幕間 夢のいざない

夢のいざない2



 ふわりと体が宙に舞ったあと、夢が離れた。

 別の夢に迷いこむ感覚があった。それは、次元の異なる世界へ呼ばれるときに似ている。空間がゴムのように伸び、そのあいだを無防備にただよう……。


 気がつけば、となりに誰かが立っていた。いや、龍郎は宙空を浮遊していたから、相手も同様に飛んでいるのだ。


「龍郎」


 相手の姿がよく見えない。霧のようなものに包まれて、視界がきかなかった。


「誰だ?」

「おれだよ」


 くぐもったように、どこか遠くから聞こえる声。だが、存在は近い。


「青蘭はマズイぞ。ヤツの世界にとりこまれてる。このままだと、おまえはとりもどせない」


 ドキリとする。

 声のぬしを知っている気がするのに思いだせない。なぜ、彼は青蘭のことを知っているのだろうか?


「ヤツって誰だ?」

「ヤツはヤツだよ。わかるだろ?」

「わからないから聞いてるんだ」


 すると、彼は何か告げた。だが、風の音がそれをかきけす。ゴーゴーと風がうなる。風圧で体が押し流される。どこへむかっているのか見当もつかない。


「おまえに見せたいものがあるんだ」


 また、とつぜん、ハッキリと男の声が聞こえる。そのしわがれ声を耳にして、龍郎はやっと相手を悟った。


「おまえ、アルバートか?」


 それとも、黒川水月と言ったほうがいいだろうか。

 青蘭のじつの兄だ。

 アンドロマリウスの実験により、天使の卵から生まれた擬似生命体。


 アンドロマリウスによく似た茶褐色の髪が、風になびくのが見えた。


 なぜ、今ごろ現れたのだろうか?

 アルバートは死んだ。

 龍郎が倒したのだ。

 彼は青蘭をずいぶん傷つけたから。


「ヤツはずっと前から、青蘭を狙ってた。青蘭の屋敷を襲ったのは、ヤツとクトゥグアだったろ?」


 青蘭の屋敷——

 それは青蘭が五歳のときに住んでいた生家のことか。当時の館は、クトゥグアによって焼かれ、全焼した。青蘭は全身に火傷を負い、生死の境をさまよった。


「あのときのことは、クトゥグアの仕業だろ? ほかにもいたか?」

「いたじゃないか。よく思いだしてみろ」


 だが、そこで急速に風が乱れた。乱気流に運ばれ、不安定に急降下する。


「アルバート!」

「おれたちは、もう逝くよ。でも、最後に一度だけ、手を貸せる。もしも、ほんとにおれの力を必要としたなら、呼んでくれ」


 そのとき、初めて、龍郎は雲のなかを飛翔するアルバートの姿を見た。彼は竜に乗っていた。ケツァルコアトルだ。巨大な翼竜にまたがり、風を切る姿は、まさしく古代の神のよう。


(あの竜……)


 姿形はまったく違うが、龍郎にはわかった。アルバートの乗るケツァルコアトル。その内に輝く魂が、名月なつきのものだということに。


(そうか。魂を持たずに生まれたはずなのに、名月は魂を持っていた。それは、本来、その体に宿るはずのアスモデウスではなかったんだ)


 おそらく、古代において、アンドロマリウスが使役していた竜だ。いっしょに戦場におもむいた仲間であり、戦友であったもの。

 風を切って飛ぶ姿は幸せそうだ。


(よかった。彼らは生まれ変わるんだな)


 お別れを言いにきてくれたのだろうか?


 しかし、それにしても、この急降下はどうにかならないものか。真っ白な雲海のなかなので、地上まで、あとどれくらいの高さなのかわからない。いや、そもそも、地上なんてあるのかどうかすら謎だ。


 やがて、龍郎はどこかにころがりおちた。衝撃はなく、ただ少し“世界”が変わった気がした。


(ここはどこだ? なんだか暗いな)


 潮騒が聞こえる。

 ザザ、ザザと寄せては返す波音。

 そのとき、雲が流れた。青白い月が地上を照らす。目の前に洋館が建っていた。月明かりで見ても、かなり立派な建物だ。


(あれ? ここ……)


 たったいま話題にのぼったばかりのところだ。青蘭が子どものころに住んでいた屋敷。火事で燃えつきる前の。


 とまどいながらも歩いていった。


(たしか、子ども部屋はこっちだ)


 以前、青蘭の記憶のなかで内部を見たことがある。子ども部屋があった一階の北東奥へと、外壁ぞいに歩いていった。


 いた。青蘭だ。

 ベッドのなかで眠っている。ユニによく似た一角獣のぬいぐるみをかかえている。まだ三つか四つくらいだろう。あどけない。透きとおるような頬も、まつ毛の濃いかげりも、幼な子と思えないほどに美しいが。妖精の国の子どもだ。


(青蘭。可愛いな)


 このまま、ずっと平穏な夢のなかで眠らせてあげたい。

 微笑ましいような、少し切ないような思いで見つめる。


 室内へ入ることができるだろうか。布団がめくれている。あれじゃ体が冷えてしまう。


 そう思って、龍郎は窓ガラスの鍵を調べようとした。視線を動かした瞬間、異様なものが目に止まる。


 最初、それがなんなのか理解することができなかった。ベッドの上に乗っかっているには、あまりにも不自然なものだからだ。


(なん……だ? あれ?)


 青白い腕だ。死人のそれである。どう見ても生きている人の肌色ではない。


 ゾッとして凝視していると、やがて、ベッドのむこうに頭部が現れた。長い黒髪が顔を隠している。


 だが、それだけで、もうわかった。それが、


(青蘭だ……)


 あの、ときおり見る幻影のなかの青蘭。

 死斑の浮いた、死人の青蘭。

 なぜ、こんなところにいるのだろう?


 ゆっくりと、青蘭が顔をあげる。そのおもてを見て、龍郎は愕然とした。

 右目がない。

 静脈の模様が青く浮かびあがる蒼白の肌。それでも変わらぬ美貌ではあるが、右目があるはずの場所には真っ黒な穴があいていた。


「青蘭……」


 我に返り、龍郎は窓に手をかけた。

 しかし、目の前の景色が急速に溶けていく。

 龍郎は必死でその感覚に抗った。どうにかして、今にも消えそうな世界をつなぎとめようと手を伸ばす。

 だが、抵抗の甲斐なく、夢はおぼろにかすんでいった。


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