1-15『元英雄と、魔術師』7
「鳴見……、熾……っ!」
いつの間に。否、そんなものは当然、あの青年に気を取られていた隙に違いなく。
魔女――鳴見熾が、気づけば渡会のすぐ目の前、橋まで辿り着いていた。
その傷ついた肉体には今、糸のような黒が上へ繋がっている。
自らを自らの操り人形とすることで、ぼろぼろの体で、彼女は立ち上がってここへ来ていた。
別段、召喚物の敗北自体は構わない。
また次を呼べばいい。それで魔女を殺せれば上等、仮に今夜は殺せずとも、機会は今後いくらだってあるだろうし、そもそも魔女に固執する理由はない。
最高の贄にはなるだろうが、絶対に必須ということはない。
目的は未達で構わない。
――それでも。
「なぜだ。なぜだ……鳴見熾っ!」
そう、問わずにはいられなかった。
※
「なぜ俺の邪魔をする! なぜ――ここではない世界を、棄てようとする!」
渡会の言葉が、熾の耳へ届く。
だが、そんな問いに意味は感じなかった。
「問いの、意味がわからない。私の仕事は……この街での外法を止めること。勝手に侵入したのはお前であって、なぜそれを邪魔されないと思う……?」
「お前だって――この世界には嫌気が差しているはずだ!」
「…………」
「この世界はお前を認めない。ならばお前を認める世界に行きたいとは考えないのか? 一度も考えたことがないとは言わせないぞ、魔女。お前は、自身の父親のせいで――」
「――その話はするな」
小さく、熾は渡会に釘を刺す。
さきほど魔女と呼ばれたときほど苛烈な反応ではない。にもかかわらず、そのときより遥か上の威圧を感じ、渡会は静かに首を振った。
「それほどの恨みがありながら、なぜ……」
「確かに。――お前の言うことがわからないわけではないけれど」
「……ならば!」
「でもそんなことあんたには関係がない。私を殺そうとしておいて言うことでも、ない。そもそも――それはいったい誰の望みなわけ?」
「…………なん、だと」
どうでもいいはずの、その程度の問いに、けれど一瞬――渡会は言葉を詰まらせた。
首を振り、渡会は改めて、わかりきった答えを返す。
「決まっている。それは俺の、魔術師としての――」
「――そう、あんたの望みでしょ」
熾は肯じ、それから。
「それをさっきから、魔術師の堕落だの魔女はどうだのと……あんたは、いらない理屈を捏ねすぎる。――まったく」
「何……?」
「単に貴方が世界に挫けて、逃げ場を探しているだけでしょう?」
「―――――――――」
痛烈な批判、だが熾は何もその意思を否定したいわけではなかった。
そんなものは渡会の勝手だ。熾にはまるで関係がない。
「別に構いません。この世界を恨むのも自身の境遇を憎むのも勝手ですし、それで成果を生んだなら動機など問わず貴方の功績。全て貴方の自由です。――ええ、けれど」
少女の眼が、紅い。
話し方がさきほどまでとまったく違う。
――なんだ、これは?
いや、そもそも、目の前にいるのはいったい誰だ――。
困惑する渡会に対し、熾は告げる。
「けれど、それならそうと胸を張ればいい。誰に遠慮しているんですか」
「何、を――」
「私は貴方ではないし、貴方は私ではないし、私の父は貴方の父ではありませんよ」
何を言われているのかわからない。
理解したいとも、思えない。
ただとにかく目の前の存在とこれ以上の会話をしたくなかった。
心を握る魔女などと。
「もういい。――それなら次の手に出るまでだ」
そう、所詮は異世界の怪物が一体倒されただけのこと。
渡会はまだいくらだって呼び出せる。やがては自分が異世界へと辿り着く。そうなればもう地球などという星のことは、何ひとつとして関係なくなる――。
ならば。
目の前の存在など潰せばいいだけ。
当然の理屈を思い出し、渡会は次の魔術を準備する――けれど。
「……? なんだ、これは」
熾は答えない。ただまっすぐに前を見ている。
「なぜだ。なぜ魔術が起動できない? なぜ――なぜ俺は、動く、ことが――」
熾は答えない。ただまっすぐに渡会を見ている。
紅い瞳が捉えている。
魔眼に――捉えられている。
「――、まさか」
鳴見熾の魔女としての能力なら、もう何度も渡会は目にしていた。
恐るべき《隔絶》の黒。
魔術的な儀式を一切必要としない魔女の能力。
だが、思えば。
――本来の熾が生まれ持った、魔術師としての性質を、渡会は何ひとつとして知らない。
「…………っ、な――」
否。いいや違う。それも違っている。
なぜなら確かに渡会は見た。
あのとき、あの青年の動きに合わせて魔術を発動してみせた――心を読むような力。
もしもそれが、鳴見熾が本来持っていた魔術師としての適性であるのなら。
「逆、だったのか……初めは!」
熾は答えなかった。
だが正しい。渡会は最後に、直感で正解を引いた。
鳴見熾が生まれ持った魔術的特性は《接続》――後天的に埋め込まれた《隔絶》とは正反対と言ってもいい、繋がりを作り、縁を結び、共感を可能とする性質。
彼女が持つ紅の魔眼は、そのもの《接続》の魔眼と呼び、視界に収めるだけで対象との繋がりを創る。
この街の管理権限を委任されることができるのも、契約を誘導できるのも、全てはその特性が理由だった。
眼で視るだけで繋がりを偽造し、まして体液の交換といった強固な儀式があれば、その心の裡をダイレクトに読み取ることさえ可能としている。
――けれど。ならばさきほどの男は――。
「……痛っつつ。無茶しすぎたな。こういうの、明日に響くんだよ……」
まるでなんでもない日常の中にいるかのように、顔を顰めた青年が歩いてくる。
渡会は、憎々しさに顔を歪めざるを得ない。
そもそも、こんな男が出てきたことが。
「で、熾――どういう状況だ」
「彼はもう動けない。私たちの勝ち。――あとは任せた」
「……そうか。ん、わかった。――ありがとう」
言って、そして青年――黒須大輝が渡会の目の前に立つ。
ふざけていた。あまりにも、それはふざけた事態だと渡会は奥歯を噛み締める。
――魔女に敗北するのなら、それで殺されるのならまだ納得できた。
だが。だが、こんなものは違う。
こんなものが魔術師の終わりであっていいわけがない。
こんな、どこの誰ともつかないただの一般人に視線を向けられていることが、納得のいく終わりのはずが――。
――一般人だと?
ふざけるな。それも今では納得できない。
「お前は――お前はなんなんだ!」
だから渡会は吠えた。そう、訊ねずにはいられなかったのだ。
だって、もしさきほどの戦闘において、熾が大輝の心を読み取ることで――否、大輝が熾に心を伝えることで流れを組み立てていたのなら。
それは話がまったく異なる。
だが実際、彼の戦闘中、熾はそれに紛れて渡会へと接近し、行動を封じる手段を取っていた。
それは裏を返せばその間、大輝の行動に合わせている暇などなかったということ。
熾が大輝に合わせていたのではない。
熾が合わせられるように、大輝が指示を出していたのだ。
ここで手の鎧が壊れるからもう一度出してくれ。
目の前の触手に対処するから、ほかの触手は止めてくれ。
とどめを刺すから、それに必要な攻撃を用意してくれ――。
そんなことが可能な高校生を、一般人と呼んでいいはずがない。
「まあ、なんだ。……本当のとこを言えば、オレは割と、どうしようかは迷ってたんだ」
だが渡会の問いに対し、彼が言い出したのはそんな言葉で。
どういうことだと視線で問う彼に、黒須大輝は曖昧な表情で続けた。
「あんたは熾の敵だ。オレは確かに熾を手伝ってるが、まあ、それだけでもある。つまりあんたは、別にオレの敵じゃない。敵じゃない奴と戦うのは……あまり得意じゃない」
「……何を言っている」
「オレの話だ。オレはあんたの事情を何も知らないからな。でも――それでも、あんたは熾を殺そうとした。オレはそれだけで決めた。熾の敵は、もう、――オレの敵でいい」
「なん、なんだ……だから、お前は……っ」
「異世界帰りの、単なる高校生だよ」
「――――」
その言葉の意味を。
渡会は、まるで捉えることができなかった。
「そういう事情で、オレにも個人的に、あんたに訊きたいことがある。悪いが勝ったのはオレたちだ。だから、二対一で申し訳ないが――あんたには、負けを味わってもらう」
言って大輝は、右の拳を握り込む。
無論、渡会には大輝の言っていることなど理解できない。
自らが焦がれた世界に、彼が送り込まれた先駆者であり、そこで英雄とまで呼ばれた人間であるなどと、そんなことがわかるはずもない。
だから。
渡会は自然と、駆け寄ってくる大輝ではなく、立ち竦む熾に視線を流して。
「――――」
その顔に、あまりにも自然な、慈しむような笑みが浮かんでいるのを見て。
――拳を振り抜く直前に、大輝は確かに、その目に見た。
敗北したはずの男の、その表情に――あまりにも、自然な笑みが浮かんでいるのを。
血が、境内に赤の橋を架けた。
※
渡会空也は、昔からずっと異世界に行きたいと願っていた。
小さな頃からの、それが願いだった。
ここではないどこか。そこへ行けばきっと、今ではない今日が手に入るから。
――それだけでよかったのに。
どこで狂ってしまったのか。
彼は思う。
少なくとも、あの魔女は異世界になんて頼ることなく、この世界に、笑顔を向けられる者を持っている。
それが自分との違いだったというのなら、ああ、納得するしかない。
確かにそんなものは、にはひとつだって持っていない。
けれど。
それでも――たとえそれを持っていたとしても、彼の憧憬は消えなかったはずなのだ。
この世界が嫌いだった。その通りだ。
だから逃げ出したかった。それも正しい。
魔術師になんて、なりたくなかった――ならなければ別の道があったかもしれない。
それでも。
それでも《異世界》は、夢にまで見た原風景なのだ。
行きたかった。見たこともない景色が、地球にはあり得ないような生物が、きっとその場所には数えきれないほどにある。
幼き日に、確かに彼は、その原風景を夢に見た。
だけど。
ならば自分は、どうしてこんなところで、そもそも魔女と戦って――。
――どくん、
と、心臓が跳ねるのを渡会空也は自覚する。
いや、違う。跳ねたのではない。
――これは――心臓が、潰れて……いや、全身に……、血が、体、を――?
なまじ血液を用いる魔術師であったことは、彼にとって幸運だったのか、それとも不幸だったのか。
内臓からせり上がってきた血液を、喉から零すよりも早く彼は悟る。
――死ぬんだ、と。
痛みがなかったことは救いなのか。
それを感じるほどの猶予もない、あまりにも周到に刻まれた、それは魔術による血の呪詛だった。渡会空也の命はすでに尽きている。
けれど――最後に彼は確かに目にした。
本当なら、目の前に見えるのは、憎らしいただの高校生。
それだけでしかないはずだ。
だが違った。
渡会空也は確かに見た。
たとえそれが下らない幻覚だったのだとしても、死の間際になら充分すぎる。
それは、空澄み花咲き妖精の躍る、どこまでも抜けるように美しい――異界の風景。
魔術師の顔に、笑みが浮かぶ。
一生を賭して求めた終わりの景色は、ああ確かに、あの日に見たそれと同じ――。
――ほうら父さん、やっぱりぼくが正しかったじゃないか。
お前の才能では決して到達しないと言われた、ずっと焦がれていたあの世界に、最期に確かに、てが、とどいたんだ、から――……。
そうして。
魔術師・渡会空也は絶命した。
※
「な、にが……!?」
大輝は驚きに目を見開く。
何が起きた。
渡会が、突如として血を吐いて、そのまま倒れたのだ。
大輝は何もしていない――それより先だ。咄嗟に殴ろうとしていた拳を止めて、倒れる渡会の体を抱き留めた。
大輝は熾のほうを振り返る。いったい何が起きたのかと。
「熾、これは――熾!?」
振り返れば、彼女もまた苦悶の表情で、地に膝をついて蹲っている。
さきほどまで体を支えていた《純黒》の糸も、もう消え去ってしまっていた。
「熾、おい――クソ、悪い、置くぞ!」
大輝は歯噛みしながら、ひと声謝罪して渡会の遺体を端に横たえる。
まだ荒い息で呼吸している熾のほうなら、間に合うかもしれないからだ。
「熾! おい、どうした、何をされた!?」
「違う、大輝……私は、何かされた、わけ……じゃない」
「……っ、そうか――」
単純にもう、限界だったというだけだろう。
小さな体を数メートルも吹っ飛ばされて地面に叩きつけられ、その上で魔力を蝕む毒を流し込まれたのだから。無理をさせすぎてしまったのだ。
「熾、おい――……くそっ!」
意識が薄くなっている。
とにかく、どこか病院なりにでも担ぎ込まなければ――それでいいのか?
わからない。魔術師の体調は、普通の病院でも見てもらえるものなのだろうか。ただの傷ならばともかく、魔力の毒がどこに影響しているかなどわかるはずがない。
「来た道。――まっすぐ戻りゃいいっスよ。あとのことはお気遣いなく」
突如として聞こえた声に、大輝はハッと顔を上げる。
やはり、彼女の気配はまったく捉えられない。
敵だと思うとぞっとするが――今は。
「――いいのか、憂?」
どこかで見ていたのか、現れた運び屋――愛子憂に大輝は問う。
一方の憂は、さきほどと変わらない人を食ったような笑顔で軽く頷いた。
「キミが支払ってくれる代金、どうやら結構な値がつきそうっスから。今のアドバイスはさっきの釣り銭っス。運びのアフターケアっスよ」
「……なら、受け取っておく」
「まっすぐ行ったら参道の先に人がいるっス。その人はそこの熾ちゃんの知り合いだから任せれば大丈夫っスよ、たぶん。念のため、キミを逃がすため呼んどいたんでしょう」
頷き、大輝は熾を担いで背中に乗せた。
歩き出す前に憂へ振り向き、一度だけ憂に視線を投げて。
「……任せていいんだな?」
「ええ。魔術師が一般社会に事件の爪痕を遺すのは業界NGっス。仕事の内っスよ」
「なら……丁重に弔ってやってくれ」
「――お約束はできかねるっスが、意志は確かに」
「充分だ。――ありがとう」
そう言って、熾を背負って消えていく青年を運び屋は見送った。
まったく大した体力だ。
自分だって、何も軽傷というわけではないだろうに。
――戦闘の様子は見ていた。
確かに、物理法則を捻じ曲げるような特異な能力は見せていなかったが、それでもあの体術と胆力は、憂の知るいわゆる裏のプロと比べても遜色ない。
あれはおそらく、何かしらの肉体的なリミッターが外れているのだ。
人間の肉体でできる範疇ではあるだろうが、その限界値を引き出すとなると反動は避けられない。
それを補う反則を持っていない以上、酷使される肉体は悲鳴を上げている。
――本当に面白い。
とはいえ、首を突っ込むかどうかは別の話ではある。これ以上は危ういと告げる直感の警告を、無視するようではこの業界で生きてこられなかった。
しばらく経ってから、そして、憂は言った。
そう。たとえ一般人とは思えない立ち回りでも、それでも彼は素人だ。だって、
「んじゃ、もう出てきても平気っスよ、――渡会さん」
どこの誰とも知らない魔術師を、安易に信用してしまうのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます