2-03『All's right with the world』3
店を出た大輝と熾は、そのまま連れ立って斎に渡されたメモの部屋へと向かっていた。
地図に従って駅前の大通りを歩く。
熾が使っていた部屋とそう離れてはいないが、別の建物らしい。そういった自由に扱える部屋をいくつも所有しているのだろうか。
雪丸斎という人間の正体については、あまり詮索しないほうが賢明なのかもしれない。
「にしてもアジト……秘密基地か」
小さく、大輝は呟く。
男の子の琴線を割とくすぐる単語ではあった。
「なんかちょっとテンション上がるな。楽しみになってきた」
「へえ? それ少し意外かも。大輝でもそういうこと言うんだね」
手に握った鍵を見つめながら目を輝かせる大輝に、熾は薄い笑みを返す。
「別にオレでもってことはないと思うけど。小さい頃は自分で作ってた気もするし」
大輝にだって小学生や中学生だった時期があるのだから。
その当時は、幼馴染みの
「でもほら、大輝って一応、勇者様だったわけじゃん? 今さらそんなのでテンションも上がんないかなって思ったんだけど、そうでもない?」
「あー、まあ
「ふぅん……そういうものかー」
「うん」
衣食住を満足に確保できることは幸せなのだ。
それは、それだけで恵まれている。少なくとも大輝はそう認識していた。
あの過酷な異世界でも、大輝は多くのものに恵まれてきた。自分はとても幸運だ。
「大輝の小さい頃って微妙に想像できないかも」
かつての旅を思い返していた大輝に、ふと熾がそんなことを言った。
「そうか? ……それこそ微妙な感想って感じなんだけど」
「あ、ごめん。いや別に悪い意味じゃないんだけど。ほら、私にとって大輝は、出会った瞬間から変わってたっていうか……少なくとも普通ではなかったじゃん?」
「頷きづらいけど、経歴を考えれば否定もしづらくて困るね」
自分以外に異世界経験者なんて奴を見たことがないのだ。
それが変わっていると表現されるのなら、違うとは大輝も言えなかった。
「でも大輝にだって、普通にこっちで暮らしてた時期があるんだもんね。ていうか時期で言うなら、それこそつい最近まで大輝は一般人だったわけで」
「まあ、そうだな……向こうにいた時間が長かったから、印象的にはだいぶ昔だけど」
その意味では、長い異世界生活から再び地球の社会生活に適応できるよう、自分自身をチューニングし直すのにかなり手間がかかった。
あるいはまだ終わっていないとも言えるだろう――主に成績とか。
異世界分の時間が計上され、地球で失踪人扱いになってしまうよりはマシだろうが。
「それが、なんかイメージ湧かないなって。昔の大輝ってどんなだったんだろ」
単純な感想、という体で熾は言う。
少し考えてから大輝は答えた。
「どうもこうも、ごく普通だったと思うけどね」
「どうなんだろうなあ。私はちょっと疑わしいと思ってるけど」
「なんで……」
「急に異世界に飛ばれて、世界を救って帰ってこられる人は普通じゃないでしょ」
「そう大きなことみたいに言うけどさ」
「大きなことでしょ、実際。だって世界だよ?」
「それはそうだけど……それは、それができるだけの力を与えられたからって話だよ」
「聖剣ってヤツ?」
「そう。アレ持ってりゃ誰だって勇者って話なだけでさ。オレがすごいわけじゃないよ」
「…………」
卑下するふうでもなく、それが当然の思考だというように大輝は語る。
そんな彼を見上げ、熾はわずかに目を細めた。本当にそうなのだろうかと思ったのだ。
実際、それが少なくとも大輝にしか扱えなかったことは事実なのだろうから。
「……聖剣か」
そして英雄――どうなのだろう。
そう呼ばれていた存在が熾の元に現れたことは、果たして本当に偶然なのだろうか。
わからない。わからないことを無為に考えるなど魔術師の選択でもない。
だから熾は思考を捨て、大輝に向き直って雑談に戻った。
「ま、どっちにしろそれでよかったのかもね」
「ん? よかったってなんだ?」
首を傾げる大輝。
伝わらなかっただろうか。まあ、伝わらないくらいでいいのかもしれない。
だから答えなかった。なんでもない、と軽く告げて熾は前に向き直る。
「こっちの話。それより早く行こ? あんまり遅くなっても、ご家族に迷惑でしょ」
「……それは確かに。最近、家族の心証をあまりに損ねがちだからな、オレ」
割と真面目に苦々しげな顔をする大輝に、思わず笑みが零れた。
大輝と話すのは楽しい。だからよかったと言ったのだ。
もし大輝が異世界へ行っていなかったら――それに選ばれる人間でなければ、熾は彼と出会えなかったかもしれないのだから。
こうして出会えたのだから、それでよかったのだと熾は思っている。
それだけは、絶対に間違いではないと信じるように。
もっともそんな台詞は言葉にできなかったから、軽く誤魔化して道を進んでいく。
後ろから大輝がついて来るのを、雑多な喧騒の中、足音と気配で確認しながら角を折れると、
――直後、大宮の街から音が消えた。
「えっ……?」
と呟いたのは、果たしてどちらだったのだろうか。
そのとき熾が理解できた事実は、ただ周囲から突如として人が消え去ったことだけ。
世界から人が消えていた。
理解できない。魔術という不可思議を体現する彼女ですら理解が及ばない。
つまりその現象には理屈が存在しない。
咄嗟に魔力を励起し、熾は臨戦態勢へ突入する。
「……どうなってる?」
すぐ横に立った大輝がそう訊ねた。
熾は答えを持っていない。ただ彼が傍にいるということは、驚くほどに心強い。
「わからない。でも、警戒だけはしてて」
「まあ……普通じゃないよな、この状況は……」
ある意味、それを教えてくれている時点でありがたい。
なんて発想が出てしまう大輝は、悲しいまでに修羅場慣れしている。
ただ大輝に言わせてみれば、基本的に荒事において、自分が役に立たないということは明白なのだ。
熾の協力がなければ、黒須大輝は単なる高校生に過ぎない――大前提だ。
だからこそ、ほぼ唯一の武器と言っていい冷静さだけは失うわけにいかない。
考えることしかできないということは、考えることをしなくていいというわけではなく、むしろ誰よりも考えるべきだということである。
とはいえ大輝に魔術関係の――地球における不可思議の知識はない。
ならば状況を考えるべきだ。
周囲から人が消えたということは、裏を返せば大輝と熾のふたりだけが残されたということ。無論、人為的な現象であることに疑いの余地はない。
だとするのなら、
「――オレたちに用があるなら言ってくれ!」
「大輝……!?」
迷うことなく大輝は声をあげた。
応じる声があれば、あるいは交渉可能な相手である可能性が出る。なければないで敵対的であると迷いなく判断できる以上、その行為に損はない、という判断だった。
あるいは、これで今はまだ見えていない相手の位置が把握できる可能性もある。
大輝は、ほんの数秒ほど反応を待った。
すると果たして、大輝の問いに答えるような声が響く。
「話が早くて結構なことだ。ゆえに問いに答えよう――当然、君たちに用件があるとも」
男の声だった。
見れば人の気配のなくなった道の行く先に、ひとりの男が立っていたのだ。
まるで初めからそこにいたとでも言わんばかりに唐突に、けれど明白な存在感で確実に。
幽鬼のように、揺らめいていた。
「私の名はアダルベルト=ヴィーズネル。《追放連盟》のリーダーだよ」
男――アダルベルトは、自らの名と所属をあっさり明かす。
けれど、誰だってそれを友好の証と捉えるはずもない。現に彼は続ける。
「故あって、君たちを殺害しにやって来た。話し合いを持とうとした心意気に応じ、抵抗しないのであれば苦しませず
話し合いを初めてわかったことは、話し合いにならないという事実。
「……答える必要あるか?」
「問う意味はあったと心得る」
「なるほど。日本語は上手なのに話にならないな」
「この国は長い」
アダルベルトは表情を変えずに言う。真っ当に返答があることが奇妙に思えた。
枯れた大木のような男だ。名前の通り海外の血が入っているようだが、日本語の発話に違和感はない。
白が混じった灰髪と、細身でいながら巌のように鍛えられた体躯が老獪な存在感を纏わせている。
ひと目見ただけで、肉体的な強度が感じ取れていた。
熾を筆頭に、外見からかけ離れた強さを発揮する魔術師たちとは違う。大輝はその姿を見た瞬間に察することができた。
――真正面から戦ったら、勝ち目がないだろう、と。
もっともそれは自分の話。
熾であれば、抗うことは充分に可能なはずだ。
「……どうして俺たちを狙う? どっかで恨みでも買ったか?」
「初対面だよ。君たちに思うところなどひとつもない」
「なら――」
「答える意味があるか?」
「……訊く意味ならあったさ」
同じ言葉を応酬し合い、大輝もいくつかのことを察していた。
彼自身が大輝たちを目的としていないのなら、何者かの依頼なり恩義なり、そういった類いの理由なのだろう。あるいは別の目的に大輝たちが邪魔になったという可能性もあるだろうが、アダルベルトの答え方はおそらく前者を匂わせていたと思う。
それを紳士的と捉えるのは好意的に過ぎるだろう。
要するに容赦はないということだ。
「……どうする、熾」
小さく、大輝は隣の熾に問うた。闘争か、あるいは逃走か。
コトを構えるとなれば、控えめに言っても大輝は足手纏いになる。熾の魔術で瞬間的に戦力になることは可能だろうが、それは継戦能力と引き換えだ。
魔術の反動で、大輝は自身の肉体を傷つけてしまう。
回復には
なにせ大宮という、大都市と言っていい場所の一区画から人間丸ごと消せるのだ。
この場所から逃走できる――という保証自体がそもそも存在していない。
「……どうもこうもないでしょ」
大輝の問いを受けて、熾は静かに答えた。
その瞳は、すでに真紅に染まっている――魔眼の発露だ。
「二対一だからね。この程度で負ける理由がない。――何よりも」
「……熾」
「そいつは大輝まで殺すって言ったんだ。私を目の前に、その発言は許せない」
熾は、怒りを湛えていた。
殺意が向く。目の前の敵に向け、その命に価値を見出さない魔術師の瞳。
否、――魔女の双眸。
「やろう、大輝」
瞬間、熾の掌から黒い拒絶が零れ落ちる。
《
触れるもの全てを否定する、魔女の能力。
それは魔女の怒りを表現するかのように渦を巻き、抗いようのない力を見せつける。
「……大輝、ひとつ任せていい?」
渦がふたりと敵を分かつ中、小さな声で熾が言った。
大輝は迷いなく答える。――熾は冷静だ。なら全てを信用する。
「言ってくれ」
「――敵はひとりじゃない」
「…………」
「奴自身が言ってたでしょ、自分が追放連盟だって」
「言ったな。さっきも聞いた言葉だ。それが?」
「詳しく説明する暇はない。けど、ひとつわかってることがある。《追放連盟》の人間は必ず
大輝が状況を把握するのなら、熾は自身の知識を以て方針を組み立てる。
それを、大輝は疑わない。彼女が言ったことならば、事実と前提して行動できる。
「ここは私に任せて、大輝はそっち探して、これ解除させて。たぶん、ちょっとでも気を逸らせば解除させられるはず。できなかったら……そのときは、」
「こっちでどうにかする」
「ごめん」
「お互い様だ。あの男は任せた」
「うん。――行って!」
その直後、ふたりは別々の方向へと駆け出した。
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