1-27『幕間話/黒白』

「ふ――、はは。ははははは……いやまったく、手酷くやられたねえ」


 大宮という街の夜。

 その片隅で、ひとりの男が呟いた。


 名を、渡会わたらい一也かずや


 魔に属する超越者である彼が、けれど今は緩慢な動きで、ひと気のない路地裏へと逃げ込んでいる。

 大剣に殴り飛ばされ、立体駐車場から転落して地面に打ちつけられたのだ。

 それを思えば、意識を保っている時点で幸運なのかもしれない。


「いやあ、参った……ふ、ただの経過観察に留めておけばよかったものを……やれやれ。少し欲を出しすぎた。舞い上がってしまうとは、――おや、実に私らしい」


 誰も聞く者がいなかろうと、渡会一也は常に饒舌だ。

 なぜなら、彼の言葉はあくまでも、自らに向けたものでしかないのだから。


「しかし、ふふ……よもや異世界の勇者が地球に存在するとはね。勇者、……勇者だよ、勇者ときたモノだ! 特異的な能力は保持していないようだったが、ああいや、それでもあの強さ……精神性に着目すべきという教訓かね。いや何、得意分野ではあるが」


 魔力を傷の回復に回しながら、渡会は得た情報から考察を重ねていた。


 


 もちろん今いる場所にはひと気がないが、彼が立体駐車場から落ちてこようと、重傷を負っていようと、その存在には誰も目を向けていなかったのだ。

 それが彼の魔術特性だった。

 息子である渡会空也が召喚魔術――言い換えれば《空間の短縮接続》――に適性を持つ魔術師だったのと同じく、父親である彼も空間に関連する魔術適性を持っていた。


 ただし。彼が操るものは物理空間ではなく、精神空間だ。

 人の意識の間隙を見抜き、あるいは突き、他者の認識を操る魔術特性。

 身体操作など、彼にとっては付属品程度の能力であり、まるで本質ではない。むしろ、周囲を囲っていた結界魔術のほうが、渡会という魔術師の本領には近かった。

 人間の意識を空間として捉える、精神の構造建築家。ゆえの《心空うらから》の二つ名だ。


 その能力をもってすれば逃亡など容易に行える。

 そもそもの話、あの場で魔女や英雄を殺しきらなければならない理由もなく――彼の余裕はその辺りに起因していた。


「は、は……。やはり、あらたかくんの長年かけた計画のほうが優先度は強いか。いや、王権を魔女から奪えれば最良だったが、何、気長にいこう。精神の時間は無限大だ……それに、もしあの魔女が王権の保有者として覚醒することがあれば、――それはそれで」


 ――面白くはあるだろう。


 信頼などという空虚な精神空間の装飾品インテリアに踊らされている若者たちは、その事実を理解してはいないのだ。

 あのとき渡会が彼に告げた言葉は、奇しくも本質を突いていた。


 なぜなら、――


 当然だろう。

 相容れないどころか敵対することが宿命だと言ってもいい。


 片や、

 片や、


「ああ……それはそれで、見てみたいと揺らいでしまうのが私の悪癖なのだろうな」


 王権を獲得する――世界を滅ぼせる存在になるという、あまりにも常軌を逸した目的を本気で志しているだけでも厄介だったが、あるいはそれ以上に。

 そんな人生を懸けた目的さえ、その場の勢いで捨ててしまえる破綻した精神性こそが、彼を超越的な魔術師たらしめる要因なのだろう。


 だが。

 だからこそ。


 ――だからこそ知らなければならない。



「ああ、こんなところにいた。まったく探させるものではありませんよ、――面倒な」



 魔に属する者であるからこそ。

 自らと比べ、より深き魔には踏み躙られるという事実を。


「…………なんと」


 渡会は驚きに目を見開く。

 その声が、明らかに自分へ向けられたものであったからだ。

 本来の才能を発揮し、誰にも認識されない状態ではずである渡会が、である。


「え? ああ……うるさいですね、わかってますよ。こちらの都合に付き合わせて申し訳ありませんでした。ええ、ええ、埋め合わせはします。だからそうカリカリせず。面倒になってきます。というか第一、彼を気遣えと言ったのは貴女のほうでしょう。静かにしていてください、また気持ちが悪くなっても知りませんよ」


 渡会に声をかけたはずの人影は、けれど直後、どこか虚空に向かって声をかける。

 いや、違う。

 渡会にはそれがわかった。


 彼女は確かに、たったひとりで、けれど何者かと話している。

 まるでとでも言わんばかりに――。


「さて、すみません、時間を取らせましたね。これ以上はありませんので、ええ。どうぞ気楽になさってください。――できれば、ひと思いに済ませたいという慈悲はあります」

「……まさか」


 その存在感に、渡会は目を見開かざるを得ない。

 そこに立っていたのは、どこにでもいるごく普通の女子高生だった。少なくとも、その外見上は。

 けれど違う。

 明らかに――明らかすぎるほど明確に、は違うものだった。

 ただそこに在るというだけで狂おしい魔力圧。それが極力抑えたものであることが――すでに渡会とは比較にならないその力が、限界まで加減されたものだとわかる絶望。


 黒須大輝のあの言葉を、渡会は遅れてようやく理解した。

 ――これが、在るということが、わからないなんてはずがない――。


……だと? 馬鹿な、すでにそれが、実在しているとでも……っ!」

「……はあ。そんなふうに私を呼ぶ者は珍しいですね。別段、そんな権限に興味もなし。普通はもっと、通りのいいほうの呼び名で私を表現するものですが」


 ああ、それはそうだろう。その通りだ。

 魔術師であれば、その怪異のことを知らぬはずがない。

 そうだ。

 なるほど確かに、それはこの世界において、魔王と称するがあまりに相応しい怪物たちの王である。


「……実物を見るのは初めてだ。なるほど、この街はとうに魔都であったのか! ここがあまりに安定しない理由は、すでに王が実在していたから……ッ! いや、否! それが示唆するは明白だ! なるほど王権、座はひとつ限りではなかった! そういうことなのだろう! 正解だろう? なあ、――真祖よ!!」

「はあ。まあ、何やら勝手に盛り上がられているようで恐縮な感じですが。とりあえず、やるべきは済ませることにしますね」


 く――、と少女が、前に出した片手を軽く振るった。

 それだけだ。触れられたわけでも、まして攻撃を受けたという自覚すらないのに。


 それでも――その掌の上には、があって。


「…………ああ」


 渡会は視線を下に向け、自らの胸に手を当てる。

 傷はない。けれど同時に、そこに感じるべき鼓動も存在しない。


「――かふっ」


 ごぽり、と口の端から赤が漏れ出ていく。

 どうやらこの肉体はすでに死んでいるのだと、渡会はようやく自覚した。


「すみませんね。私、静かに暮らしたいものでして、貴方みたいなのは迷惑なんですよ。まあこの街が歪んでいるのは、貴方の言う通り私のせいですが。だからこそ……ええ? ああもう、だから眠っていなさいと言ったのです。見なければいいでしょう、もう」


 途中から、すでに少女は渡会に声をかけてはいなかった。

 だがそれは酷い。それはあまりにもったいない。

 こんなところで、せっかく怪物の王に出逢えたのだ。その奇跡は、たとえわずかでも無駄にしたくなかった。


「ああ、ああ……! そう無体な素振りはしないでいただきたい、王よ。この邂逅という奇跡に私は感動しているのだから! 嗚呼、最後にひとつくらいは質問を――」

「――ええ、こわぁ。私、だから魔術師って苦手です。人を化物呼ばわりする癖に、自分自身の異常性には無頓着とか、どういう恥知らずなんでしょう。端的に言って面倒です」


 言葉の直後、――ぐちゃりと心臓が握り潰される。


 それと同時に、渡会一也は事切れた。

 血を吐き、地に倒れ伏す。


 少女はわずかに息をつき、それから億劫そうに首を振る。

 直後、その手を濡らしていた赤が、まるで肌の中へ吸い込まれていくように消失した。


「ふう。食事というには風情もないですが、約束もあるので我慢しましょう。それより」


 視線を、少女は路地の奥へ向ける。

 それから言った。


「出てきて構いませんよ。別に隠れる気もないようですが、その気配は私に対してだけは隠せません。知っているでしょう? ので、お気遣いなく」

「……まあ実際、驚いてはいるんだけど」


 路地の奥から姿を現したのは、果たして――白髪に金眼の少女であった。

 黒須凪。大輝の妹であるはずの少女は、けれど今、普段の淑やかで落ち着いた印象とはかけ離れた、棘のような印象を纏っている。


「――朝妻あさつま唯架ゆいか


 凪は、目の前の少女の名を呼んだ。

 大輝の幼馴染みであった少女の名前を。


「まさか吸血鬼だったなんて。道理で気に喰わないと思ってた」

「はあ。そちらの世界にも鬼の概念はあるのですか? まあ別にどうでもいいですけど、正確にはです。唯架とは良好な関係を築いているつもりですが、だからこそ、その名で呼ばれるのは不適切というものでしょう。できれば訂正をお願いします」

「じゃあ化物とでも呼んだらいいのかな。悪いけど、あんた見てると殺したくなってくるから、あまり馴れ馴れしく声をかけないでほしいんだよね。それって機能の問題だから、私にはどうしようもないわけだし」

「はあ……こちらも貴女や、その影響を受けている彼が近くにいると、聖性に当てられて唯架の体調が崩れてしまうのは変わらないのですが。私のせいなのに私は平気というのはいかにも申し訳なく。――ところで、そちらはあまり良好な関係ではないようですね」

「――――」


 鋭く、凪の――否、の視線が鋭さを増す。

 その威圧を受けてなお、は涼しい顔で。


「並行世界からわざわざ連れ出してきた実の妹……その存在を丸ごと同調させ、素知らぬ顔で同居する精神には感嘆せざるを得ません。私が言うのもなんですが、なかなかに人外めいた発想と評さざるを得ませんね。彼が知ったらどう思うか――」

「――


 重く告げられた言葉に、吸血鬼は軽く肩を竦める。


「そうですか。いえ、どうでもいいです。幼馴染みなのは唯架のほうで、別に私には関係ないですからね。まあ貴女が同調しているせいで、唯架は彼とも話せなくなりましたが」

「……それでもマスターは、大輝は私の主なんだから。そんなの知らない。それに凪ともちゃんと話はつけてる。どの道、お互いほかに選択肢もなかったし。この子だって、会えないはずだった兄に会えて喜んでる」

「その気持ちにつけ入ることで利用しているの間違いでは? いえ、別に責める気は特にないんです。どうでもいいので。――けれど、貴女は彼を、元の世界へ連れ帰るつもりでいるのでしょう? それに、妹さんがついて行くことはできないはずですけれど」

「……なんでお前が」

「知っているのか、ですか? まあ、これでも長生きなもので。この状態を生きているというのなら、ですけれど。なるほど面白い策ではあります。彼に、この世界が並行世界であると――この世界に居場所がないと信じ込ませることで異世界を郷愁させる。かつての世界に再び帰りたいという同意を得る。――

「うるさい。黙れ」

「そうします。喋り疲れました」


 淡々と吸血鬼は語る。実際、本当にどこか億劫そうな様子ではあった。

 黒の彼女は首を振ると、それから視線を白い少女へと向けて。


「それで? ここへ来たということは、貴女はとしてその役目を全うすると?」

「……別に。あんたが動くから見に来ただけ。警戒はするに決まってるでしょ」

「ならもう用はありませんね。私はこれから唯架の機嫌を取らなくてはなりませんので、早めにお暇させていただきます。それでは」


 言い切ると、彼女は――地球における魔の世界の王は、歩いてその場を去っていく。

 それを見送った少女――異世界における聖剣の精霊も、また静かに夜の闇へ消えた。


 片や、と、

 片や、は。




 誰に知られることもなく、この街の中で生きていた。

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