第9話 エメリッヒの肖像 その三
ヨナタンの声音には狂気の響きがある。
龍郎は少年を見なおした。
そうだった。殺人の容疑者は、もう青蘭とヨナタンしかいないのだ。これまでは青蘭がそうじゃないかと疑っていた。二度も青蘭に殺されたし、遺産相続人に選ばれたいという動機が、青蘭にはある。
だが、ここに来て、急にヨナタンへの疑惑が濃厚になった。少年のエメリッヒが子どもを生むなんて、ありえない。だが、できるかどうかが問題ではないのだ。ヨナタンがもし本気でそう信じているのなら、それは立派な動機じゃないだろうか?
青蘭を遺産相続人にするために、ジャマになるライバルや、ライバルと手を組むバイヤーを殺していく……。
「ヨナタン。待て。君は勘違いしてる。君の言ってるのは十五年前に城にいたエメリッヒだ。そのエメリッヒと、今ここにいるエメリッヒは別人だ」
「そんなわけない。あなたは僕からエメリッヒを奪いに来たんだ。エメリッヒは渡さない!」
いつのまにか、ヨナタンの手にナイフがにぎられていた。
「何をする気だ。ヨナタン」
「エメリッヒは僕のものだ」
言いながら、ヨナタンが室内に入ってくる。龍郎を刺すつもりだ。龍郎は青蘭を背中にかばった。ヨナタンが青蘭を狙うことはないかもしれないが、拒絶されれば逆上するかもしれないからだ。
青蘭の手がキュッと龍郎のジャケットをにぎるのを感じた。こんなときなのに嬉しい。
だが、今は甘い気分にひたっている場合じゃない。気をひきしめて、ヨナタンとむきあう。
ヨナタンのすきをうかがっていた龍郎は、すぐに気づいた。よく見れば、ナイフをにぎるヨナタンの両手はふるえている。刃物を持つことになれていない。
そうと見て、龍郎はすばやく間合いをつめた。こっちはいつも剣で戦っている。ムダな動きはない。真正面をさけて、サッと脇につめよると、手首をつかみ、ナイフを叩きおとす。
そのとき、龍郎は感じた。
ヨナタンから妙な脈動が押しよせてくる。あまりにも遠く、ぼんやりとだが、それはどこかで経験したことのある感覚だ。
(なんだろう? この感じ)
ほんのりと感じる歯痛のように、体のどこかがズキズキする?
その感覚を確認しているうちに、ヨナタンは龍郎の手をふりはらって逃げだしていった。すぐに追えばよかったのだが、ひ弱な少年のことだからと油断した。外に出たヨナタンは、そのままドアを閉める。まもなく、ガチャンと金属の音が響いた。外から、かんぬきをかけたのだ。
「あッ! ヨナタン!」
龍郎が扉をたたいたときには、かけ去る足音が遠ざかっていった。
「閉じこめられた」
室内に青蘭もいる。まさか、外から火をつけるとか、このまま放置して二人とも餓死させようというわけではないだろう。おそらく、一時的な激情だ。あとでまた、やってくるに違いないと、龍郎はふんだ。
「困ったな。噴水の下を調べたかったのに」
「ヨナタンは変なこと言ってましたね。僕が彼の母親だとか。僕には子どもを生んだ覚えはないんですけど?」
「前にいたエメリッヒと同じ名前だから勘違いしたんだ」
「前にいたのって、この肖像の?」
「たぶん」
窓は高い位置にある小さな明かりとり用のものだけ。十五センチ四方の穴が一定間隔に四つだ。とても人間が出ていけるような代物ではない。
ドアもあのかんぬきを外さないかぎり、あけることはできない。試しにドアノブをまわしてみたり、かるく体あたりしてみたが、結果は最初の予想どおりだ。かんたんに破壊などできない。
しかたないので、とりあえず時間をつぶすために、龍郎は壁にかけられたエメリッヒの肖像をとりはずした。
「どうするの?」と言う青蘭に、
「この黒い部分の絵の具をうまく削れないかなって」
「ふうん」
ヨナタンの落としていったナイフを使って、顔の黒い部分を削ってみる。かるく刃をあてて、表面を数回なでた。
だが、龍郎は絵描きなわけではないので、力を入れすぎたようだ。思った以上に絵の具が剥がれおちる。下のキャンバスがところどころ見えてしまった。
「あーあ。やっちゃった。これじゃ顔がわからないなぁ」
青蘭は黙って見ていたが、急にクスクス笑いだした。
「でも、髪の色とか、なんとなく輪郭はわかる」
「そうだね」
以前のエメリッヒはどうやらブラウンの髪だったようだ。いや、上から塗られた黒い絵の具が残っているから、全体に影のなかにいるように暗い。じっさいはもっと明るい髪色だったのかもしれない。金茶か、赤毛のような。
(ヨナタンはブラウンの髪だけど……)
しかし、なんだろうか?
顔を失った肖像画を見つめていると、どこかで見たことがあるような気がするのだ。うっすらと残る部分が誰かに似ている。
この感じ、つい最近にも味わった。
龍郎は必死に思いおこした。ほんのつい最近だ。昨日かその前。ここ数日のうちのこと。
そうだ。あのときだ——
(昨日、塔のなかで見た、化け物のような少年。あのとき見た顔に似てる)
絵の具が削れて表面のザラザラしている感じが、繊毛に覆われていた無気味な肌を思いださせる。造作じたいも相似していた。
(エメリッヒはウンディーネになった……)
相似の連鎖。
髪の色。
何かが、ひっかかる。
了
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