かに真紅の光が明滅する。

 核はもう目の前だ。


 クトゥルフが咆哮した。

 これまでに何度も聞いたリントブルムの雄叫び。

 まばたきのうちに千もの虚像を見せて、幻惑しようとする。ヤツが侵入させまいと、あがいている。


「行くぞ。龍郎」

「頼む!」


 龍郎が意思をかためると、邪気をはらう光輝がいっそう高まった。するどい円錐えんすい形のヤリのようになり、邪神の肉にグイグイ食いこむ。強い抵抗感。


 そのとき、グレモリーの声がまた響いた。


「今です。行きなさい!」


 一瞬、すさまじい砂嵐が巻きおこり、邪神の動きが止まった。魔力と魔力のぶつかりあい。グレモリーの魔法がクトゥルフのガードを相殺した。


 その瞬間、龍郎たちはコアにとびこんだ。

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