1-25『元英雄に曰く』4
時間は少しだけ遡る。
家で張り紙を見た大輝は即座に駆け出し、まっすぐに駅への道を戻っていた。
――そんな彼に、かけられる声があったのだ。
「ちょちょ、早いっス、速いってば! どうしてそう思い切りがいいスかね、キミは!」
相変わらず、気配なんて微塵も感じられなかった。
それでも大輝は驚きはしない。
なんとなく予感があった、のかもしれなかった。
「……憂か」
「やっぱおねーさんとは呼んでくんないんスねえ。まあ名前呼びも悪くはないっスけど」
先日と変わらない、掴みどころのない飄々とした態度。
それを不快だと思えず、むしろ好感すら覚えてしまうのは、彼女の人徳だろうか。
「憂のほうから来るとは思ってなかった」
大輝は言う。憂は肩を竦めて、
「それはキミが女の子を放置するからじゃないっスか。連絡先を渡したんスよ? まめに連絡取らなきゃかかった魚も逃すってもんス」
「自分から来てるじゃん」
「そうっスけどね。約束の報酬、まだ貰ってないもんスから」
無論、それは先日の一件で、彼女に見逃してもらうための依頼料。
――大輝が、異世界の記憶を持つ者だという情報だ。
ただ少し意外なのは、憂がその情報をまだ知らないということだった。
あの夜、自分が異世界経験者だという事実は思いきり口に出してしまっている。
目を細める大輝に、憂は小さく笑い。
「異世界経験者――なんスよね?」
「……知ってるんなら報酬は払ったことになると思うんだが。見てたんだろ。それを憂が見てることも含んでのことだったんだが」
「いやいや。あたしは単に聞いただけっスよ。あの結界の中の顛末は、戦闘の終了まではあたしも知らないんスから。あれ作ったの私じゃないっスし。これはあとから、あたしが自分で得た情報っス。後払いにしたのが悪いんスよ? それ以上を払ってくれないと」
「それ通らねえだろ普通……」
阿漕なことを言う憂に、大輝は呆れ顔を向ける。
それでも憂は、笑顔のままでこう続けた。
「そっスか? なら――妹ちゃんの情報と交換にしたげても別にいいっスけど」
「…………」
あっさり告げられた言葉に、大輝は表情を変えなかった。
予想は、できないわけではなかったからだ。
それを確信に変えるべく、大輝は問う。
「――凪を攫ったの、お前か」
「そうっスよ。おっと、正確にはあくまで運びの仕事だと思ってほしいっスけど」
あっさり、悪びれもせずに憂は肯定する。
誘拐の実行犯は自分であるのだと。
「キミの家は、熾ちゃんの警戒網があるんで危ないっスけど、妹ちゃんのほうが外にいるなら関係ないっスからね。喫茶店で会ってたのも、実は知ってたりするんスよ?」
油断も隙もない、とはこのことだろうか。直接的な戦闘能力は高くないようだが、憂の能力はそんなものより遥かに厄介だ。
大輝は小さく首を振った。――やはり怒る気にはなれない。
「凪は無事だろうな」
ただ小さく訊ねた。
「その返答次第でオレも態度を決める」
「おお、お兄ちゃんしてるっスねー。やっぱ弟に欲しいっス。――ああ、そう睨まないでくださいよ。無事っスよ。でなきゃここで接触するわけないじゃないっスか。堅気さんに手は出さねっスよー」
「攫っといてよく言うよ……」
「こっちも危ない橋はいくつか渡ってるんで。そう邪険にしないでほしいっスね」
確かに、黒幕と接触する前に
むしろそれを教えてくる憂の思惑のほうが気がかりだった。
「……まさか裏切ったのか?」
「まさかっスね。表立った覚えもないっスけど。元から味方じゃないし、それでも請けた仕事分はきっちりこなしてるんで。ご心配には及ばないっスよ!」
「してない」
「そう断言されるのも悲しいっスねぇ……ま、キミが動くならあとはどうしてもいい、と言われてるんで。この件に関しては契約の範疇外なんス」
したたかなことを言う憂に、大輝は問う。
「そうか? 人質がいないなら行く必要もなくなったが」
「――キミは行くっスよ。このまま、必ず」
そんな鎌は通用しないと、憂は断言した。
大輝は息を呑む。そんなふうに言われるとは想像していなかった。
「それじゃ同じことの繰り返しっスから。また攫われて、今度はきちんと人質として利用される可能性がある。少なくともキミはそれを否定できない。なら行くしかないっス」
「……その通りだな」
「でも、そしたらキミは死ぬっスよ」
あまりにも当然のように、憂はそれを言った。
大輝は無言だ。そんな可能性は、だって初めから考慮に入れていた。
「今回の依頼人は、いたくキミにご執心のようっスから。気持ちはわかるっスけど理由は違いそうっスね――それはともかく、キミじゃ魔術師には勝ち目がないっス」
「…………」
「ああ、わかってるっスよ。異世界の経験のせいなんスかね? キミは一般人とはとても思えない判断力があるし、身体能力も高い。あたしも一度出し抜かれたッス。けどそんなもの、本物の魔術師にはとても通用しないんスよ。意味がないっス。いいっスか?」
人差し指を立てて憂は語る。
あるいはそれは、彼女なりの忠告だったのかもしれない。
「あたしは魔術師としては三流もいいとこっス。キミが会った渡会空也でだいたい二流。この先にいるのは一流の怪物っス。――ちなみに熾ちゃんは例外のバケモノ。そしてキミひとりでは、魔術師には到底敵わないのは証明済みの事実っス」
「……否定するつもりもないけど」
「でしょうね。で、この先にいる一流の魔術師は、その上の例外である熾ちゃんを殺すに足るだけのモノを用意してるわけっス。敵対するんスから当然っスね。正面から敵わない相手と戦うなら、相応の策を準備するのが当然ってコトっス。無策なんてあり得ない」
お前がやろうとしているのはそういうことだ、と憂は告げているのだろう。
ただそれは仕方がない。大輝は脅されて向かっているのだから、その時点でもう後手に回っている。
相手が何者かもわかっていない以上、状況は不利どころか詰みに近い。
そんなことは憂だってわかっているはず。
それでも大輝に接触してきたということは、つまり。
「……憂が、オレの策になってくれるってか?」
「それは交渉次第、と言ってあげたいところっスけどねえ?」
軽く肩を竦めて憂は笑う。
そこまで期待するなという意味だろう。
「どっちかって言うと、あたしはキミが死ぬ前に代金の徴収に来たつもりっスよ? タダ働きはごめんっスからね。死なれちゃ情報も何もないっス」
大輝の決断は迅速だった。
「なら憂、お前をまた雇わせてくれ」
「……へえ?」
憂は楽しそうに笑った。
何かの期待なのか、あるいは違うのか。
彼女は言う。
「払えるんスか? キミに、もう一度あたしを雇うための代金が? それができるんならビジネスとして考えてもいいっス。ただあたしの見立てじゃ、キミに出せるものはない」
「…………」
「何もないなら話はお終いっス。代金を貰って、あたしは次の仕事に行く。それとも、」
「――あるさ。払えるものならな」
憂の言葉の途中で、それを遮るように大輝は言った。
まるで何かを試されているような気がする。何も払えないと踏んでいるのに、それでも憂は、こうして大輝に接触している。
これは差し伸べられたチャンスなのだ。
だから大輝は言った。
「憂のことを見逃してやる」
「――は……?」
上からというのも烏滸がましい大輝の発言に、憂は目を丸くする。
いったい何を言っているのか。本気で、それを理解するのに時間がかかった。
「いやいや、何を言ってるんスか。まさか妹ちゃんを攫ったのを見逃すから手伝えなんて話じゃないっスよね? だとしたら期待外れもいいとこ――」
「違うよ。憂を見逃すのはオレじゃない。熾だ」
「――――」
考えてもいなかった発言に、憂は言葉を失った。
「熾の仕事は、この街に入った魔術師を追い出すことだ。それには憂、お前も含まれる。そして熾の強さは魔術師の中でもトップクラスなんだろ――憂じゃ絶対に勝てない」
「……それは」
「だから、オレが熾に言って、憂のことを見逃すように説得してやるよ。それが嫌なら、今後は二度とこの街に入れないようにしてやる。――オレとも会えなくなるな?」
そうなれば、前の仕事の報酬だって実質的に意味がなくなる。
これはそういう意味の取引だった。
――正直、自信はない。憂がそこに価値を見出すかは賭けだったからだ。
それに彼女の能力があれば、自力でこの街に隠れ潜むことも選択肢に入れられるのだろう。
わずかに大輝は目を細める。
そんな彼の顔を見て、そのとき憂は、噴き出すように笑いを零した。
「ぷっ、く……あははははははっ! そう来たっスか! なるほどそれは、確かに面倒な話っスね! 実に面白いっス、合格って言ってあげたくなるくらいには見事っスよ!」
「……足りないか?」
「面白いっスけどちょい足りないっスね。それは、この夜をキミと魔女――両方が無事に生き残って初めて意味を持つ取引っス。このまま行けば両方死ぬんスよ? そうっスね、譲歩するなら……せめて保証が欲しいっス。それに足るものが」
「……保証?」
「キミにつくならキミに勝ってもらわないと困るっスから。あたしがキミにつけばキミが勝てる――あたしにそう信じさせることができるなら、その依頼、請けてもいいっスよ」
しばし、大輝は口を閉ざした。
そして思い出す。
そういえば、まだ憂には前の件の報酬を払っていなかった、と。
だから大輝は、自信ありげな笑みを作って、彼女に言った。
「それなら問題ない。こういう事態にオレは慣れてる。なにせ、異世界では勇者をやっていた経験があるからな。これでも一度、魔王を倒して世界を救ったことがある」
「…………勇者?」
「魔王より弱いような敵に、オレは負けないってことだ。――英雄の実績に免じてくれ」
こんなことを言って憂が信じるとは、実のところあまり思っていなかった。
きっと笑い飛ばされるだろう。どう信じてもらえばいいのか、考えていた大輝は、だが予想外に真剣な真顔を彼女が見せていることに驚いた。
それこそ、あり得ない奇跡を目の当たりにしたかのように、愛子憂は大輝を見ている。
「……そういうこと……? だからこの街に、……でも、こんな巡り合わせ……」
「憂? ……どうした」
「……いや、なんでもないっス。そうっスか……く、あはははっ! こいつは本当に大番狂わせが見られるかもしんないっスね!」
「……何を言って、」
「いいっスよ。大輝の依頼、承るっス」
まさか本当に『勇者だから』なんて言い分が通用してしまうとは思わなかった。
ちょっと面食らう大輝だが、そうと決まれば心変わりしないうちに話を纏めてしまおうと思う。
いずれにせよ、動くなら早いほうがいい。
「ところで憂。作戦を立てたいんだが、憂は何ができるんだ?」
「そっスね……百聞は一見に如かず。試しに、あたしの顔を殴ってみてほしいっス」
「あ、――え?」
策を立てようと能力を聞いたところで、まさかの返しに狼狽えた。
だが憂は特に構わずに、自ら自分の頬を差し出す。
「いいから。殺す気で殴っていいっスよ?」
「……嫌なんだけど……」
「面倒臭いっスね。じゃあ私が殴るんで、大輝、顔で受けてほしいっス」
「それならいいけど……」
「それならいいほうが怖くないっスかコレ逆に……まあいいや」
直後、あっさり殴ることを決めた憂の拳が、大輝の顔面に突き刺さった。
だが――痛みが、ない。
否。痛みどころか一切の衝撃がない。
ただ頬に触れて止まっている。力が死んでいた。
それは、熾の《純黒》で打撃を受け止めたときにも似た感覚だ。
もっともあれは触れたものを弾くのだが、こちらは肌に触れたところで止まっている。
「……なんだ、これ?」
訊ねた大輝に、憂は薄く笑みを返して。
「今、あたしという存在から打撃力という機能を落としたんス」
「……なん、だって……?」
「さっきも言った通り、あたしは魔術師としては落ち零れっス。ロクな魔術は使えないし、とてもじゃないけど腕のいい魔術師には太刀打ちできない。――だけど、能力は別っス」
――能力。
そういえば熾も言っていた。
この世界には魔術師とはまた別に、特異な能力を発揮する存在がいるのだと。
「憂、お前……」
「あたしは魔術師であるのと同時に異能者でもあるんスよ。《零落》の異能ってあたしは呼んでるっスけど。対象を堕落させ、持っている機能のひとつを使い物にならなくさせる理屈のない
「……なんだ、そりゃ」
つまり以前の戦闘で大輝が歩けなくなったのは、魔術ではなく異能の効果。
大輝という存在が保有している、移動するという機能を堕落させたということなのか。
「じゃ、じゃあ……お前が今までずっと気配を消してたのは」
「自分から存在感という機能を消してたからっスよ。そうすると魔術の対象にもならなくなるんで、この街の結界も余裕で素通りってわけっス。なかなか便利じゃないっスか?」
「…………なんだそりゃ……」
無茶苦茶だった。
便利、なんて言葉で片づけていいレベルではない。
もちろん、憂だって今ここで能力の全容を明かしたというわけではないのだろう。もし全ての機能をなんでも堕落させられるなら、人間の呼吸や鼓動だって簡単に止められる。
さすがにそこまでではないと思いたい――が、あらゆる理屈を飛び越え、念じるだけで機能をひとつ殺す能力は、それだけでもあまりにも恐ろしい。
――憂が敵にならなくて本当によかった。
味方につけて初めて、大輝はその幸運を実感させられていた。
「……なんで、オレを手伝ってくれる気になったんだ?」
ふと訊ねた大輝に、憂は軽く肩を揺らして。
「そりゃ、あたしだって世界が滅んだら困るじゃないっスか、普通に」
「は……?」
「だったら世界を救えるほうにつくっスよ。――ま、こっちの話っス。行きましょう」
※
ともあれ、それが大輝がここに来るまでの顛末だった。
あとの手筈は単純。
隙を見て渡会に大輝が突貫する――それだけだ。
その際《馬鹿》という言葉を大輝が発するのを合図にして、隠れている憂が大輝にその異能を行使する。この状態の大輝は、相手による魔術の対象にはならなくなる。
殴り飛ばされた渡会は、勢いよく吹き飛びコンクリートを滑って、その背中を停車中の自動車にぶつけることで動きを止めた。
隙は見せられない。大輝はさらに前へと駆けたが――、
「――《
「ぐ……っ!」
その行動は、車の脇に背を預けたままの渡会によって簡単に止められる。
彼の詠唱と同時、炎が巻き起こり、大輝の行く手を遮ったのだ。
――それもまた単純な話。
憂の異能で回避できるのは魔術の対象にされることであり、決して魔術の発動そのものではないということ。
狙いをつけず、適当に放った攻撃なら大輝にも届くのだ。
――対応が早すぎだろ、まったく……!
その辺りは、さすがに老獪な魔術師だと言うべきなのかもしれない。憂が一流と評した意味を大輝は理解する。
やはり、根本的に力の差がありすぎる。
「やれやれ、危ないことをするよ。やはり考えておくべきではあったんだろう。いいや、考えてはいたのだがね……愛子くんの異能は、対象に触れなければ発動できないタイプだと踏んでいたのだが、違ったのだろうか。うむ、やはり異能者は危険だな!」
そんなことを言いながら、ゆっくりと渡会は立ち上がる。
生身を殴ったのだから、いくら魔術師とはいえダメージは受けただろう。
けれど動きを止められるほどではなかった――これはまずい。一瞬でケリをつけるべき状況だった。
渡会の対応が迅速すぎたのだ。
「いやあ、悪いね。魔術師の攻撃といえばやはり火は外せないが、そうそう自慢しながら披露できるほど熟達はしていないのだよ。それこそ、熾くんの操る《魔女狩りの火》とは比較されたくないので、その辺りは勘弁してくれたまえ。しかしなんだね、キミはやはりアレか、肉体の操作に自信があるということかな。なるほど見事な胆力ではあったが」
「……本当によく喋る奴だな」
「言語によるコミュニケーションは人間が生み出した最大の叡智のひとつさ。なぜって、それが決して完璧ではあり得ない未完成性が素晴らしい! わかるだろう? 不完全だということは、それすなわち進歩の余地があるということの逆説的証明なのだから。人間の歩みというものに私は敬意を表する。だからこそ、それを歪めるような
渡会の余裕は、一切崩れ去ってはいなかった。
そして、その判断は間違っていない。不利なのは変わらず大輝のほうだ。
「――教育が必要かな」
「…………」
「私もひとりの大人として、若人を正しい道へ導く義務を忘れてはいないよ。そら、君の土俵に乗ろうじゃないか。――《
刹那、――渡会が爆ぜた。
そう錯覚するほど驚異的な勢いで、気づけば彼は大輝のすぐ目の前まで迫っていた。
「――な、」
「あまり野蛮な行為は好きではないのだがね。――それでも、対話は肝要さ」
目を見開く大輝の目前。
渡会はわずかに体重を沈め、左の肘を勢いよく打ち出す。
肋骨の軋む音と、肺から空気の漏れ出す感覚を大輝は覚えさせられる。体にだ。
打ち込まれた打撃の威力によって、体がくの字に折れ曲がる。
頭を垂れるような大輝の姿勢に満足しながらも、渡会は手を――否、足を緩めることはなかった。
「そら」
顔面に、横合いから膝が叩き込まれ、大輝の体が吹き飛ぶ。
歯が折れることこそなかったが、口の中は切れ、頬骨にも激しい痛みが走る。
駐車場のコンクリートを、それこそ打ち捨てられたタイヤのように、大輝は無様に転がった。
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