2-07『断章/レジストレーション』
黒須大輝にとって、異世界での最初の展開が、いわゆる《ラッキースケベ》に相当するものであったことを――けれど本当に
そもそも異世界に飛ばされた時点で
ともあれ、
――ふと目覚めたとき、そこは大輝にとって異世界と呼ぶべき場所であった。
「……?」
寝惚け眼を擦りながら大輝が意識を浮上させた際、最初に考えたことは「あれ? 掛け布団がどっか行った」という、実に日常的で些末な事柄だった。
当然ながら、ただ起きただけで、そこが異世界であることにすぐさま思い至るわけもないのだ。
だから当時の大輝も、まだ回りきっていない思考では、普段と布団の感触が違うなんてことがわかるわけもなく、だからそこが自室ではないと気づくまではラグがあった。
大輝が、最初に感じた違和感は《広さ》だ。
部屋は暗かった。だが遠くの窓から星明かりらしきものは入っていたし、だから完全に視界がゼロというわけでもない。
なんか広いな、というのはあくまで感覚だ。
大輝の自室のベッドとでは、窓に対して距離も方向も全ておかしい、と論理的に捉えたわけではない。
思考らしき思考は働かず、ただ大輝は漫然と上体を起こして辺りを見る。
なんだかベッドも普段より広い――と、この段階で少しだけ違和感を自覚し始めた。
手探りで辺りを調べる。それもほとんど無意識の行動だ。
するとその直後、何か温かくて柔らかいものに手が触れたことに大輝は気づいた。
「ん……?」
もぞもぞと大輝は、手で触れたものへ視線を落とす。
繰り返すが、室内は暗かった。
時間は夜で、異世界に電気的な光源は存在しなかった。
まあ、だからといって。
すぐ隣で眠っている全裸の少女が見えないほどではなかったわけだが。
「――――――――」
じわじわと回転を始めていた大輝の思考能力は、エンジンが掛かりきることなくそれで再停止した。
脳髄のエンストで、理性の回路が完全にショートしたと言っていい。
同じベッドで見たこともない少女が仰向けの姿勢で全裸で眠っている上に自分の右手は彼女の左乳房に思いっきり触れている――という情報の奔流を処理しきれなかったのだ。
たっぷり十秒は、大輝は動けなかった。
たっぷり十秒は胸に触れたままだったと言い換えてもいい。
「……………………、……!?」
ようやく脳の冷却処理が終了して、思考が徐々に戻ってくる。
だがそれは、同時に大きな焦りも連れてきていた。
何が起きているのか大輝にはまるでわからなかったが、それでも何かの計算が、眠っている少女を起こすなと叫んだのか。
大輝はゆっくりと、気づかれないように手を離そうとする。
あるいは本当の正解択は、眠っている少女を起こし、事情をきっちり説明して、理解を求めることだったのかもしれない。
無論、ここが異世界である時点でそれは不可能だが。
ただいずれにせよ、そっと胸から手を離した大輝の行いによって、
「っ、――ぁ」
吐息が、微かに少女の口から漏れた。
今までは何も反応がなかったはずなのだが。
もしかすると、どこか敏感すぎるところに触れてしまったのかもしれない――なんて、たぶんしなくてもいい発想が大輝の脳裏をよぎっていた。
思春期だった。
大輝は慌てて腕を引っ込める。
もうほとんど反射だった。とにかくこれ以上は一秒でも早く離れるべきだとか、そんなふうに思った、ということなのかもしれない。
ただ、それは文字通りの悪手になった。
程よい大きさで形のいい双丘(注釈:黒須大輝十五歳の感想)が、ぷるり(注釈:黒須大輝十五歳の語彙)と揺れるのが見えた。
もちろんこれは、下半身だけはなけなしの理性で目を向けないよう努力したため、結果的に上半身に視線が集中しただけで、何もガン見していたわけではない(注釈:黒須大輝十五歳の弁明)のであるが、まあ、それはそれとして。
「――――」
さすがに少女も目を覚ました。
そりゃそうだった。
ぱちりと一気に開かれた少女の眼と、隣にいる大輝の目線が正面からぶつかった。
「あ、」
「え、」
虚を突かれ、小さく言葉を漏らした少女。
目覚めて見知らぬ場所にいた大輝と、自室で目覚めて見知らぬ男を見た彼女――どちらの驚きが大きかったかは誰にもわからない。
ただ言えることは、寝惚けて状況理解まで時間を要した大輝とは異なり、少女の反応は非常に迅速だったということ。
暗闇でなお目を奪う、美しい金色の髪が大輝の視界を流れた。
それだけが、目で追える全てのことだった。
土台、異世界に来たばかりの一般人でしかない大輝と、生活の内側に戦闘という概念を持つ異世界の魔法使いとでは、肉体の性能も精神性も全てが異なっているわけだ。
大輝は一瞬で組み伏せられた。
ベッドの上。馬乗りになって自分を押さえ込む、少女の蒼い瞳を大輝は見る。
――すごくかわいい子だ。
なんて、この期に及んでまだそんな悠長なことを考えてはいたけれど。
それでも、明かりを得た室内において――左腕で大輝を押さえ込んだ少女の右手には、なぜか白い光が浮かんでいたのだ――少女の存在ほど目を奪うものはなかったのだ。
「――――――――」
少女は何ごとかを口にした。
それはおよそ聞いたことのない言語で、そういえば目の前の少女も見るからに日本人という顔立ちではないと思い当たり、ただ明らかに怒気を孕んでいることだけはわかって。
「――! ――――――――ッ!!」
「ご、ごめん! いや、別に忍び込んだとかじゃなくて、あの、俺にも何がなんだか!」
それでも日本語で話す以外に大輝にはない。
せめて少女のほうが日本語を理解してくれるなら、まだ望みはある。
彼女の使う言葉で大輝が理解できたのは現状、さきほどの「え」だけなのだが、それでも大輝はここが外国だとまでは考えていなかった。
眠ったときと同じく、日本だと思い込んでいる。
無論、実際には海外どころか地球ですらなく。
「……? ――――…………ッ!?」
あまりにも未知の言語に、眉根を寄せたのは少女も同様だったが。
それでも、彼女のほうは直後に気づく。
目の前の青年が、異世界からの来訪者である可能性に。
「――――」
再び何ごとか呟かれた少女の言葉の意味は、やはり大輝には理解できない。
けれどわずかに、押さえつけてくる腕の力が弱くなったことは感じた。
「あの、……えっと」
とはいえどうしたものか。
この状況で、次にどういう行動をすればいいのかなんて何も浮かばない。そもそもなぜ自分が見知らぬ部屋にいるのかさえ、大輝は知らないのだ。
まして言葉さえ通じない。
大輝にはただ、膠着する時間に流される以外になく。
「……いったんどいて、その……服とか着ない? いや通じてないっぽいけどさ」
せめてもの礼儀として、そんなことを提案してみたりするのだが。
少女は、やはり言葉がわからないようで目を細める。
未だに馬乗りになられたままで、とりあえず大輝は、視線を顔へ固定しながら、露わになっている胸元を手で示した。
大輝の視界で、少女の視線が落ちる。
途端に顔が赤くなる。
押さえていた腕がパッと離れ、胸元を隠すように肩が抱かれる。
――大輝の意識は、ここで一度、途切れることになる。
何が起きたのかは言うまでもないことであるが。
ともあれ次に意識を取り戻したとき、大輝は薄暗い牢の中にいて、それを見張るようにさきほどの少女が(もちろん服を着て)外側に立っていた。
今度は思考が回転した大輝は、その現状を見て「あれ……俺、もしかして性犯罪者だと思われて捕まった?」と、割と本気で焦ることになる。
なにせ弁解できる言語がない。
なんとかコミュニケーションを試みようと、大輝は少女に声をかける。
少女からも(出逢いの瞬間のことはなかったことになったのか)いろいろな言葉や、身振り手振りによる接触が図られたが、生憎ほとんど意思の疎通はできなかった。
結局、大輝は人生初めて、牢屋の中でひと晩を過ごす羽目になる。
もう少し広い視点から見るのであれば、大輝は人生で初めて王城で一夜を過ごしているとも表現できるが、もちろん大輝自身はそれを知らない。
それでも彼にとって、異世界で初めて出逢った相手がその少女であったことは、きっとこの上ない幸運であったのだろう。
そういう意味では、大輝はラッキーと言えたのか。
それともただの運命か。
当時はまだ宮廷魔法師の中でも下っ端にいた少女――リル=リアハート。
彼女が「無理に決まってるのに!」と思いながら、それでも実験した召喚魔法。
世界を超えて《聖剣の適合者》を呼び出す魔法が、なんの奇跡か偶然にも成功してしまって。
黒須大輝は、やがて恋をする少女と出逢った。
とはいえ客観的に見て幸運だったのは、かろうじてここまでだろう。
この直後、大輝はリルとは別の宮廷魔法師によって、脳に魔法を掛けられる。
結果的にそれが失敗して、大輝は精神を汚染され――ほぼ廃人も同然の状態へ陥るのだから。
だから。
大輝がこの次に覚えている光景は、時間が飛んで、少し先。
聖剣を手に入れて、その力によって自身に掛けられた全ての汚染を浄化して、黒須大輝という自我を取り戻した、勇者としての最初の戦い。
そのときに見た――泣きそうな顔で笑うリル=リアハートの表情。
「おめでとう。これで君は自由を取り戻した。ごめんね、ちょっと時間かかっちゃって」
喜びながら悔やみ、復讐に斬り殺されることを受け入れていた少女の顔。
――その壊れるような美しさを、青年はきっと、死ぬまで忘れないと確信している。
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