1-14『元英雄と、魔術師』6

 およそ渡会空也にとって、自身が《魔術師》であるという事実は枷でしかなかった。


 そう、枷だ。行為の自由を阻害する手枷であり、行動の範囲を制限する足枷。

 超越者であることへの悦楽も、不可知を知ることへの好奇もなく、ただただ邪魔なものであった。


 魔術師であることによって消せる不可能などない。

 あるのは、魔術師として生まれてしまったことによる不可能だけ。

 現代に生まれた人間として、当然に持てるはずだったものを犠牲にすることでしか魔術師たり得ないのならば、そんな才能を持って生まれたかったと渡会空也は思わない。


 ――お前には才能がない。

 幼い頃から彼はそう告げられてきた。魔道の師である父によって。

 おかしな話だ、と彼は思う。

 なぜならそれは逆だ。彼には才能があった。

 もし魔術的な才能が本当に何もなかったなら、初めから魔術師などという道を選ばずに済んでいる。


 だが、彼は不運にも魔力を持って生まれてしまった。

 魔術の世界においてはないも同然程度の、それでも――魔術師たり得る才能を。


 だから仕方がなかった。

 魔術師にさえなれなければあったはずの数々の自由と選択は、魔術師になり得てしまう時点で、ゴミ箱へと捨て去られる。

 ゴミのような才能が、それ以外をゴミにしたのだ。

 それが当然。当然だから、受け入れた。

 諦念でも達観でも妥協でもない。


 ――俺は、本当はこんなところにいたいわけではないのに――。


 幼くして殺され、表に出てくることのなかったそんな想いを、胸の裡に燻らせて。

 渡会空也は魔術師となった。


 才なき魔術師である。

 その本懐たる《万能》への糸口を掴むなど論外、基礎的な術と、生まれ持った召喚の適性だけが所有物。

 だがそんなもの、日常においてなんの役にも立ちはしない。

 魔術師であること以外の、全ての可能性を潰して得たものとしては、あまりにも救いのない成果だった。


 それでも。

 それでも彼は魔術師だった。

 魔術師であることが枷にしかならずとも、その枷のために奉仕し続けた。


 当然だからだ。今でも彼はそのことに疑問を持っていない。

 魔術の研鑽に、本気で奉仕し続けている。それを揺るがせたことなど、ただの一度もなかったのだ。本当に。

 彼はただ、魔道のために必要なことだったから、その成果を追い求めたのだ。


 ――異世界への道を。

 ではない、を。


 魔術師は、決して《不可能》を言い訳にできない。

 あるかどうかも定かではない夢物語を、理論によって実現するのが魔術師である。仮にそれが一生を費やしてなお果てに至らぬ遥かだろうと、たとえ初めから終着のない詰んだ道程だろうと、探して歩まんとする意志こそが魔術師の本懐なのだから。

 、と誰かが考えた。

 ならば、ないと断言できるまでは方策を探求する。

 その通りに、そうしただけだ。


 ――果てへ辿り着かないはずの道だった。

 彼の研究は、歴史においては数多の魔術師がそうであったのと同じく、その一生を賭してなお実を結ばぬ空想のはずだった。

 だが。


「あの街でなら。――あるいは、見つけられるかもしれない」


 彼はこの街を訪れ、そして昨夜――一生分の解答に行き遭ってしまった。

 感動した。

 嗚咽を零しながら涙に顔を汚し、己が報われたのだと魔術師は歓喜した。


 ――異世界は、実在する。

 ここではないどこかは決して夢物語などではない。

 己が研究はついにそれを証明した。


 その事実に、全身が震えた。

 目指していた果てへ行くことができるのだから。

 渡会空也は己の人生に、生まれて初めて感謝することができた。


「――――」


 そして今、彼の目の前では、己が求道の結晶が、魔女と向き合っている。

 凄まじい力だ。

 完全な制御こそ未完成だが、ある種の指向性を持たせて異世界から呼び寄せた《魔女を殺し得るモノ》は、対魔術師戦において最強と言っていい力がある。


 だが、どうでもいい。

 この世界での力になど、渡会空也は欠片の興味もない。

 全てはただ、自身がここではない世界へ向かうための実験に過ぎない――。


 ――気がかりがあるとすれば、ひとつ。

 渡会空也は魔女を想う。


 この街のことを調べ始めた際、鳴見熾という名の魔女の情報には、すぐに行き着いた。

 決して世間的に有名というわけではない――そんな魔術師は現代にいない――が、蛇の道は蛇。父が持っていた伝手を辿れば、魔術師の情報だって手に入れられる。

 だから知ったのだ。

 鳴見熾という、世界でただひとりの創られた魔女のことを。


 彼女は普通の人間だった。

 魔術師でこそあったかもしれないが、それでも人間だった。

 そんな彼女を人ならざる魔女へ変えたのは、実の父親であったという。

 その事実を知ることで、彼もまた魔女に興味を持った。


 魔女は、決して評価されない。

 こんな自分でも、適性のあった召喚に関しては他の魔術師を凌駕する力を持ち、それはひとつの成果として他の魔術師にも評価され得る。

 だが、その結末は、魔女にはない。


 ――どんな気分なのだろう、と渡会は考えた。


 それは地獄だ。彼女には責任など何ひとつないのに、自分にさえわずかに残されていた魔術師としての未来さえ、彼女は持ち得ない。

 この世界に鳴見熾の居場所はない。

 それでも、その上でなお魔術師として生きようとする姿に、些細な同情と、そして強い尊敬を彼は覚えたのだ。

 それは、魔術師らしからぬ感傷なのかもしれないけれど――。


 できることなら、訊いてみたいと思った。


 お前は、それでいいのかと。


 ――ここではないどこかへ行けるとするなら、お前も、それを求めるかと――。


「つまらない、問いだったな……」


 実際に会ってわかった。彼女は渡会が想像するような人格ではなかった。

 魔女という言葉に引きずられすぎたのかもしれない。あるいはとも思っていたが、もう構わない。

 魔女であるならせめて、その命を次の段階への糧として役立たせるのみだ。

 その渡会の目の前で、ふたりの人間が、彼の呼んだ異界の怪物と相対している。


「……いったい、あの男はなんだ?」


 魔力は微塵も感じられない。魔術を使う様子はないし、かといって、異能者と呼ばれる類いの者が持つ特異性も見受けられない。ならば、単なる一般人なのだろう。

 身のこなしこそ目を見張るものもあったが、逆を言えばそれだけ。脅威は感じない。


 それならいい。そんなものにはまるで興味がない。

 あえて殺す必要はないが、勝手に飛び込んできた者を生かす理由もなかった。

 ましてや逃げずに向かってきている愚かさには、同情する余地すらない。

 だから、やはり問題なのは、その隣に立つ魔女のほう。


「――惰弱」


 と、渡会は断じる。見るに堪えない姿だった。

 敗北しかけたからではない。それに足るモノを渡会は呼んだし、仮に負けても、それはそれで別に構わないのだ。

 次を呼ぶだけでこと足りる。魔女はもう渡会を止められない。


 唾棄すべきは、魔女の目に光が戻ったこと。

 そしてその理由が、取るに足らない一般人が現れたこと、――それに尽きる。


 虫唾が走る甘さだった。

 仮にも魔女たる者が、それこそ年相応の乙女の如くつまらないガキに左右されている姿は、魔術師としてあまりに見ていられない。

 絶望して敗北するならそれでいい。

 逆転して勝ち得るなら魔女として上等だろう。

 だが、その動機を敵である渡会ではなく、飛び込んできた子どもに委ねるなどあまりにつまらない。

 そんな者に少しでも共感しかけたことを、今や不快に思うほど。


「――――殺せ。まずはガキのほうからだ」


 ならば、せいぜい絶望して死ねばいい。

 それが望みならば叶えてやろう。

 魔術師たる慈悲として、渡会は令を発した。


 ――まったくもって、考慮などしていなかったのだ。

 その、飛び込んできた取るに足らない一般人のガキこそが、渡会の追い求める果てを、この世でただひとり知る者であるなどと――。


 その青年は、愚直に走り、真正面から異世界の怪物へと飛び込んだ。


 ――状況に狂ったか?


 一瞬、渡会もそう疑うほど愚かな行動。

 確かに優れた身のこなしは見せたが、一般人の枠を出るものではない。特異な能力どころか、ごく単純な身体強化すらできないのだ。

 一本や二本の触手は防げても、近づいて数を増やされては対応できない。


 現に青年は、一本目の触手を殴り返すだけで動きを止めた。膂力を超えた反発力を持つ《鎧》があっても、蠢く触手全てを掻い潜るなど不可能。

 そのまま二本目の触手が彼に向かう。

 青年は、それを左手で掴むように受け止めると、右手をまっすぐ触手に叩き落とす。


「――――――――!」


 絶叫があった。怪物が、苦悶らしき声を響かせている。

 確かに、驚く対応力ではあった。

 力的関係を完全に無視する《隔絶》の黒。その支援があったからとはいえ、触手を断ち切るとは、なかなか一般人離れしている――けれど。


 愚か。

 その対処では、触れている間に鎧――《純黒》が触手の毒に侵される。

 厚さを持たない黒の鎧は、ごくあっさりと砕けて、青年は無防備となった。


 そこに迫る三本目。彼はこれに対応できない。

 防御が間に合ったところで、鎧なしでは威力を殺せないのだから、それで――。


 次の瞬間、頭を狙う三本目の触手を、彼は両手をクロスさせて正面から防御した。


「なんだと!?」


 驚きが、声になって渡会の口から零れる。

 青年は頭の前で交差させた両腕を、開くようにして触手を弾いた。

 ――ガラスの砕けるような、黒い破片が散るのが見えた。


「黒の鎧……!? 馬鹿な、今のタイミングで――」


 驚愕する渡会の目の前で、直後、瞬きほどの間もなく両腕に《純黒》が再装填される。

 再び、今度は囲い込むように上と左右、三本の触手が青年を囲んだ。


 彼は横を見ない。ただまっすぐ進むことこそが目的なのだと前に駆け、正面から伸びてくる触手の下を滑るように掻い潜る。

 そして仰向け状態のまま、立ち上がる勢いとともに右手を振り抜き触手を断った。

 だが、その間に左右の触手が彼に迫っている。両側からの攻撃に、果たして対処が間に合うというのか。目を瞠る渡会は、刹那、確かに見た。


 ――薄く、青年が笑うのを。


 彼の両側の空間に、漆黒の壁が出現する。熾の魔術だった。

 それは、瞬く間に毒に侵食され砕かれる脆き盾。けれど勢いは確実に殺し、走る青年に些細な、けれど確実な猶予時間をもたらした。

 彼は左の盾が崩れるより早く左へ飛び、盾が破壊されるのと同時に勢いよく右腕を振り落とした。

 手刀は《隔絶》の理によって全てを断つ刃となり、触手を両断せしめる。


 その隙に盾を破壊した右の触手が、青年の背後を狙っていた。

 彼もそれはわかっている。

 着地の勢いのまま前に手を突いた青年は、その体勢のまま、左足を――何も纏っていない素の足を突き出すように、背後からの触手へ向ける。

 その刹那、彼の左足を黒い鎧が防護した。

 鎧を纏った足は、何物をも弾く槌となり触手を打って吹き飛ばす。

 それには目もくれることなく、再び青年は体勢を立て直すと走り出し、目の前の怪物へと近づいていく――。


「馬鹿な……あり得ん」


 渡会の驚愕は当然のものだ。

 だってあり得ない。

 いかに魔女の術が、儀式も詠唱もなく発動可能な、理屈を超えた理だとしても、それでも魔女が分のタイムラグは絶対に避けられない。

 現にその間があったからこそ、魔女は先刻、その術をもって触手を防ぎきれず、無為に吹き飛ばされたはずではなかったのか。


 だが今の一連の援護は、本来なら絶対に間に合わないタイミングだった。

 最後の交錯に至っては、青年が足を伸ばし始めてから術のほうがそれを覆っている。

 そんなもの、未来を予知するか、あるいは絶対に――。


「…………っ!」


 走る青年は速度を増し、ついに怪物のすぐ目前まで辿り着く。

 頭上から振り下ろされる触手を、彼は軽く手を翳すだけで防いだ。

 鎧は割れるが、叩きつけの威力も死ぬ。そして鎧はすぐにでも再装填が可能だ。

 ――動きが洗練されている。

 このやり取りの間だけで、青年はパフォーマンスを最大限まで引き上げていた。


「そうか、……この距離では」


 渡会はようやく、遅れて獣の特性を理解した。

 あの一本一本が太すぎる触手は利点ではあったが、同時に弱点も抱えていた。

 近距離でなければ数を増やせないくせに、近距離では空間が狭すぎて数の利点が活かせない。

 最も危険な中距離ミドルレンジさえ超えてしまえば、触手はもはや脅威ではないのだ。

 だから毒を持つ生物へと進化したのかもしれない。それは不明だが、いずれにせよ彼はそれを理解していた。

 否、これではまるで、初めからそれと知っていたかのような――。


「……だが、」


 辿り着いたからといって、それでどうする?

 彼には、目の前の怪物を殺せるような攻撃手段が存在しないはずだ。

 ならば辿り着いたところで意味はない。


 それとも。

 持っているというのだろうか。


 怪物は、触手の動きを止めていた。その隙さえないと悟ったかのように。

 そして青年は、そこで初めて構えらしき体勢を取ると、


「ふっ――っあぁっ!」


 黒く染まった右の拳を、怪物へとまっすぐに突き入れた。

 拳は、触手の群れに隠された内側の本体を捉え、巨体へと突き刺さる。

 右腕が纏う黒き鎧が、バキン、と音を立てて砕ける。

 本体にも毒はあるらしい。


 それでも――青年は小さく、言葉で言った。


「終わりだ。――熾!」

「――《つるぎ》――」


 直後、怪物の頭――頂点をそう呼ぶのであれば――を、黒が貫く。

 渡会に理屈はわからない。ただ何か、決定的な器官を貫かれてしまったのだろう。その巨体が、まるで気体となって溶け出すように、夢の如くして、霞んで消えた。

 怪物が消え去ったあとには、突き出された青年の拳だけが残っている。その手の内に、細く、そして身長に数倍するほど長い、棒のような黒を握り締めて。


「そう、か……そういうことか」


 黒の鎧がなければ怪物の本体は貫けない。

 だが貫けば毒で消える。

 だが毒は魔力のない生身である彼の腕には侵蝕せず――彼は突き入れる拳の中に、


 外側からでは決定的な威力を出し切れなかった魔女の攻撃も、けれど内側から、侵蝕の間もなく一撃で決めてしまえば問題はない。

 そういうことだったのだろう。

 青年が掌で握り締め、怪物の体内へと突き立てた術が、剣となって怪物を刺し殺した。


 結果により事態を理解した渡会に、そして、静かに声が届けられる。


「――終わりだよ、渡会空也」

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