第二章
2-00『断章/フラッシュバック』
――火を見ている。
揺らめく、それは仄かな記憶の陽炎だ。暗くて何も目に映らない、奈落のような闇の奥深くに、たったひとつだけ揺れている炎が見えたのだ。
その炎が、始まりだった。
――熱が肌を刺す。
炎が次第に勢いを増した。それはきっと、全てを焼き払う灼熱の始まり。どんな熾火も丁寧に育て上げることで無上の
火とは、全てを焼くものだから。
――声が聞こえる。
誰のものかもわからない声。その出どころを私は覚えていない。ただそれらが懐かしく親しげな響きであることはわかった。
無垢で穢れを知らない、少女の声音。
――匂いを感じる。
それは、人の焼ける匂い。さきほどまで聞こえてきた声の主が炎に焼かれていく。穢れなき少女たちは、今や呪いを残すだけの機構となった。
罪を焼かれ、怨嗟に沈む。
――鉄の味がした。
私は何かを喰らっていた。血を啜り、命を喰らって生を繋ぐ。遍く命は命を喰らう。
中でもヒトは、生むよりも喰らうほうが遥かに多い、生産性に欠けた最低の生き物だ。
――ああ……。
何も、何ひとつ思い出せない。焼かれていたのは私ではないのに、記憶の全ては焼却の彼方で灰となって、今ではその痕跡しか感じ取れないのだ。
覚えているのはわずかなことだけ。私の五感は、その程度にしか機能を果たしていないということ。
ただ為すべきを為しているのだと、私は信じて疑わなかった。
何も思い出せない。
思い出すべきだという思いと、思い出してはならないという思い。
私にはそのどちらが本物なのかさえわからなかったけれど、記憶の根幹が焼かれ、その焦土に何も遺っていない以上、どちらであっても同じこと。
どうせ取り返せやしない。
だから。
瞳に焼きついた炎も、肌に感じた温度も、ずっと友達だと私を呼ぶ声も、その声の主の肉が焼ける臭気も、舌で舐め取った鉄の味も――私に、その由来なんて何もわからない。
思い出すことを魂が拒絶している。
これ以上その先のことを思い出してはならないのだと――、
※
「…………っ、」
その日、
寝汗が酷い。熱源の前でじっとしていたかのような汗で、寝間着がしっとりと肌に貼りついてしまっている。
あまり夢は見ないのだが、見るときはだいたい悪夢な気がする。
すぐにでもシャワーを浴びたかったが、その前に熾は日課を始めた。
「――――」
あらゆる外界からの刺激を意識から
そこで見つかるのは《扉》だ。胸の辺り――心臓の位置近くに相当するが、無論、実際には存在しない器官、架空の門である。
それを、ゆっくりと押し開いた。
扉が開かれることで、その奥から魔力が発生する。
イメージは火。
熱が膨れ、火炎が迸る。
扉を開いてバックドラフトを発生されるような意識が近いだろうか。
魔力という炎が、自らの内へ流れて一気に全身を埋め尽くした。
精神によって扉を開き、魂から発生する魔力を、肉体へと行き渡らせる。
魔力の光――赤い輝きが、閃光のように一瞬、胸から手足へ、中心から末端へと走っていく。
血管が、鮮やかな赤い光の線で表現されたかのような様子だった。
魔術の基本。魔力を引き出し、それを十全に操作して、自らの内側へ充満させる。
熾が毎朝、必ず行う反復訓練だ。今となってはほぼ無意識で可能だが、それでも完璧な制御ができているわけではない。
日常的には、それで問題があるわけではなかったが。
「……まだまだ、か」
イメージの問題でもある。適性と言い換えてもいい。
熾の魔力は勢いがあって力強いが、その分だけ制御に難があった。それは誤差のようなもので、逆に制御できても出力が弱くては困るのだから一長一短の関係だが、両立できるなら、それに越したことがないのも事実だった。
本来なら問題になるようなものではないのだが、今の熾にはそれを流せない。
「……まだまだ、だよね」
熾は、
血の継承がない一代目の魔術師だったが、少なくとも己が適性を完全にモノにしていたことは間違いない。
それは間違いなく彼の魔術師としての才能で、比べれば、熾は自分が完全に劣っていたと認めざるを得なかった。
戦えば勝てたかもしれない。
だがそれは魔女術ありきの話であったし、何より魔術師の本懐ではまったくない。
競うべきは強弱ではなく優劣で、それが負けていたという話だ。
実際、熾は自分の《接続》という魔術適性を大して活かせていなかった。
否。それをあまり育てられてはいなかった、と言うべきだろう。
研磨して劣化を防いでいただけ。自分という素材が、作品として完成していない。
仕方のない話だ。
急いて方向性を見誤れば、素材から破綻してしまう。
魔術師としての完成形を定めきってしまうには、十四という歳は早すぎるのだ。
駄作だろうと完成は完成。
そうなっては、手が早すぎて手遅れだ。
傑作を目指すのならもう少し見極めるべきだ、と周囲からも言われていた。
だが。本当に、それでいいのだろうか?
そういう焦燥を熾は自覚している。
なにせ熾と争うなら魔女術の対策は必須。誰だってそう考えるのだから、熾はその上で何ができるのかを考えるべきなのだ。
枕元に置いてあったスマホが鳴ったのは、そのときだった。
アラームより先に目覚めたから、それが鳴ったのかと一瞬だけ勘違いしかけた。
だが、どうやら着信が来ている。
手に取って、ベッドの上で熾は通話に出た。
「もしもし。――あ、うん。前回はありがとう、役に立ったよ」
伝手を用いて格安で借りている、大宮駅近郊の高級マンションの一室。
あまり魔術師の住処というイメージではないそこに、誰かと話す熾の声が響いた。
「そっか。
スマホを置き、通話をスピーカーに切り替えて、先に熾は寝間着を脱いだ。
下着姿になりながら体をほぐし、朝の時間を有効に使いつつ通話先の声に答える。
『やー、まあほら。あたしもいろいろ忙しくってさ。お姉ちゃん、部屋から出ないし』
「……私、
『実在を疑ってるの!? 言ったじゃん、引き籠もりなんだよー。レアキャラなの。たまに様子を見に行かないと。シチサンは信用できないからなー……やれやれだよ』
「知らないけど……」
『あり、会ったことなかったっけ? あーまあ、会わなくてもいいか、あんなオッサン。ともあれ熾ちゃん無事なんだし、ひとまずいいんじゃない? お疲れさんでしたー』
「……和谷さんはともかく、雪丸さんがいてくれればもう少し楽だったのに。もうこっち戻ってきてるんでしょ?」
『うんまあ、
「どこそれ?」
『んにゃ、知らんなら別にいいんじゃないの。ただのお使い』
「また誤魔化すし……」
『仕事だったのは嘘じゃないですー! てかドンパチに巻き込もうとしないでよ。あたしなんか役に立たないんだから。荒事は熾ちゃんと
割合、親しそうな会話ではあった。
その内容が、あまり表沙汰にできない社会の裏側の人間たちによるものでなければ。
『例の男の子……
「……うん」
その名前が上がることに、熾はどんな表情をしていいものかわからなかった。
黒須大輝――世界でも類を見ない異世界帰還者。
代行とはいえ、この街の管理権限を一部預かっている以上、責任としてその存在を報告しないわけにはいかなかった。
本当なら、彼をあまり魔術師の世界に巻き込みたくはなかったのだが――。
『仄火サンが会いたいってさ。都合つけといて』
「……本当に?」
『嘘言ってどうすんのさ。だいたい当たり前でしょ普通に』
その通り。彼を巻き込んだのは熾であり、何を言ったところで今さらの話だ。
言い訳などできた義理ではない。
この期に及んで立場を決めかねるほうが悪いだろう。
『今日の昼には店に戻るって言ってたからさ。早いほうがいいんじゃない?』
「……わかった。大輝に話してみる」
不承不承、とはいえ頷かないわけにもいかず、熾は答える。
その反応をどう思ったのか。通話越しに届く女性の声が、少しトーンを落として。
『ぶっちゃけ、あたしも顔は見ときたいんだよね。黒須大輝クン』
「な、なんで雪丸さんが……」
『なんかしばらく無理そうなんだけど。どーも仄火サン、ちょっとばかし厄介なことに今なってるっぽくて。たぶん、その辺の話もあると思うんだけど』
「え……そうなの?」
『詳しくは知らんけど、まあ感じとしてね。――でも、やっぱり気になるじゃん? あの熾ちゃんに、ようやく男っ気が出てきたっていうんだから。姉としては興味津々よ?』
「だ……誰が姉かっ! てかそういうんじゃ――」
『まあまあ。ともあれそんな感じなんで、あとよろしくにー。ほんじゃまた』
「ちょっ……」
止める間もなく通話が切られる。
置いたスマホを、熾は強く睨みつけるが反応のあるはずもなく。
「ああもうっ!」
熾は苛立ち交じりに、脱いだぱんつを放り投げると。
全裸のまま、いろいろと諦めて服を拾い、それから浴室へと向かった。
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