1-22『元英雄に曰く』1

 黒須くろす大輝だいきが張り紙を発見する、その少し前。

 事態が進んだことには、実のところ鳴見なるみおきのほうが先に気づいていた。


「――――っ!」


 大輝を見送り、街を歩いていた熾は、突如として脳裏で鳴り響いた警鐘に顔を上げる。

 警鐘、とは何も比喩ではない。委任されている管理者権限――街に対する外敵の反応が突如として発動したのだ。


「なんで急に……いや!」


 隠れる必要がなくなったということは、これから行動を起こすということ。だとすれば悠長に考えている暇はない。熾は、すぐさま知覚された方角へと駆けた。

 駅へ続く何本もの路線を跨ぐ《大栄橋たいえいばし》という跨線橋こせんきょうを越え、西口の方面へ。付近には多くの立体駐車場があったが、その中のひとつに濃密な魔力の気配がある。

 この距離まで近づけば、熾にもその場所がはっきりと感じられた。


 午後七時過ぎ。まだ周囲には多くの人間が当たり前のようにいる時間。

 このタイミングでコトを起こすとは、大胆不敵もいいところ。

 巨大な立体駐車場を見上げて、熾は考える。


 ――大輝に連絡するべきだろうか。

 彼は戦力になる。その身体能力は反射神経と勘だけで、魔術による強化状態の熾と渡り合うほど。戦闘の経験値だけで言えば、おそらく熾よりも遥かに上だろう。

 だが結局、このとき熾は大輝へ連絡を取らなかった。

 信頼しなかったからではない。単純にもう間に合わないからだ。

 自宅へ戻った大輝が、再び市街地まで戻ってくるには早くても三十分はかかる。とても待っていられない。

 外注の医療要員、とでも言うべき十野つなしの胡桃くるみには、魔術的に連絡を取る手段があるため、彼女はもう事態に気づいているだろう。大輝への連絡は彼女に投げることにした。


 熾は、魔境と化した立体駐車場へ踏み込んでいく。

 何も比喩ではない。ここは決して、打ち捨てられた廃ビルや、使われていない廃墟ではなく、日本において九番目の人口を持つ市の中心に位置する繁華街だ。

 この駐車場も現在進行形で利用されており、実際、下の階層には人こそいなかったが車が何台も停められている。――ただし。

 その最上階には今、魔術による結界が張られていた。


「人避けの結界……だよね。それ以外の機能は、結界にはなさそうだけど」


 ひとつ下の階から上を見上げて、熾は冷静に分析を試みる。

 完成した結界の機能、言い換えれば術式の構成を外部から読み取ることは、非常に難易度が高い。

 本来は相手の使っている魔術の様式――西洋式であるとか、陰陽道に関連しているだとか――を読み取り、知識から推測を立てるくらいしか方法がないのだ。


 ただし熾は例外的に反則手をひとつ持っている。

 両の眼に宿る《接続》の魔眼だ。


 目の前の魔術そのものと《接続》し、それ自体に共感することで意味を読み取ることができる。熾の持つ、魔女としてではない魔術師としての才覚だった。

 深く結びつきを作ることにはリスクがある。術者に、つまり他者に共感しすぎることは精神的な破綻の引鉄になりかねず、またそうでなくとも単純に、魔術そのものに他者から干渉されることを防ぐ仕掛けが施されている可能性も否定できないからだ。

 慎重な《接続》の結果、おそらくこの結界は強力だが純粋な人払いだろう――熾はそう結論した。つまり突っ込んでも問題はない。


 あの神社と違って、退路の確保も立体駐車場なら難しくない。

 最悪の場合、飛び降りて逃げることも魔術師になら可能だった。その場合、誰かに見られる可能性は含むが。


 熾は、管理者代行として、結界へと踏み込む。


 果たして最上階には、自動車がほとんど停められていなかった。

 当然だが人の気配もない。まるで最上階だけが、あらゆる人間に忘れ去られてしまったかのような風情だ。

 おそらく前もって張られていた結界で、この駐車場は利用者どころか持ち主にすら気づかせず、一階層分低い、ということにされていたのだろう。停められている数が少ないということは、新しくということ。


 ――選択的な認識の阻害。

 車を出すという目的があればこの場所に気がつけるが、それ以上の違和感には誰も気がつけない。

 少なくとも、熾には真似のできない芸当だ。術者の力量が窺い知れる。

 大輝の話では確か、愛子憂という魔術師が渡会に協力していたはずだが――ならばこの結界も彼女の手によるものだろうか。

 どうも認識干渉に適性がある魔術師のようだが。


「…………」


 その答えはすぐに出た。

 駐車場の奥、中央付近に人影がひとつ見つかったのだ。


「ん? おっと、もう来たのかい? 意外に早い到着で……、ううん?」


 こちらを振り向いた人影が、目を細めていった。

 男だ。愛子とやらではないらしい。

 気取った燕尾服を着ており、なんだか浮いている。

 少なくとも顔は若い。

 おおよそ三十代程度に思える。色のない笑みを貼りつけたような表情が特徴的な、紳士然とした痩せ型の日本人だ。ただし、髪には白が混じっている。


「っと、驚いたな。君のほうが先に着くのは予定外というモノだよ――これは参る」

「……貴方は」


 口を開きかけた熾に、紳士は待ったと示すように掌を向けた。

 警戒する熾だが、何か魔術の動く気配はない。彼は歌うように言った。


「おっと、あまり近づかないでほしいな。君の魂に刻まれた術式の恐ろしさを、知らない私ではないからね? 正面からの荒事になったら、私などたちまち腰を抜かしてしまう」


 演技がかった口調は、そのまま素だろう。歳を重ねた魔術師にはときおり見られる。

 彼に挑発のつもりはないだろうし、他方で余裕なのも事実。ということだろう。


「……見せたことがあったかしら?」


 と、熾も問う。こちらはあえて口調を作った。

 無論、彼が神社の境内での戦闘を覗いていたことなど知った上でだ。

 あからさまな熾の問いに、けれどここで、彼は予想外の答えを返してきた。


「改めて見ずとも元から知っていたさ。けれど君のほうは、残念ながら私を覚えていないようだ」

「……何?」

「まあ無理もない。あの頃とて、じかに顔を合わせた機会は数えるほどだ。大半はこちらから、一方的に君を見ていたに過ぎないからね。それも無粋な機会を通してだ」

「――――」


 熾の表情が一瞬で色を失う。

 透き通る――けれど瞳の紅があまりにも攻撃的な表情。


「いい顔だ。それでこそ唯一の成功例。実に魔女らしい顔じゃないか」

「お前……っ」

あらたかくんも喜ぶだろう。彼から伝言だ。――『もうすぐ迎えに行く』そうだよ」


 瞬間、熾の周囲に黒が躍る。

 闇よりもなお深い漆黒の暴風は、彼女に従う隔絶の影。


 凡百の魔術師など、十を鏖殺して余りある破壊的な魔力の渦に、けれど相対する男は、顔色を動かすことさえなく――否、むしろどこか失望さえ感じさせる口調で。


「あまり感情に動かされるものじゃない、熾くん。それは、魔術師の姿勢ではないよ」

「なんだと……」

「とはいえ意地悪をする気はないよ。私も君のことは娘のように思っているからね。君が聞きたいことには答えよう。そう、君は私にこう訊ねたかった――『お前は、私の父親と知り合いなのか?』と。そしてその答えは肯定だよ、熾くん。その通り、友人だとも」

「……っ!」

「続けての問いはこうだね。『ならお前はあの研究の――自分を魔女に変えた、鳴見灼の実験の協力者だったのか?』と君は疑問する。その答えは、肯定とも否定とも言い難い。確かに私は彼の研究に協力したが、かといって施設の一員ではなかったのさ」


 まるで心の裡を解体していくかのような言葉の奔流に、思わず眩暈がした。

 心の底から、嫌悪を交えて湧き上がってくる恐怖を熾は自覚する。――こいつは誰だ?


「――渡会わたらい一也かずやという、しがない魔術師さ。《心空うらから》と呼ばれたこともあるがね」

「っ……!?」


 まただ。口には出していないのに、読心でもされているかのように的確な答えが返ってくる。

 魔術の気配はない。ならば、彼は心を読む異能者だとでも――、


「いいや、私個人に異元の海との繋がりはないよ。魔術師には不要なものだろう」

「お、前……っ!?」

「この程度に特別な技能がいるものか。私に言わせれば驚くほうが不可解だ。視れば判るものの判別がなぜつかないのか。私以外の人間というモノは、不便な生を送っている」


 その言葉に、嘘がないと直感させられたからこそ、熾はこう思わずにいられなかった。


 ――化物か……!?


 だが、それさえ目の前の魔術師――渡会一也には筒抜けなのだろう。

 彼は言う。


「化物に言われたくないな。ふむ、だが意外と気分は悪くない。確かに、化物になれるのなら、人間などでいるよりよほど上等だろう。君は、そうは思わないようだが」

「…………」

「心を閉ざしたか。そう、それでいい。私の大道芸など、所詮はタネありきの手品に過ぎないからね。判断は速いじゃないか、悪くない。だがあまり面白くもない」

「……目的はなんだ?」


 問いの言葉に、渡会は答える。


 おそらく、いや間違いなく渡会空也の父親だろう。

 しかも二つ名持ちの魔術師である。

《心空》といったか――息子より位階は上だろう。

 熾は考察を重ねる。それはもう、読まれていたところで構わない。


 果たして、彼は答えた。


「悪巧みさ」

「…………」

「『そんなことは知っている』という顔だね。だがそんなことはないよ。君は知らない。私は明確な目的があってこの街へ来た。ここでなければならなかったし、私のすることは明確すぎるほどに悪だとも」


 ひと息。

 間を空けて、彼はなんでもないことのように。


「――

「何、を……言って……」


 そのあまりにも冗談じみた言葉が、熾にはまるで理解できなかった。

 下らないにも程がある。

 現実でそんなことを聞かされるほうの身にもなってほしい、と思わず本気で呆れかけてしまうほど、それは――どこまでも空想まほうじみた言葉だった。


 だが。

 渡会一也は本気だ。


「――?」

「何……?」

「おかしいじゃないか。? 世に溢れる創作物の数々に君だって触れたことがあるだろう。世界を滅ぼそうとする悪玉が、物語の中には数多く存在している。ただの思考だぜ? その程度の願望、持ったことがある人間は世界にいくらだっているはずだ。私のように、実行に移そうという者がいたっていいだろう」


 言っていることが理解できない。

 共感不能だ。異世界に行ってみたいという息子のほうがまだ理解できた。


「ああ、わかるとも。そうだね、だって我々のような悪玉は、常に正義の善玉から野望を阻止される立場だ。心が躍るね? 物語はいい。最後には愛と正義が勝つのさ。そういうエンターテイメントは私とて嫌いじゃない。がんばった者は報われるべきさ。――物語の中ではね。そう、物語。あくまで空想、現実じゃない。現実では、悪が善を打ち倒すことなど実にありふれている。勝ったほうが正義? そうとも。なら勝った悪は正義だ。その点に矛盾などない。善も悪も未だ正義ではない。それは、勝敗が決めるのだから」


 ――だから私は、私の悪を正義にしたい。

 渡会一也は、その発言を、完全に正気のままでしていた。


「現実では悪とて勝つ。だがこの現実は過去一度も、世界を滅ぼさんとする巨悪の勝利を見せたことがない。それはおかしい。なぜ誰も世界を滅ぼせないのだ。私は考えた。研究した。そして答えを獲得した。――のだよ」

「……なんの話を、しているんだ……お前は」

「時間稼ぎさ。ただの優しさだよ。君が訊いたから答えているに過ぎない」

「…………」

「ふむ、興味を持ってはもらえなかったか。悲しいね。このヒントをくれたのは君の研究――言い換えれば君だったんだが、まあいいか。そろそろ来賓を招く準備がいる。申し訳ないが、懐かしい君の相手をするべきは、今ではないんだ。やれやれ、本当は君は後から招く手筈だったんだが、愛子め、しくじったか? あるいは――……いや、構うまい」


 話すだけ話して、彼はそのまま熾から視線を外す。


 ――熾には彼の言葉は理解できなかった。

 正気にしか見えないが、とても正気とは思えない発言ばかりなのだ。


 だが、かといってこのまま無視するわけにもいかない。

 話して埒が明かないなら、いずれにせよ実力行使するしかない。

 嫌な予感が、脳裏でひりついている。

 それでもやるべきを行うべく、魔術を発動しようとした熾は――その直前。


 突如として横合いから襲いきた、重い剣の一撃に対処を余儀なくされた。


「ぐ……っ!」


 咄嗟に躱して距離を取る熾。

 その目が捉えたのは、自分を襲った者の正体で。


「なん、だ……、これは?」


 思わず、理解できないという事実を声に出してしまうほど、それは常軌を逸していた。


 見た目だけなら、異常というほどではない。

 それは黒い――漆黒の甲冑を纏った大柄な騎士だった。


 二メートルは越すだろう全身がファンタジーものの騎士のような鎧で覆われており、濃密な魔力を放っている。

 ほどんど瘴気とも言うべき、それは濁りきった不吉の魔力だ。

 そして、ほとんど身長に近い長さと、冗談みたいな厚さを兼ねる大剣を持っている。

 ――人間、ではなさそうだった。


「そいつは過去、世界を滅ぼす権利を持っていた者さ」


 問うたわけではない。

 それでも、口から零れ出た熾の疑問に、渡会一也は答えを返した。


「ある世界において世界を滅ぼさんと力を振るい、けれどついには善なる者の前に斃れた、哀れにして尊敬すべき、我が先達――」


 熾は、その言葉の持つ意味を直感する。

 前を向いた。意志らしきものをまるで感じない黒の姿。その正体とは。




「――それをね、人間は《魔王》と呼ぶんだよ」

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