1-26『元英雄に曰く』5

「が、ぐ……かはっ」

「おいおい、さきほどまでの威勢はどうしたね? ちょっと本気を出したくらいで威勢が削がれてしまっては、子どもの遊びに付き合う大人の立場がないだろう」

「づ、ぅあ……っせえ、な……」


 痛みに呻きながらも立ち上がる大輝。頭の奥で現状を判断する。

 身体能力が、さきほどまでとは比較にもならないほどに向上していた。大輝程度はもう超えている。それこそ、異世界の戦士すら思い出すレベルだ。

 その渡会は大輝に対して、くい、と掌を曲げて向かってこいと示す。


「っ――らあっ!」


 再び地を蹴って、大輝は渡会へ向かっていく。

 あえて格闘戦を挑んできたのは、それが憂の異能に対する効果的な対処だからだろう。憂自身が戦うならともかく、機能を下げる異能は援護にまるで向いていない。

 対象として渡会を指定できるなら、彼の打撃力や移動力といった機能を堕落させる、ということもできたのだが、それはできないと憂から聞いていた。


 大輝の右の拳が、渡会めがけて振り抜かれる。

 もちろん、正面からの拳が当たるはずもない。

 渡会は軽く躱す――わかっていた。

 半身の姿勢になって待つのは、渡会からの反撃である。それを押さえて、カウンターで体勢を崩すのが大輝の目的だった。だが。


「甘い」

「ぎ……っ!?」


 瞬間移動かと錯覚するような身のこなしで、左の足の甲を渡会に踏みつけられる。

 痛みに呻く隙を突き、渡会の右腕が迫ってくる。大輝は咄嗟に左腕をガードに回すが、信じられない威力の殴打は大輝の防御をそのガードごと貫いてみせた。


「が、あ――おらあっ!」


 この短期間に再び左腕をへし折られた大輝は、それでも気力で堪えて右足を振るう。


「おっと」


 だがあっさりと、軽く身を引くだけで渡会はそれを躱した。

 追い縋ろうとする大輝に、直後、渡会の左手が目元に向けて伸びてくる――伸ばされた人差し指と中指は、目潰しを狙うものだろう。

 急所狙いの攻撃だ。

 それを受けるのはまずい、という反応が大輝にもたらされる。寮の手を使って、顔を庇うように攻撃を弾いた。その直後、


「――ぅ、ぶ……っ!?」


 腹部を殴打され、腹の中から空気が漏れた。

 左手の目潰しはフェイントで、がら空きになった腹部を、空いた右手で貫いたのだ。

 呼吸を強制的に止められる。それはさらなる隙を生み出すということ。


 喉元へ伸びてくる腕を、もう大輝は防ぐこともできない。

 喉輪の形で首を掴まれてしまう。

 そのまま、大輝の体は片腕の筋力だけで、宙へと吊り上げられていく。咄嗟に両手で喉を掴む腕を押さえたが、締める力は次第に強くなる。


「ふむ、まあこんなものか。なんの訓練も積んでいない一般人にしてはがんばったほうだと思うよ。おめでとう。君はなんて凄いんだ。手が空いていたら拍手を贈るところさ」

「か――――、あ、……はっ」


 上に意識を向けさせて、空いたところへ本命の一撃を叩き込む。理に適った、基礎的な格闘の戦術。

 それに大輝が一方的に押されている理由はひとつ――身体能力の格差だ。

 動きの鋭さから筋力、反射の速度まで、肉体の性能スペックが圧倒的に劣っているのだ。


 魔術によって底上げされているのだろう。だが、それだけとも思えない。

 突如として、身のこなしまで洗練されたのだ。

 とても格闘技を修めているようには見えない渡会が、いきなり長い年月の修練を積み重ねたとでも言わんばかりの変化。


「それ……も、魔術、か……っ」

「……この状況でよく喋る。いやいや、大いに素晴らしいとも。そして、その通りだよ」


 喋るというなら渡会だって大概だ。

 睨む視線に、その意図を込めたところで伝わるまいが。


「そう、これが魔術だ。君がどれほど己の能力に自信を持っているのか知らないが、その程度の研鑽は、こうも簡単に埋められてしまうものでしかないということさ。自己の傀儡化は専門というわけではないのだが、力の差は充分、思い知っただろう?」


 それは事実なのだろう。

 魔術師と、魔力を持たない人間との、それが埋めがたい格差ということ。


 土台、黒須大輝に戦う力など存在しないのだ。

 異世界でどれほどの力を振るおうとも、ここは地球であり、大輝は単なる高校生でしかない。


 我を通そうとするのなら力がいる。

 それは暴力に限らない。たとえば知力であり、財力であり権力であり、あるいはほかの力であるのだろう。

 そのいずれひとつを取ったところで、大輝には何もないだけで。


「思い知ったのなら諦めたまえよ。ずいぶんと上が気がかりなようだが、今さら間に合うはずもない。そう急いで後を追いたがるほど、君は熾くんと親しかっただろうかね?」

「っ……、あ」

「そんなことはあるまい? うん、私は君をもう少し高く買うとも。魔女に感情移入して未来を投げ出すほど、君は愚かな人間ではない。違うかな? 違わないだろうさ。彼女は元より人類の敵としての素質を磨かれてきた人間だ。君のような人間と相容れることなどあり得ない。賭けてもいい。この先、君は必ず彼女と決裂する。決定的に決別する。そういうものなんだ。そういうものなんだよ、魔女という生き物は。そう、君が悪いわけじゃない。アレは魔女であり、君は人間だ。違うものとは相容れない。それだけの話なんだ」


 滔々と、ただ語りたいことをひとりで渡会は語っている。

 それは対話ではない。彼が話す相手など、そもそも自分以外にありはしないのだ。


「……っせえよ」


 だから。それがわかるから、大輝はあくまで声を出した。

 呼吸は苦しい。可能な限りの息を吸う。体重を支えているのは、喉元を握る渡会の手にかけた自分の腕だけ。

 ――


「なっ」


 驚きの声は渡会のもの。

 当然だ。その手を離しては、重力に従って体は落ちる。

 首を吊っているのと同じだ。


 ほんの一瞬。

 体を支えるものが首を絞める腕だけになった瞬間、大輝は両手を握り込むと、上下から挟むように、自分を押さえる渡会の腕を思いっ切り打ちつけた。


「ぐっ……!」


 下へ重さが加わり、大輝の体が地面につく。

 直後、大輝は乱暴に片足を振り上げ、腕の痛みに怯んだ渡会に蹴りを放った。


「っ――づぁあっ!!」

「ぬ……!?」


 彼我の距離がわずかだけ離れる。

 大輝は口元を押さえ、堪えきれずに咳き込んでいたが、それでも解放はされていた。


「かはっ、えほっ! げほっ――だあっ、くそっ! 舐めやがって!」


 強く、目の前の男を睨む。

 だがこの期に及び、やはり渡会には意味が理解できない。


「なぜまだ折れない……?」


 手折るべきは心だった。だからわざわざ、肉体の性能だけで相手をしてみせたのだ。

 力の差など充分すぎるほど理解できているはず。こんなことをしても、時間稼ぎにすらなりはしないことがわかっているはずだ。

 なのにどうして、彼は自分を睨むのか。


 その疑問に頭を悩ませる渡会へ、大輝は言う。


「うるせえ、舐めるな。――そう言ってる」

「……舐めるな、と言われてもね。こんなことをしたところで君は――」

「――だからオレじゃねえ。っつてんだ、どいつもこいつも!」


 大輝の目は未だに生きている。

 なぜか。

 彼だって痛いほど理解しているのだ。


 自分の力は目の前の男に及ばない。ここまで手を抜かれてなお、手も足も出ないほどに力の差があるのだから。

 そんなこと初めから理解していて、だから絶望たり得ない。


 なぜなら大輝は、ひとりで戦っているわけではない。

 無論、それは憂のことではない。彼女も手を貸してくれはしたが、分が悪くなればすぐ逃げるだろう。別に、それはお互いの契約なのだから構いはしなかった。


 何も問題はない。

 だって大輝は熾を信じている。


「あいつは言ったんだよ、最初に。あの夜、会ったばかりのオレに向けて。って――当たり前みたいに断言したんだぞ」


 熾は、魔女と契約を結ぶ意味を大輝はわかっていない、と言った。

 だがそれは違う。大輝は、その重さを初めから充分すぎるほどに理解していた。


「そのときの目をオレはきちんと覚えてる。あいつは本気で言ったんだ」


 目の色を見た。魔眼が赤く輝いていた、なんて話ではない。

 その瞳が映し出す、覚悟の色を大輝は見たのだ。

 それは異世界で、今にも滅ぼされそうな人類の中で、戦うことを決意した者たちの目と何も遜色がない強い瞳だった。

 その色を、黒須大輝は決して見間違ったりはしない。


 ――


 死にたくなかったわけじゃない。帰りたかったわけでもない。聖剣を渡されたからでもそれが役目だったからでも強くなりたかったわけでもない。

 それらも嘘ではなかったが、そんなモチベーションで戦い続けられるほど、安い暮らしを送ってはこなかった。

 ただ、きっと誰もがその瞳に浮かべることができるはずの、取るに足らない、なんでもない――けれど見惚れるほどに美しい覚悟の色に、共感してしまっただけなのだ。


「だからオレは熾を信じた。お前があいつの何を知ってるのか知らないが、あいつはお前なんかに負けるような奴じゃない――オレは、それを信じてる」

「…………」


 その言葉の意味が。

 やはり、渡会には欠片たりとも理解できなかった。


 心を折るには熾の死体を投げればよかったということだろうか?

 そんな、あまりにも見当違いな考えが浮かんでくるだけだ。


 彼にとって、信頼とは自己に賭すものであり、決して他者に懸けるものではないから。


 だから、まるでわからない。

 この期に及んで、熾を心の底から信じて笑ってみせる者の心境など――。


 渡会一也に、読めようはずがなかった。


「第一、何が魔王だ。この上に魔王がいるだって? 何を馬鹿なこと言ってんだ」

「……何……?」


 挙句に重ねられた大輝の言葉に至っては、もはや言語としてすら認識しがたい。

 折れていないのではなく、追い詰められて狂ったということだろうか。そんなことすら危惧する渡会に、大輝は深く息をつきながら語る。


「現実逃避かね? 悪いが現に――」

「見えてねえのはお前のほうだ。いや、見えてないから言ってんだよ。当然だろ。本物の魔王ってのは、こんなチンケなものじゃねえよ。この距離にいて何も感じない程度の奴が魔王であるはずがない。魔王っつーのは、もっとのことだ」

「……なぜ君に、そんなことが、わかると――」

「わかるさ。だって、わからないはずがないんだから」


 なにせ、ここに来るまで以前のような気持ちの悪さを何も感じなかった。

 今ならわかる。

 あれは異世界と繋がったことで、魔物からがゆえの感覚だったのだと。だから、その場に行って倒さなければという焦燥があった。


 魔王の気配というのはそういうものだ。

 力を失っていることとは何も関係がない。何も知らない一般人が相手でも、それを見た時点で終わりだと悟らせる狂おしいほどの存在感が魔王にはある。

 ――ここには、ない。

 だから。


「オレが保証してやる。一度は魔王を倒した人間が断言してやる」

「……待て。君は、何を言って――」


 そう。彼は――渡会一也はついぞ知らなかった。

 目の前の青年は、ただ異世界に行っただけの人間だと思っていたからだ。


 そうだ。想像のできようはずもない。

 よりにもよって、その青年が異世界では、聖剣を携え魔王を討伐した勇者であるなどと――そんな三文小説じみた現実が、本当にあり得るとは誰が思おう。

 何も知らない魔術師に対し、かつて世を救った英雄は断言する。


「お前が何を見たか知らないが、そいつは魔王じゃない。この世界にそんなものは必要がない。そんで、その程度の敵に熾は負けない。負けるはずがない――そうだろ!」

「――


 答える声と、そして、からんという乾いた金属の音がした。

 渡会は弾かれたように背後を振り返る。そこに見た。



 ――紅い瞳で、血を滴らせる魔女が、悠然とこちらへ歩いてくるのを。



 彼女が歩くたびに、金属の擦れるような音がする。

 その手には、渡会も見覚えのある巨大な体験が引きずられていた――すなわち。


「本当に、打倒したのか……アレを!」


 それは本当に計算外だった。

 鳴見熾が、よもやそこまで完成に近づいていようとは。


 もし青年の言う通り、それが魔王ではないのだとしても、いいや、確かに王権を失った存在であろうとも――それでも今の鳴見熾の完成度で敵おうはずがなかったのに。

 それはそれで、興味深いことは事実だ。

 渡会は歓喜に目を見開いた。


 だが。

 魔女は、魔術師に対して視線すら投げなかった。


「よかった。間に合ったみたいで助かった」


 そう言って、熾はへたり込むみたいにその場へ腰を下ろした。

 ところどころが傷だらけで、血に濡れている。

 だが致命傷と言うほどの怪我はない。


「よう。ぼろぼろだな、熾。ずいぶん強い奴と戦ってたみたいじゃん」

「ああ……まあ、ん。そうだね。正直、マジで五回くらい死ぬかと思った。ったく、念のため《純黒》を腹に巻いてあったってのに……それごと折られそうになるとかあり得ん」

「でも、勝ったんだろ?」

「どうだか。捨て身で近づいて封印しただけ。だって死なないんだもん――てことで」


 そこまで言って、初めて熾は渡会に視線を向けた。

 眉を顰める彼に対し、右手の中に握っていたものを彼女は投げる。


「返す。――そんなもの、いらない」

「これ……は」


 足元で、跳ねることもなく静止したものは、ピンポン玉大の真っ黒な球だった。

 それが熾の《純黒》で創られた球体だと見て取った渡会は、それに遅れて理解を得る。


「っ……殺せないと悟り、封印したか!」

「仕方ないでしょ。体が靄でできてる奴なんか殺しようがないし。捨て身で近づいて鎧をひん剥いて、あとは《隔絶》の黒の中に閉じ込めてやった――っつー、あいてて……」


 言葉で言うほど簡単な行為ではない。破壊の概念を持つ無形の靄を相手取って、それも最速で封印しようとするのなら、おそらく危険な賭けに出たはずだ。

 だが、完成さえしてしまえば完全な封印だった。

 この《隔絶》の塊は、もはや何をしても破壊できない。なにせ中に入っているもの自体が、破壊の概念の結晶なのだ。体積から言っても、完全に無効化されている。


「大輝!」

 驚く渡会に構わず、熾は言う。

「というわけで、もう限界。もう歩けない」

「なら仕方ない」

 それに大輝は、軽く笑って。

「あとは任せて、そこで見ててくれ」


 渡会は困惑する。

 事態は、だって何もまだ解決していないのだから。

 大輝は戦力にならないし、熾もまた万全ではない。二対一でも簡単に負ける気はなかったし、最悪でも逃走は可能だろう。

 だが、それどころか、この状況でふたりがかりで来ないというのは――。


「そっか。――じゃあこれ、使って」


 熾はこめかみに流れる血を指で拭うと、手元の大剣に紋様を刻んだ。

 そしてその体験を、《純黒》を使って大輝へと渡す。


「聖剣使いだったんでしょ? だったらそれも使えるよね」

「ぜんぜん違うけど……いや、これは」


 大剣を手に持った大輝は、少し驚いたように目を見開いた。

 それを見て取って、熾はわずかに口角を上げ。


「残りの魔力、大輝に貸しとく。たぶんあとで酷いことになるけど、我慢してよ?」

「……なるほど。確かに、これならなんとかなりそうだな。ありがとう、熾」


 重さなど感じていないとばかりに、軽く二度、大輝は大剣を振った。

 渡会は理解する。

 熾は、大剣に身体強化の術式を刻んで彼に渡したのだ。


 単純な、けれど魔女の魔力によって行われる暴力的なまでの身体機能の底上げ。

 だが、


 ――愚かな。


 そう断じざるを得ない行為だ。身体能力とは、上げればいいというものではない。

 肉体に無理を強いることで、あとから来るフィードバックを無視したとしても、急激に向上した身体能力を十全に扱うことなど常人にはできないからだ。

 意志を越え、冗談みたいに動く体は、まともに歩くだけでも精いっぱいになってしまいかねない劇薬である。

 そんなものを切り札と勘違いするなど、実に愚かしい。


 そうとわかっても渡会は油断なく前を見据える。

 余裕そうに振る舞っていても隙は作らない。格下につけ込まれて死ぬ魔術師なんて腐るほど見てきたのだ、渡会は獅子の在り方を心得ている。――ゆえに。

 それは決して隙を突かれたのでも、油断につけ込まれたのでもなく。



 ただ単純に、全力でなお見えなかっただけの話。



 気づけば渡会は吹き飛ばされていた。

 鉄骨の柱に激突し、意識が断絶しかかるほどの衝撃が全身を襲う。

 それでも痛みを咄嗟に抑え、意識を切らさないのはさすがに魔術師であったが、理解はまるで及んでいない。

 何をされたのか、それさえ渡会は把握できず――直後。


 目の前に、大輝の拳が迫っていた。


「―――――――――ッ!!」


 術式を全開にし、強制的に体を横へ回避させる。

 自身に不可視の糸を結び、操り人形として限界を超えた動きを強制させる渡会の魔術であった。格闘技など学んだこともない彼が、大輝を翻弄できた理由である。

 奇しくも、それは境内での戦いの折、熾が拙くも編み出した《純黒》の新しい使い方に似ており――ここで最も意味を持つのは、それをという事実だ。


 渡会は、そんなものを見ている余裕がもはやない。

 自身の優れた術式を、完全に回避のためだけに使わされたことに渡会は驚愕し、その上で、大輝の視線が逃げる渡会を完全に捉えていることにさらなる驚愕を突きつけられた。

 動きを完全に捉えられている。


「……まだズレがある……思ったより動きづらいな」


 さらにふざけた言葉が耳朶を打った。


 馬鹿を言うな。

 ここまで身体能力が急上昇して、しかも渡会のような補佐もないまま、それでまともに動けている時点で常軌を逸している。あり得ない。


 ――この男はなんだ?


 初めての動きでは絶対にない。さきほどまでより、むしろ動き方に親しみを感じているかのように自然な動きだった。

 まるで、とでも言わんばかりに、黒須大輝は当たり前のように肉体を使いこなしていた。


 いや。

 ――本当に、持っていたことがあるのだとすれば。


「まあでも、うん。慣れたわ」

「はは、言ってくれる……化物かね君はっ!!」


 目の前の男は確実にここで殺さなければ、もうどう転ぶかわからない。

 このとき渡会は、完全に大輝を始末する方針へ頭を切り替えた。人間の限界を超越した身体能力に、慣れ親しんだ高校生――そんな馬鹿げた異常者には付き合えない。


「――《人形劇マーヤー地に伏せバーレスク》ッ!」


 さきほどは不発に終わった、身体拘束の魔術を発動する。

 愛子憂がまだどこかにいるのか、それともとうに逃げたのかは不明だ。

 だが、いずれにせよ今の動きに、もはや彼女では合わせられない。ならば拘束してしまえるはずだ。

 事実、魔術は発動した。


 そして大輝は――


 身を捻り、剣を振るって、床から伸びる糸を、一度受けたときの記憶を頼りにして大剣で切断してみせたのだ。

 魔術が発生してから、実際に到達するまでの、ほんのわずかなタイムラグ。

 それだけで充分だと言わんばかりの、それは確信を持った身体運用。曲芸と呼ぶのも生温い、芸術めいた絶技――。


「同じとこに伸びてくるんじゃ、二度は通じねえよ」

「は――まったく楽しませてくれるね!?」


 低い体勢で、地を蹴って大輝は駆ける。獣の如き速度だった。

 狙いが定まらない。

 無駄打ちは隙を作るだけだが、逃げ回るにも限度があった。


 ただその刹那、ほんの一瞬、大輝が顔を顰めて速度を落とした。

 さきほどの傷が響いたということだろうが――その隙を渡会は逃さない。

 再び魔術を発動しようとした、その瞬間。

 ――大輝が消えた。


「ま、」


 詠唱など間に合うはずもなかった。

 最初の一音と同時、その声は、渡会の背後から聞こえた。


「遅えよ」


 否、――

 渡会は痛感する。

 信じがたいことに、大輝はまるで全力を出してはいなかったのだ。

 スピードをセーブし、全速の上限を錯覚させた。これなら魔術に頼れる、と渡会に判断させたということだ。

 隙を作ったのも意図的だ。

 痛みに苦悶したと見せかけて、実際には体勢を低くしたのは跳躍のためだった――なにせ大輝は、のだから。

 身体能力が高ければどうにかなる、などという次元をもう超えている。


 ――遠巻きに見る熾は、けれど納得していた。

 あれが、

 なのだと。


 そう、熾の手助けなど、大剣に身体能力を強化する術式と魔力を仕込んだだけ。ほかは全て大輝が持っている能力の発露だ。

 たとえ同じだけ身体能力を強化しても、こんな、脳味噌のタガが外れたみたいな機動はとても真似できない。しようという気にすらならないだろう。


 本当に、心の底から尊敬する。

 これは疑いようもなく、大輝が努力で得た力だ。

 そんな彼が、――ずっと自分のことを信じてくれていたという事実に、少女は微笑む。

 そして、それとほぼ同時。


「――終わりだ!」


 渡会の背後を取った大輝が、大剣を両手に持って腰に構える。


 回避も防御も、もはや間に合うはずもない。

 自身の敗北を悟った渡会は、けれど自身の理論の証明たる存在を前に、悔悟どころか歓喜を得ていた。


 曰く――。

 遍く世界はそれ自体を守るため、滅亡を回避する自動的なシステムが働いている。だが一方、存続することが危機をもたらす世界、すなわち滅ぶべき世界も存在する。

 破綻を防ぐため、世界を滅ぼす権利――《魔王権》を得た存在のみが、一個世界を滅亡させる権限を行使可能となる。それなくして、世界を滅ぼすことはできないとされる。

 権利とは存在の格だ。それを得るということは、惑星の支配種――すなわち霊長よりもひとつ上の段階の魂へ育つということだ。

 だが他方、滅ぶべきではない世界に王権を得た者が現れた場合、それに対する対抗策もまた世界には必要とされた。

 それは常に魔王権の対としてのみ存在する――いわば《救世権》。


 たとえば。

 それが転じて《聖剣》を手にした者が、もしも存在するのならば。

 それは世界に選ばれた英雄だ。

 悪と対を為す善だ。

 それが実在するということは、逆意、この世界を滅ぼす権限も存在するということで。



 ――歓べ、灼くん。君の娘は――きっと人類の敵になれる。



 大剣の一閃が、渡会を打ち抜く。

 フルスイングの鉄塊は、魔術師の意識ごと、その身体を彼方へと吹き飛ばした。

 そのまま渡会は、立体駐車場を飛び出し結界の外へと落下していく。


 同時、大輝は剣を置いて息をついた。

 ――魔術が切れる。

 肉体を膨大な魔力によってブーストしていた術式が効果を終えて、強大な力の反動が一気に大輝へとフィードバックされた。


「ご、ぶっ……が、は……」


 喉の奥から、血が零れてくる。

 体の至るところが、だいぶ想像したくない感じになっているらしい。


 当然の反動、当然の対価だった。

 あれほどの身体能力を、生身の人間が振るった以上、代償は支払わなければならない。まして、大輝はもともと痛めつけられていた。


 そのまま立っていることもままならずに、大輝は前のめりに倒れ込む――寸前。

 地べたへ倒れないよう、小柄な魔女が英雄を受け止めた。


「わ、……とと。思ったより大きいかも……」

「……熾、か……」

「喋んなくていいから。それどころじゃないでしょ、死ぬよ? ――十野さん来るまで、大輝は寝ててよ。……お疲れ様。守るどころか、守られちゃったね」

「……っ」


 意識が、急速に薄れていくのかわかる。

 限界なのか、あるいは熾が何かしたのだろうか。――頭が働かない。

 ただ彼の耳に、小さく言葉が聞こえてくる。


「……本当にありがとう。信じてくれて、嬉しかった」


 それはきっと、ずっとひとりでいるしかなかった少女の、心からの感謝の言葉で。

 だったら答えなくちゃと思う。

 ひとりで抱え込まなくてもいいと、もうとっくに自分は熾に救われているのだと、その礼を――ちょっとずつ返しているに過ぎないのだと。


 だって、あの夜、もしも彼女と出会わなければ。

 間違いなく大輝は死んでいる。

 その恩が、この程度で返せるはずがない。


「お、き……」


 ――だから。

 言葉にすればきりがない思いを、薄れていく意識の中で、なんとかひと言だけでも伝えようとして、大輝は最後に言葉を作った。


「……ずっと、いっしょに……、いる、から……」


 そして、そう言ったのを最後に。

 黒須大輝は、微睡みの中へと意識を手放した。

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