第3話 ある契約 その三



「穂村先生。今の話、どう思いますか?」


 書斎を出ると、龍郎は穂村をふりかえった。


「ふむ。まあ、とりあえず部屋に帰ろう。ここじゃ落ちついて話もできん」

「そうですね」


 あの無気味な轟音はやんでいる。しかし、あのタイミングで鳴り響くとは、ただの自然現象にしては、ものすごいぐうぜんだ。何者かの悪意を感じなくもない。


 部屋に戻る途中、ウンディーネの間から出てくるヴィクトールと出会った。ウンディーネはアラブの富豪の客室だ。それに巻毛は乱れているし、シャツのボタンもちゃんととまっていない。朝まで寝ないで商談をするはずもなく、何があったのかひとめでわかる様相だ。


 龍郎が硬直するのを見て、ヴィクトールは笑った。

「あれ? 見られちゃったな」


 沈黙していると、ヴィクトールは近づいてきて、龍郎の耳元に甘い声をふきこんでくる。


「妬けた?」

「いえ! 妬けてないです!」

「そう? 君が彼より高く、おれを買ってくれるなら、いつでも声をかけてくれてかまわないんだよ?」


 ふふふと笑って去っていく。

 龍郎は脱力した。

 たしかに、ヴィクトールは輝く王冠のような金髪の美青年だ。金を払っても欲しいと思う男は、世界中探せば、かなりいるだろう。自分に絶対の自信を持った口ぶりだった。が、龍郎にその気はない。


「くわばら。くわばら」


 祖母仕込みの古くさい魔除けを唱えていると、穂村が冷静な顔で告げる。


「本柳くん。君、あとで彼の誘いにのってみたまえ」

「えッ? なんでですか?」

「この城の謎を解きたいんだろ?」

「いや、おれは青蘭をつれもどせれば……」


「いやいや。青蘭はヤツの術中にハマっている。謎を解かないことには不可能だ」

「そうなんですか。そういうことなら」


「うん。おそらく、ただの愛人契約だと思うがね。あるいは、それ以上の秘密をはらんでいるかもしれない。変態親父のつきつけた契約というのがなんなのか、聞きだしてくるといい」

「そんな……」


 それよりも、早く青蘭と話したいのだが、つれもどせないと言われれば、やるしかない。


 部屋に帰ると、清美が起きて待っていた。


「お腹すきましたよぉ。食堂へ行きましょう」


 しょうがないので、パジャマからスーツに着替えながら、龍郎は穂村にたずねた。


「城主は生きているんだと思いますか? それとも死んでる?」

「または悪魔として蘇ったか、だろ?」

「そうです」

「私にわかるわけあるまい。それより、君のほうが鼻がいい。悪魔の匂いはしないのかね?」


 匂いはする。城じゅうに充満している瘴気のせいで、どこからとは言いがたいのだ。


「じゃあ、息子の誰かが養父を殺したかもしれないっていうのは?」


「それはなきにしもあらず。ベルンハルトはウソをついていない。自分が本気でそう思っていることを供述しただけだ。彼の恐れているのが亡き養父なのか、養父を殺した兄弟なのかどうかはわからんがね。遺産をひとりじめするために、養父を殺した誰かが自分のことも殺しに来ると考えているかもしれない」


「なるほど」


 とにかく、ベルンハルトが苦悩する理由は、あるていど察しがついた。

 また、契約という言葉は気になるところだ。ヴィクトールから聞きだせるかどうかはわからないが、話してみる価値はある。彼は野心家だが、計算高い点を考慮に入れておけば、ざっくばらんに話せそうな気もする。要するに、利害が一致したときは。


(それに、一晩中、アラブの富豪のベッドのなかだったなら、彼にはアリバイがある。昨夜のサラさんの死が殺人だとしても、ヴィクトールは犯人じゃない)


 食堂に行くと、子息たちはベルンハルトとヴィクトール以外、バイヤーはアラブの富豪以外が集まっていた。アメリカ人たちはサラが亡くなったというのに帰る気がないらしい。クリムゾンに確認をとっている声が通りすがりに聞こえた。


「では、ホイットニーの代わりに私が代表者として、商談を続行させてもかまいませんね?」

「もちろんです」


 どうやら、残るらしい。

 龍郎が彼らの立場なら、こんな危険な城からは一刻も早く逃げだすのだが。警告したほうがいいだろうかとも思う。


 しかし、目の前に青蘭がいる。どうしても見つめてしまう。そのあいだだけは時が止まっていた。


 やがて食事が運ばれてきた。フランクフルトやポテトの庶民的な料理を味わう。


 ナイフとフォークをにぎる青蘭の指を見て、龍郎はドキドキした。二人で買ったペアリングを、青蘭がまだつけていたからだ。おたがいの誕生石。青蘭はルビー。龍郎はサファイアだ。

 服はもう以前のものではなくなっている。でも、二人の思い出の品を身につけていることに、希望が見えた。


 しばらくして、ヴィクトールとアラブの富豪が遅れてやってくる。が、ベルンハルトは来ない。亡霊におびえて、食欲もないのだろう。


 少食の青蘭がまっさきに立ちあがる。龍郎はあわてふためいて、コーヒーをいっき飲みした。急いで、あとを追う。


「せ——エメリッヒ」


 声をかけると、青蘭は立ちどまる。龍郎を見て迷惑そうな顔をした。


「君は昨日からなんなんだ。私と取り引きの話がしたいのか?」


 スマホの翻訳のせいもあるが、口調が硬い。

 龍郎は青蘭の手をつかんだ。ふれあえば、苦痛の玉と快楽の玉が共鳴する。青蘭のおもてに戸惑いの表情が生まれる。龍郎の手をふりはらおうとする。


 龍郎はそれを力づくで押さえた。


「忘れたの? 青蘭。おれは君の恋人だ」

「何を言って……」

「君のほんとの名前は、八重咲やえざき青蘭せいら。おれたちは愛しあってた」


 見つめあううちに、青蘭の頬が赤らんでくる。おたがいの脈動がとけあう。それはたがいのなかにあるの音だ。


「思いだして。おれのこと」


 ひきあうように唇をかさねた。

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