プロローグ

夢のいざない1



 夢のなかから誰かが呼ぶ。

 青蘭。こっちだよ。

 おれはここにいるよ——と。

 その姿は膨張する光に溶けて、よく見えない。

 でも、青蘭にはわかった。

 その人こそ、長いあいだずっと探し求めていた片翼であると……。



 *


 胸の一番深いところにトゲが刺さって、ぬけない。

 苦痛の玉、快楽の玉、龍郎自身のいずれかをルリムに渡す。龍郎がそれを誓ったのだと知ったときから、青蘭の胸の奥はつねに血を流すように疼いていた。

 この痛みがおさまることはないのだろう。

 つがいの相手だと信じていたのに、裏切られたのだ。


「青蘭。龍郎が君を探している。私にも力を貸してくれと言ってきた」


 セイラムのホテルの一室だ。

 ただし、そこは青蘭が龍郎と眠るためにとっておいた部屋ではない。フレデリック神父のシングルルームだ。


 衝撃の事実を知ってから、そろそろ半日は経過しただろうか?

 涙がかれることはなく、泣き続けるあまり、そのへんの神経がおかしくなってしまったみたいだ。こんなに泣いたら脱水症になってしまうと思うくらい、生あたたかい塩水があふれて止まらない。


「龍郎さ……は、僕のことなんて……どうでもいいんだ」

「そうじゃないだろ? あんなに必死になって探してるんだから」

「…………」


 青蘭は首をふった。

 自分の知らないうちに、なんの断りもなく他者と約束をされていたことが悲しいのではない。龍郎は青蘭と心臓を重ねたいわけではなかったのだという事実をつきつけられたことがつらかった。てっきり、龍郎も青蘭と一つになりたいのだと信じていたのに。


 何かの理由があったのだとしても、苦痛の玉や快楽の玉を手離す選択を、たとえ選択の一つとしてでも認めることができるということは、龍郎にとって二つの玉は、そのていどのものだったということ。

 それが、たまらなく悲しい。


(今度こそ一つになると思ってた。でも、違ってたんだ。龍郎さんも僕のつがいの相手じゃなかった……)


 もうどこにも、そんな相手なんていないのかもしれない。

 違っていたんだとわかってもなお、龍郎を慕う気持ちは変わらないのだが、それがなおさらに自分をみじめにする。途方に暮れてしまう。

 どうやっても辿りつけない。

 この広い宇宙のなかで、たった一人だけのその人に。


 枕に顔をうずめて泣きぬれていると、となりにズシッと重みが来てベッドがきしんだ。大きな手が青蘭の髪をなでる。


「青蘭。私は君を裏切らない」


 ホテルの廊下をさまよっているときに出会って、ここまでつれてきてもらった。どこでもいいから一人になりたかった。龍郎の目に止まらない場所で。そのときは相手が誰でもよかったし、その気はなかったのだが……。


 神父の手でふれられたとたん、青蘭は脈動を感じた。

 苦痛の玉の……かすかだが、まちがいなく……。


 ——青蘭。青蘭……。


(ミカエルなの?)


 ——そう。私だよ。


(あなたと一つになりたい)


 ——もうすぐだよ。青蘭……。


(ほんとに?)


 もう裏切らない?

 もう嘘じゃない?

 ほんとのあなた?


 顔をあげると、フレデリック神父のブルーグリーンの瞳が見おろしている。銀色の髪。優しい微笑み。

 その容姿はミカエルを思いださせた。急速に心臓が脈打つ。


(そこにいたの? あなた)


 ——そうだよ。青蘭。おいで……。


 体をあずけると安堵する。

 帰ってくる場所があった?

 でも、心の底ではわかっている。

 違う。違う。

 龍郎さんが好き。こんなに好き。ほかの誰かじゃダメ。

 でも、龍郎さんは僕のことを愛してない……。


「青蘭。君が悲しいなら、なぐさめてあげるよ? ほんとにそれで君がいいのなら」

「いいよ」

「後悔はしない?」

「しない……」


 何かにすがりついていなければ溺れてしまう。

 青蘭は自分でもそのことがわかっていた。心を保っていられない。壊れてしまう。

 最後に残っていた希望の光が細い糸のように照らしていた道……それがさっき、断たれたから。


 だから、必死にしがみついた。

 思いのほか、神父は青蘭を乱暴にあつかった。でも、それでちょうどよかったんだと思う。我を忘れることができたから。

 熱と狂気と胸の痛みと、止まらない涙。

 その行為のあいだじゅう、龍郎の顔が脳裏から離れなくて、どうにかしめだそう、ふりはらおうとすることに全力をふりしぼった。


 体はほてってヒリヒリする。

 でも、やっぱり涙があふれてくる。


(僕の心の蛇口、壊れてしまった。止まらないよ……龍郎さん)


 泣きじゃくっていると、神父が言った。

「青蘭。君が望むなら、私たちのところへ来ないか? 君を保護するよ。私が片時も離れない」


 青蘭はうなずいたように思う。よくおぼえていないが。

 うつろな気持ちでよこたわったまま、いつのまにか眠っていた。


 誰かが呼んでいる。

 あたりじゅうが真っ白に輝く夢のなかで、光のベールのむこうから、手をさしのべる人がいる。


 ——おいで。青蘭。ほんとはつらいんだろ? 忘れてしまいたいんだ? そう?


(忘れてしまいたい。もう何も考えたくない)


 こんなに愛してるのに、龍郎と一つになれない。

 忘れてしまえるなら、どんなに安らかになれるだろうか。


 ——では、おいでよ。君の望みを叶えてあげる。


 ふれてはいけない気がした。

 でも、青蘭にはもう、それに抗う力はなかった。

 その人の手をとると、安息の忘却が訪れた。

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