1-13『元英雄と、魔術師』5
なぜか。理由はわからないけれど零れそうになったものを、理由はわからないけれど、熾は心の裡に秘めておく。
なんだかそれは、安易に見せてはいけない気がしたから。
それに、そう。今はそんな場合じゃなかった。
「に、逃げて、――大輝っ!」
おそらく渡会は、まだ大輝こそが鍵であったことに気がついていない。
彼はその場面を見ていなかったから。
魔術を通じて、扉が通じたことに気づいただけ。もし大輝のことを知っていれば、こんなふうにはなっていなかった。
「そうだな、逃げよう。この状況はよろしくない」
そして大輝は、こんな状況でも嫌になるくらい冷静に言った。
それが異世界帰りの肝の据わり方だとでもいうのだろうか。
「立てるか、熾? 思いっきり吹っ飛ばされてただろ」
「み、――見てたのっ!?」
「見えたんだよ、鳥居を超えた瞬間にな。だいぶ焦ったぞ」
言葉の割に焦っている様子は見えなかったが、それは大輝が表に出ないタチなだけ。
実際には非常にまずい状況であることを彼は悟っている。
なにせ本来、戦力になるのは魔術師である熾のほう。助けにきた大輝のほうが弱いのだから、状況は好転していない。
「まあ、喋れるなら悪いがもう少し気張ってくれ」
だから大輝は言う。
――恐怖は教え込んだ。しばらく迂闊に手は出してこないだろうが……。
遠巻きに、触手をくねらせながら蠢いている魔物を、大輝はかつての知識で判断する。
――賢い個体だ。そのほうが厄介かもしれない。
「とにかく、さっさと逃げよう。悪いがアレの攻撃を何度もは弾けないぞ、オレ」
だが熾は首を振る。それはできない。
「む、無理だよ、逃げるのは!」
「……義務感か? もうそんなこと言ってられる状況じゃ――」
「違う、この境内はもう渡会の結界の中なの! 一度入ったら簡単には出られない!」
それは予想していなかったため、さすがに大輝も顔を顰めた。
「……マジか。簡単に入れたのに……」
「簡単に入れるから簡単に出られないんだよっ! だから言ったのに……!」
「でもそれ、オレも逃げられなくないか?」
「……、そうだけれども!!」
それでも逃げろと言いたくなるくらいには、熾も切羽詰まっているということだ。
とはいえ、こうなると大輝も方針を変えざるを得ない。
理想は熾が無傷のままで合流できること。駄目なら次善は熾を連れて離脱すること。
その両方が不可能となった今、選べる選択肢はあまりに限られる。
「仕方ない。……やるか」
選ばざるを得ないのであれば迷う暇が惜しい。
大輝の判断は速く、そして合理的で、だからこそ熾には受け入れがたい。
「や、やるかじゃな――っ」
「言ってる場合でもないだろ。まあ、手分けといこうぜ。橋の上にいるのが黒幕だろ? アイツは熾がどうにかしてくれ。そこまでの道は必ず作る――オレを信じろ」
あっさりと、当然のように大輝は口にする。
いつだって彼は、ただ目の前に立ち塞がる障害へ、真正面から向き合ってきたのだ。
その経験は――たとえ力がなくとも、決して消えてはいない。
「だから立て、熾! お前が必要だ、どうにかしろ!」
言うなり大輝は前に駆けた。
止める間もない。接近を警戒したのだろう、魔物が鞭の如く触手を振るう。
「っ、大輝っ!?」
熾は、すぐに悟った。自分がここで、立てずに這いつくばっているせいだと。
だから大輝は、熾が狙われないように自分を狙わせた。自分のほうが脅威になるのだと魔物に思い込ませるように。
「だっ――らあッ!」
うねる触手を、大輝は左腕で叩き落とす。長く伸びる分、先端を叩けば落としやすい。
ただし大輝が武器にしているのは、折れた左腕を覆っている熾の《純黒》だけ。たったそれだけの武器を、手甲の代わりにして大輝は立ち回っている。
「なんで……?」
このとき熾が疑問したのは、大輝に付与したそれが破壊されないことだった。
鞭のように振るわれる巨大な触手を、大輝は《純黒》のガード部分だけを使って地面に叩き落としていた。触れているにもかかわらず、浸食されている気配がない。
それは、およそ曲芸と言ってもいいような体捌きだ。
「……づっ!」
だが巨大な質量は、地面に叩きつけられるだけでも被害を生む。
跳ねた砂利が大輝に飛んだ。その程度の小石でも、大輝には充分なダメージだ。一瞬の隙が生まれ、それを逃さないようにさらに二本の触手が大輝へと走った。
「う、くぉあぁ……っ!!」
迎撃はできず、大輝はそれを左腕で受ける。
今度は、ついに《純黒》の鎧が毒の侵蝕を受けた。パリン、と脆いガラスのように砕け散る音が響き、殺しきれなかった衝撃の余波を大輝はもろに生身で受けた。
――嫌な音が肩から響いた、と大輝は知覚する。
「づ、ぁあ、……ぎぁあああぁ……っ!」
絶叫。左の肩が外れたのだ。圧倒的な衝撃吸収性能を誇る鎧が外れたせいで、殺しきれなかった衝撃が大輝の体にまで到達していた。
痛みの度合いで言えば、熾に殴られたときよりもさらに大きい。精神論で誤魔化すにも限度があった。
痛みで行動を封じられた大輝の体を、残る触手が――打ち抜いた。
「だ、――大輝っ!!」
決して常識の枠内を逸脱しない、ただの高校生の肉体が吹き飛ばされる。
命懸けで詰めたわずかな彼我の距離が、その一撃によって簡単に戻されてしまう。
再び熾の元まで叩き戻された大輝は、それでも受け身を取って、転がりながらも立ち上がる。
「ふぅ――。肩、入れてくれるとは優しい、ね……っと」
「……………………っ!!」
絶句、した。どうかしているとしか思えない。
今、大輝は――自分が何をしたのか本当に理解しているのだろうか。
避けきれないと理解した瞬間、大輝は外れた肩をあえて打たせることで強引に肩を入れ直した。受ける覚悟があったからだろう、打撃の威力も、致命傷には至っていない。
熾と初めて会ったときに見せた動きに近い、高校生離れした身体運用技術。
――そんなもの、もう、人間としては壊れている。
彼の身体能力はあくまで、がんばって鍛えた高校生という域を出ていない。
だがそれはほんの少しでも動きを違えれば、その瞬間に命が終わってもおかしくないということだ。
黒須大輝が異常なのは、自分が持つ能力の最大を的確に引き出せること、ではない。
――それを、この状況でできるということが、最も狂っている。
身体機能の完璧な制御も異常ではあるが、何よりおかしいのはそれを成立させる異常なまでの冷静さ――否、こんな精神力は、もう冷静なんて言葉では片づけられない。
熾は、それに気づいてしまった。
黒須大輝は自己保存の本能が欠落している。
どんな生物でも――それこそ目の前の異形の生命ですら持っている《自己を守ろう》という本能や反射が、彼の中では機能していないとしか思えなかった。
さもなければ、今の曲芸じみた攻防は成立させられない。冷静なのと、恐怖がないのとでは話が違う。
おそらく大輝は、同じ状況であれば、百度やって百度同じ行為を成功させるだろう。
そんなものはもう、壊れている。
壊したのか、壊されてしまったのかはわからない。
けれど、熾は初めて、彼が異世界で経験したであろう状況に恐怖を抱いた。それはもう魔術師だろうと想像がつかない。
――いったいどんな地獄に突き落とされれば、ただの高校生がこうなってしまうのか。
「だ、……だいじょうぶ、なの?」
口を突いて出たのは、だから、そんな弱々しい言葉で。
この状況で、そんなことしか言えない自分が熾は嫌になる。
「ん? ああ……毒は効かん。アレはオレがいた世界の《魔法師喰らい》って魔物だ」
決してそういう意味で訊いたわけではなかったが、言われてみれば確かに。
あの触手の直撃を喰らったにもかかわらず、大輝には毒を受けている様子がなかった。
「本当はもっと別の、ちゃんとした種族名もあった気がするが、それは覚えなかったな。まあ、とにかく奴の毒は魔力に働くもんだ。魔力がなければ侵されることはない」
「そう……なんだ。だから……」
「ところで熾。あの黒い鎧、もう一回作ってほしいんだけど」
大輝は前を向いたまま、熾へ訊ねた。
心が折れるという気配が、大輝には一切ない。
「魔力がないから生身で受ければいいという説があったが、毒が効かなくても、今のオレじゃ攻撃の威力自体に耐えられない。その点、アレはいいぞ。なんでか知らんが、威力をほとんどゼロにできる」
「できる、けど――でも、魔力に効くんじゃそっちには毒が」
「毒を触手から流し込むには二、三秒はかかる。――一秒しか触んなきゃいいんだよ」
無茶苦茶だった。それ以外にどう表現しろというのだろう。
「無茶、ばっかり……言って」
だってそうだろう。今の攻防で、熾はなんの役にも立っていない。
ただ痛みに呻き、見ていることしかできなかったのに。――だというのに。
「いや本当、無茶を通さなきゃいけない状況ってのはつらいな。でもまあ、悲しい話だがオレは意外と、そういうのには慣れてんだ」
「……まだ戦うの?」
「情けないとこを見せたが、もう大丈夫。今の自分にできる限界はだいたい掴んだ。次は必ず、熾が通る道を作ってみせる。そのあとは、まあ……なんとかしてくれ」
――これだ。
大輝は、有言を見事に実行している。
オレを信じろと彼は言った。
無力なただの高校生である自分を、魔術師に信じろと。
そして彼は、どうにかしろとも熾に言ったのだ。
それを告げてから、大輝は一度も熾を振り返らず、自分の役割に徹している。
その理由は明白だ。
彼は、熾ならば必ずどうにかしてくれると信じている。
信じて、くれているのだ。
一方的に助けられるままではない。
けれど自分に足りないところは、必ず埋めてくれるものだと信じて疑わない。
交わした約束を、必ず守るものだと、当たり前のように。
――だったら、鳴見熾が今やるべきことは、ここで背中を見ていることか?
違う。そんなはずがない。
殴られようが侵されようが、何度でも立って前を見ろ――。
「――《
言葉と同時、幾条もの黒い帯が地面に突き立ち、壁となって大輝と熾を守る。
さらに続けて、熾は言う。
「――《
大輝からは見えないが、熾が作った壁の表面を突起が覆った。
脅し程度にしかならないだろうが、打撃を介してしか毒を送り込めないのなら、時間稼ぎにはなるだろう。
「これでいいか……、ね、大輝」
言って、熾は無理やり体を起こす。
全身が馬鹿みたいに痛かった。
魔力で麻酔をしたいところだが、それをやるとより毒が回るかもしれない。なら少なくとも今は試せない。
だが問題ない。その程度がどうした。
倒れ伏しているよりも、よほど心は楽だろう。
――黒く、そして細い糸が、熾の体の各部から伸びる。
たとえるならそれはマリオネットのような。
言うことを聞かない体を、無理やり動かす最終手段として、熾は《純黒》を糸にして自らに結びつけたのだ。
勇者である大輝が自在に体を動かせるのと同じ。
魔女である少女には、体よりも自在に動かせる魔術がある。
もちろん、そんなものは試したことがない。ぶっつけ本番の思いつきでしかない。
だとしても――それが必要なら、やるだけのこと。
「……大丈夫か?」
わずかに視線を向けてきた大輝に、熾は当然だとばかりに笑い。
「大丈夫に見えるワケ?」
「なるほど、重畳だ」
「それよりちょっと、――こっち向いてほしいんだけど」
無理やり体を動かし、熾は大輝の傍まで歩いた。
そこで初めて、大輝は視線を、正面から隣の熾に移す――その瞬間。
「なにせ緊急事態だから、文句はあとで聞くね」
「おい、なんだ? なんの話――」
「――んっ」
大輝の顔へ手を伸ばした熾が、引き寄せるようにして強引にその唇を奪った。
「んんっ!?」
慌てて逃れようとする大輝。
だが熾は、こんなときばかり強気に、無駄に男らしいくらいの勢いで、
「こら、暴れるな。ちょっとくらい我慢してよ、男でしょ――んむっ」
「ん、ぷは、――んんんんっ!?」
強引に舌が捻じ込まれ、口の中を弄ばれる感覚に、大輝の背筋が何かを訴えていた。
これでもかというほど密な粘膜の接触。
大輝は抵抗もできずに口内を犯され、たっぷり十秒ほどしてようやく解放された。
「オッケ、これで完璧。――言っておくけど大輝のせいだからね、これ」
なぜかそんなことを言って、熾は唇をぺろりと舐めた。
それが妙に艶めかしく感じられてしまい、大輝は咄嗟に首を振って頭の中を掃除する。
「……なぜそうなるのかわからんが、必要なことだったんだな?」
「当たり前でしょ。……ごめんね、勝手に奪って」
「いいよ、別に熾なら」
「それどういう意味ですか話が変わるんですけれどあとで詳しく聞かせてほしいです」
「なんだそりゃ」
「るっさいな。……大輝」
「なんだよ」
「――信じた」
薄く、大輝はその言葉に微笑む。
――それで充分、伝わった。
「行くぜ、熾」
「いつでも、大輝」
ふたりは並び、前を向き、その行く先を死線と定める。
――奪われた勇者と、与えられた魔女の、それが最初の戦いだった。
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