1-12『元英雄と、魔術師』4
「…………っ、う――」
意識を染めていた《黒》が薄まり、思考が徐々に戻ってきた。
今、熾の周囲には黒い影が生物の如く蠢いている。
それらは質量がなく、厚みがなく、物理的な物質ではない。あらゆる干渉を弾く硬度を持つ一方で、揺らめく炎のように形を自在に変える。
影、というのはあくまでも比喩だ。
熾は、それを《
――《隔絶》の理を持つ、それが鳴見熾の魔術師としての能力だった。
そう、能力だ。
現象としては魔術でありながら、魔術師はそれを自分たちが操る魔術と同じものとは認めない。
なぜなら、そこに術理と言うべき法則を持たないがゆえ。
否――それそのものが、人間には理解できない法であるがゆえに。
魔術師たちが自らの振るう力を《魔術》と称するのは、それが人間の研究と研鑽により生み出されたものだという自負があるからだ。
あくまで理屈のある術であるからだ。
だから、彼らがそれを《魔法》と呼ぶことは決してない。
魔法とは魔術師ではない人間が想像するような、杖を振って物体を動かし、巨大な釜でカエルを茹でるような想像上の産物、いかにも
――魔法などこの世に存在せず、単なる空想家の夢物語に過ぎない。
けれど、魔女が使うのは魔法である――。
「これが現代の魔女の実力……いや、能力か」
「――――っ!」
渦を巻く黒に呑まれたはずの、男の声が熾に届いた。
赤く染まった熾の眼が、驚きに見開かれる。
隔絶の概念の奔流は、目に見えない細かい破壊の粒子だ。それに呑み込まれれば、人間など跡形もなく消滅させる威力がある。
にもかかわらず、影の先から現れた渡会は未だに無傷だった。
「なるほど確かに凄まじい。これだけの力を行使できる魔術師などほとんどないだろう。たとえそれが植えつけられたものであっても、お前の力であることに変わりはない」
「……それを、無傷で切り抜けた奴に言われたくないけど」
熾はそう言って返す。
一度、攻撃したことによって、意識を染める黒が濃度を落としていた。それが逆に功を奏したと言えるが、状況自体はむしろ悪くなっていると言えるかもしれない。
――無論、熾の能力とて決して無敵の力ではない。
いくら魔術師がそれを否定しようと、分類としてそれが魔術であること自体には否定の余地がないのだ。魔力をエネルギーとして発生する現象であることには。
熾の《純黒》は隔絶の概念の結晶だ。
ただの力任せの攻撃ではなく、生半な魔術で防ぐことはできない――が、それは裏を返せば、相応の魔術であれば対抗できるということ。
つまり、渡会空也はそれに値する魔術師だということだ。
「安心しろ」
だが渡会空也は言う。
「俺の魔術師としての能力など、たかが知れている。魔女の性能に対抗できるほど、この身に才があるとは自惚れていない」
だとすればより厄介なだけなのだが、確かに不自然ではあった。
事実、知人が集めた情報によれば、渡会空也は魔術として二流以下である。
先天的才能差は魔術において決定的で、努力や精神論では覆しがたい。
ただこのとき熾が気にかかったのは、渡会の能力より、むしろ発した言葉のほう。
すなわち価値観。
彼の言葉は、魔女である熾の能力を認めるものだった。
魔女であるというだけで、あらゆる研鑽を否定されてきた熾にとっては、どうにも信じがたい。
困惑する熾に向けて、渡会はあくまで自らの言葉を語り続ける。
「我が研鑽は成った」
「――――」
「ゆえに、改めて問おう、鳴見熾。お前の研鑽を、認める世界が欲しくはないか」
「……何を、言っている……?」
「俺はこの世界が嫌いだ。今の魔術師の在り方に嫌悪を覚える」
はっきりと、渡会空也はそう言った。
――熾の心臓は、わずかに跳ねた。
「魔術とは本来、力なき人間が神を目指して磨き上げたものだという。生物には常に限界が、不可能が壁として立ちはだかっている。それを突破し、不可能という概念を世界からひとつずつ消していこうとしたのが魔術師の始まりだという。そのはずだった」
それは、あらゆる魔術師が最初に知るであろう、人類における魔術の起源。
不可能があった。人間には、あらゆるものには不可能という限界がある。だから魔術は人間の機能を拡張し、不可能をひとつずつ可能へと変えていった。
魔術をひとつ覚えるということは、不可能をひとつ消すということ。
そうでなければならなかった。
ならば、行き着く先は決まっている。
人間から全ての不可能を取り除いた先、すなわち万能――それは言い換えるならば神の座である。
それが魔道の果てとなるべき終着だ。
全ての魔術師は、最初にそれを学ぶことになる――けれど。
「今の世界に、そんなことを本気で信じている魔術師がいるか? 人間はあまりに科学を発展させすぎた。魔術はとうに忘れられた。今や多くの魔術師が、魔術の価値を、小遣い稼ぎの手品へと貶めてしまった。……そんなのは、あまりにも嘆かわしい」
「……、お前は」
稀に、魔術師の中にそういう手合いがいることなら熾も知っていた。
発展しすぎた現代文明において、もはや魔術師などという過去の遺物の居場所はない。
現代の魔術師は、その大半がひっそりと、ちょっと便利な力を持つだけの、ただの一般人として日々を暮らしている。
社会の裏に潜もうと、枠自体からは逃れられない。
――それを認めずに、魔術師は本来の在り方に戻るべきだとする勢力も、確かにいる。
ただ、渡会の主張はそれとも異なった。
「だから俺は、魔術が魔術として、正しく在る世界に向かうべきだと考えた」
その言葉の意味するところが、この世界を変える――などではないことを熾は察する。
なにせ前兆はあった。
大輝が言っていた。昨夜、あの血の魔術陣から現れた怪物を見て彼は言った。それは異世界のものである、と。
異世界――異世界である。
そんな、魔法という言葉以上に馬鹿げた夢物語を、本気で追いかける者がいるのなら。
「お前は……まさか」
「こんな世界に未練などない。なら俺は、俺が必要とする世界を自ら見出す」
「そん、な……馬鹿げたことを、本気で……!?」
「――馬鹿げてなどいない」
「……っ!!」
言葉が震える。そうだ、だって熾は知っている。
一笑に伏すべき、妄言と呼ぶのも下らない彼の目的が――けれど可能であることを。
それを証明している人間を、知っている。
「つい昨日だ。俺はついに、異世界へと門を開いた。研鑽は成った!」
だとすればまずい――あまりにもまずい。
魔術では異世界に行けないはずだ。だって異世界とは、この世界と働く法則そのものが異なっている場所のはず。
魔術のルールは、この世界でしか適用されない。それが常識だ
ならば渡会の研究は本来、一生を費やそうと絶対に成就しないはずのものだった。
当然だ。たとえ門があっても、それを開く鍵がこの世にはなかった。
どんな鍵を作ろうと、どんな錠開けを試そうと、この世界とは違う理屈で構成されるものには届かない。
だが。
もしもそこに、縁を繋げる鍵となる人物がいたのなら。
鍵の形を、渡会が知ってしまったなら。
あり得ざるべき偶然だ。渡会だってなぜ可能になったのか理解できてはいまい。
答えのほうが勝手に飛び込んできたのだ、彼は意味も知らず、ただそれを覗いたに過ぎない。
だとしても。
「まだ俺では通れない。だがモノによっては、向こうから呼び出すことができる」
「お、前……っ!!」
「――見ろ。俺は証明した。歴史において俺だけが達成した。これこそが俺の足跡だ! 異世界は実在する。魔道が続くべき先を、この俺は垣間見たぞ、――魔女!!」
叫び、そして渡会空也は己が魔術を起動する。
右手で左の手首を掴み、左手は上を向けて胸の前で開く。その手の内に、どこからともなく赤い液体が集まり、球形を為した。
その手を、次いで渡会は翳し、足下へ向ける。
「っ――召喚魔術!」
実際に見れば熾にもわかる。
自らの血液を召喚する魔術を用いて、本来の目的である別の対象を召喚する陣を描く。
いわば二重召喚。
召喚魔術に必要な陣そのものを召喚魔術で描くという発想。いかにも魔術師らしい、効率化と最適化、そして精度の向上にも役立つ見事な術だ。
おそらく、それが渡会本来の魔術適性だろう――だが。
「見ろ。この、魔力に満ちた生命を」
橋の上に描き出された陣が、直後、魔力の輝きとともに鍵を開く。呼び起こす。
そうして現れたのは、昨夜に見たモノとも違う、異形の怪物――否、異邦の生命種。
それは、全身が毒々しい色合いの触手で構成された、たとえるならば絡み合った植物のツタの塊――そんな印象を与える生物だった。
そう、生きている。
蠢き、絡み合うツタの中に球形の本体を隠している。
「素晴らしいな。向こう側には、これほどの生物が普通に存在しているのだから」
だが。こんなものを召喚と呼んでいいものか。
本来なら、呼ぶべき対象と縁を繋ぎ、あるいは契約を結び、応じてもらうことで召喚は成立する。
けれど、これは違う。
開いた穴から無造作に、たまたまあったものを引っ張り出しているだけだ――とてもではないが、召喚と呼ぶには乱暴すぎる。
制御とは程遠い。ロクな召喚術ではない。渡会がしていることは、単なる指向性の付与に過ぎなかった。
方向だけ決めて、あとは暴走させているのと何も変わらない。
「本当に素晴らしい――嗚呼、まさに
だが、確かに、それでも。
――かつて魔術師が、おそらくは一度も到達していない領域へ。
この世界ならざる異世界へと干渉する魔術を、渡会空也はその手にしていた。
「行け、異界の命。その力を、俺に見せろ」
言葉の直後、触手が伸びた。
それは高速の打撃だ。
だが熾も、自身の目の前に純黒の盾を生み出して攻撃を防ぐ。
打撃が、熾の盾を打った。
その純黒は断絶だ。
いかな異世界の魔物でも、破るのは決して容易では――。
「――、あ」
と、気づいたときには遅かった。
――黒が、侵されていく。
毒々しい触手は、見た目の通り本当に毒があったとでもいうように、熾の純黒の防御壁を侵蝕した。
魔力すら侵す毒に蝕まれ、純黒が――砕けた。
それが砕ける、という光景自体を、熾は初めて目にしている。
まるで、真っ黒なガラス片が飛び散っているかのような、不思議な光景が目についた。
綺麗だと、ふと思った。
――次の瞬間。
熾は伸びてきた触手を回避できず、その一撃を真正面から喰らって吹き飛ばされた。
「ぐ、――ぶ、は……っ」
息が、できない。巨大な鞭で叩きつけられたようなものだった。
熾の小さな体は端から数メートルも宙を飛び、手前にある砂利の地面に転がった。
「ぅあ……っ、か――は、ぁ……っ」
まともに喰らったせいでダメージが酷い。肋骨にヒビが入ったかもしれない。
かろうじて致命傷を免れたのは、反射的に自分の胴を純黒で覆ったから。
大輝の左腕にしたのと同じ処置だったが、咄嗟すぎて完璧には間に合わなかった。
「ま、ず――い」
どうすればいい。巨体の怪物は熾のほうへ、徐々に近づいてきている。
熾は這いつくばったままの体勢で、それを見ていた。
幸い、触手の振りは速いが移動の速度は遅いらしく、ここまで辿り着くにはまだしばらくかかるだろう――とはいえ。
その時間を少しでも回復に当てるという、消極的な策は取れない。
――大輝を待たせている。
約束した。三十分は持たせると、彼女は誓った。
それは契約ではないが、けれど確かにそう言ったのだ。たとえ死ぬとしても、このまま無様に終わるわけにはいかない。
地に倒れ伏したまま、熾は前へと手を伸ばす。
「――《棘》」
呪文。一単語によって構成される短文は、慣れた魔術の発動を最適化する。
鋭い棘状になった純黒の針が、無数に分裂して魔物に殺到した。それらは確かに効果を発揮し、怪物の触手を穿ち、削っていく。
――悲鳴のような、耳障りな鳴き声がした。
わずかな、時間稼ぎだった。
少しの時間があれば、触手の毒が純黒に回って、組成が崩壊してしまう。
また触手をいくら削ったところで、おそらく中心にある本体には届いていない。
「核以外への攻撃は意味がない、だっけ……。まあ削れはする、けど――こふっ」
肋骨どころか内臓を痛めたかもしれない。
咳とともに、ほんのわずかだが赤い唾液が砂を濡らした。
「……どう、すれば……」
人間の魔術師相手には無敵に近い熾も、魔物なんてものと戦ったことはない。
そして、一度でも攻撃を受けてしまっては、彼女自身はまだ十四歳の少女に過ぎない。
ぼろぼろになった体では、立ち上がることさえ難しかった。
常識など知ったことではないとばかりに、長さ自体が伸びているとしか思えない触手が熾に迫る。吹っ飛んだお陰で距離があり、そのためか数は減っていた。
かろうじて対処できたのはそれが理由だろう。長さと数は両立できないらしい。
「……《刃》」
厚さのない純黒が宙を走り、迫り来る触手を断ち切っていく。
防ぐと毒で冒されるため、いちいち狙いをつけて切断しなければならない。
――だが、それもやはり時間稼ぎだ。
限界は、前触れなく熾の目の前に現れた。
「づ、……うぅあぁ……っ!!」
突如として全身に激痛が走ったのだ。
打たれた痛みではない。
肉体ではなく、もっとどうしようもない部分への侵蝕だった。
――毒が、さきほどの一瞬で、熾にもわずかに侵蝕していたのだ。
魔術師である以上、熾も痛みには強いほうだ。だからといって限度があるし、そもそも激痛に苦悶した一瞬は、魔術を制御できなかった。
それが致命的だ。
砂利の地面に、少女は倒れ伏してしまう。
その瞬間にはもう、熾の妨害を逃れた一本の触手が、彼女を侵し潰さんと迫っている。
――間に合わないということを、熾はこのとき直感していた。
詰みだ。今からではもう防げない。
次にあの触手に打ち抜かれたら、毒など関係なく、その威力だけで死ぬだろう。
防御も回避も迎撃も、もはや熾にはできなかった。
それでも顔を上げたのは――契約を、彼女は覚えていたから。
ただでは死ねない。
死ぬとしても諦めて死ぬなど絶対にできない。
せめて大輝を逃がさなければ。
彼だけは、命と引き換えにしてでも、絶対に守る。
その誓いがあったから、彼女の紅い瞳は――それでも迫り来る死を見据えた。
だから。
だから見えた。
その視界に、飛び込んでくる背中があることを。
「っづぉお――らぁあッ!」
振るわれる左腕。
袖をまくり、露わになった黒色が、丸太のような触手を打ち払った。
あと一瞬。それだけあれば確実に熾の命を奪っていた死が、強引に、嘘みたいな力尽くによって薙ぎ払われたのだ。
少女を守るために。
そのために、青年は当たり前のように死地へと飛び込んだ。
――このとき目にしたその背中を、きっと一生、忘れはしない。
「なん、で……っ」
声が震えた。
あり得ないと思った。
そんな、物語みたいに幸せなことが、自分に起きるはずがないのだから。
――それでも。
「なんでって、そんなの決まってる」
痛む左腕を押さえながら、少女をその背に庇った青年は。
わずかに振り向くと、薄い笑顔を見せながら。
「熾を、助けにきた」
「……う、ぁ――」
そうしないはずがないだろうと、当然のように態度で示した。
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