2-04『All's right with the world』4
場を即座に離れていく大輝を、アダルベルトは視線ですら追わなかった。
そのことに、わずかに熾は目を細める。
それだけで意を察したかのように男は笑い、
「魔女から目を離す愚は犯さんよ」
――魔女。
その呼び方が熾にとって
抑えきれず魔眼を真紅に染める熾。
「私を、魔女とは――」
「呼ばれたからなんだという?」
だが膨れ上がる熾の魔力に、アダルベルトは恐れた様子もなく。
否、どころかわずかな憐憫を滲ませるかのように目を細めて言った。
「どうあれお前が魔女として創られたのは事実だろう。何も怒ることではない」
「何を……?」
熾は困惑せざるを得ない。
挑発であれば乗って返すだけだが、そんな口調でもないのが不可解だ。
アダルベルトは、ただ滔々と事実を語るだけといった風情で。
「何、意味のない戯言だ。どうせお互い、否応なく舞台に上げられただけの駒に過ぎない」
「――それは、」
「私はお前に憐れみを覚えるよ。鳴見
鳴見灼。熾を、魔女へと変えた張本人である、彼女の実の父親の名。
それが出されることに驚きはない。
外部から来て、熾が魔女である事実を知っているという時点で、情報源など限定されるのだから。彼が関わっていることなど前提だろう。
問題があるとすれば、そう語るアダルベルト自身が、まるで灼に対しての恨みを持っているかのように語ったことか。
であれば、灼に協力する理由などないはずだったが。
「あんたは――」
知らず、その意を問いかけてしまった熾。
それを止めたのは、対するアダルベルト自身であった。
「不要な
「……っ」
「私はお前に恨みはないと言ったが、お前は私を恨んでおけばいいだけだ。違うか?」
何も違いはしない。その通りだ。
それを、こともあろうに敵に教えられている時点で酷い甘さだった。
無論、それは前提として熾が主として《接続》を特性である魔術師であることも理由のひとつだったが、かといって戦う相手の事情などいちいち同調するものではない。
アダルベルトはそう指摘し、またそれを体現するかのように構えを取った。
「さて――なにせ私は田舎者でな。術師の儀礼には疎いが、その不調法は諒とされたい。何、不見識の詫びというわけでもないが――」
その瞬間。気づけば男は、もう熾の目の前にいた。
「――せめて一撃で送ってやろう」
拳が、熾めがけて放たれる。
※
誰もいなくなった路地を、黒須大輝は全速力で駆けていた。
その速度はあくまでも常識の範囲内。
この鉄火場で、最高速に近い速さを長く保てる時点で素人ならば褒められるべきだが、もちろん敵はそんな評価で手を抜いたりはしないし、そもそも大輝は素人ではない。
やがて立ち止まった大輝は、ある一棟のビルへと目を向けた。
周囲を覆う人払いの結界。
似たようなものは大輝も異世界で見たことがあったが、このレベルの自然さで、なんの前触れもなく発動されるものは初めてだ。
そもそも人払いとは意識を逸らすものを言い、発動するだけでいたはずの人間を消し去ってしまうことではないはず。
熾は『ちょっとでも気を逸らせば解除させられるはず』と大輝に語った。
それは術式のレベルが高く、そうそう展開を維持できる結界ではないがゆえの推測なのだろう。
ただ、もちろん大輝は、気を逸らす程度では解除されない可能性を考えていた。
「使うぜ熾。どうせ誰もいないなら、派手にやってもいいはずだ」
――たぶんだけど。
そんな内心を表情には出さずに、大輝はそっと自分の右手で左腕に触れた。
包帯のように巻かれていたそれを、まるで手首の部分から引っ張って剥がすかのように右手を引く大輝。
黒い影はその動きに従って左腕を離れ、そのまま剣の形になる。
それは、あの渡会一也とともにいた《魔王》が持っていた大剣である。
熾の《純黒》を鞘として利用して大輝が持ち歩いていたのだ。
普段は黒い布の形で腕に巻いてあるが、それを外せば大剣として引き抜ける。いわば純黒で左腕を鞘にした形だ。
難点は一度抜くと、大輝自身では元に戻せないことだが、大輝が武装できる利点はそれ以上に大きい。
もちろんここで言う《武装》とは、単に大剣を持つことではなく。
「まあ五階ならギリギリなんとか」
言うなり大輝は、舗装された通りの地面を蹴り穿った。
いや、正確には跳躍したのだ。
ただ大剣に熾が刻んだ肉体強化の魔力が働いたせいで、地面がわずかに砕けるほどの勢いがついただけ。
そのまま大輝は、ビルの壁を外側から垂直に駆け上がって五階の窓に手をかける。
人間として見ればあり得ない能力だが、勇者であった頃の大輝なら、駆け上がらずともひとっ跳びであっただろう。それを思えば劣化している、と言えるくらいだが。
いずれにせよ大剣を持ったまま五階の窓に手をかけた大輝は、そのまま右の大剣の柄で窓をぶん殴って叩き割り、身を翻して中へ飛び込む。
「ふざけ……っ!?」
という声を、窓ガラスの破砕音の奥に聞いた。
ほんの一瞬だけ、大輝は窓から下を――通りを見下ろす。そこに変化はない。
つまり結界は解除されていない。
それを横目に確認したのち、改めてビルの室内を大輝は見回した。
思いのほか、綺麗に片づいた室内だった。
どこかのオフィスを思わせるが、使用された痕跡は見当たらない。本当なら、机が一列にずらっと並んでいるのが自然なのだろうか。
――果たして、その敵は部屋の中央で身構えていた。
「くそぉ、なんでここがバレてる……!?」
どこか泣き言のような、少女の声が聞こえた。
結界の術者、なのだろうか。いずれにせよアダルベルトの仲間ではあるだろう。
派手な色のジャケットに短パンという、意外にも陽なスタイルだった。頭部にはバッジのついたキャップを目深に被っており、表情までは窺い知れない。
油断せずに剣を向け、大輝は静かに言った。
「勘だ」
「勘って!」
もちろん相手は、魔力の気配に過敏に反応する大輝の体質を知らない。
結界の中であることと、単純な魔力にはセンサーが弱いことを合わせても、おおよその位置を特定することなら難しくない――より気分が悪くなる方角に進めばいいだけだ。
「一応、言うが。結界を解いてくれないか。でないと、殺して解けるか試すことになる」
無論この発言もブラフである。
殺したくはない、という以前に実力で勝っている保証もない。魔術師が相手ならまずは距離を詰めなければ話にならないため、大輝は壁を登って奇襲したが、この状況で自分が確実に有利である保証などないのだ。
現に少なくとも、結界が解かれる様子はない。
けれど言ってみただけの脅しは、思いのほか強い効力を発揮したらしく。
「ああもうっ、だからわたしにここ守らせるなんて無茶だって言ったのにぃ!」
アダルベルトの仲間にしては弱気な発言が大輝の耳に届いた。
ただ何より気になったのは、彼女の足元――部屋の床に突き刺された一本の短剣だ。
何かしら魔術的なアイテムであることは大輝でもわかる。
とすれば、最も高い可能性はこの結界を作っている元、と見るべきだろう。
さて、抜けば解除されるものなのか。
「ううっ。殺されたら恨んで出てやる、アダルベルトさんに……!」
――オレにじゃないのか……。
などと思わず考えてしまう大輝だったが、ともあれ相手に引く気はなさそうだ。
ならばと大剣を構え直そうとする、――その直前。
さっとキャップを上げて、目の前の少女はその顔をこちらに向けた。
「――――――――」
理性と本能が喰い合い、大輝の動きが硬直する。
本当は、顔をすぐに逸らそうと思った。熾のような魔眼を警戒したからだ。
だが動けなかった。
大輝は、正面から少女の眼を――その顔を見てしまった。
とはいえ、動けなかったのは魔眼などによる拘束のせいではない。
彼女はそんなものを所有していなかったし、大輝になんの影響も与えていない。
少なくとも直接的には。
大輝が固まってしまったのは、その顔に見覚えがあったからだ。
そしてそれが、この世界で会うはずのない――二度と会えないはずの顔だったからだ。
知らず、大輝はそれを言葉にしていた。
――かつて異世界で、どこにも行けなかった大輝を連れ出してくれた大恩人。
「……リル……?」
異世界に囚われ、脳を改造され、廃人と化した見も知らぬ青年を。
ただ正義感だけで救い出し、国を裏切ってまで守ってくれた魔法使いの女の子。
勇者ダイキの旅の仲間と同じ顔が――そこにあった。
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