1-11『元英雄と、魔術師』3
大輝の目へ翳すように振るわれたその右腕を、咄嗟にしゃがみ込むことで回避する。
足の裏を固定されても、上体を落とすように膝を曲げることならできた。
限界まで引きつけてからの動きは、憂からは大輝が消えたようにも見えただろう。
ただ、それもせいぜい瞬間程度の時間稼ぎ。
憂はもちろん、大輝が屈んだだけで、その場から動けてはいないことを知っている。身のこなしは器用だが、それだけだ。
一方で、大輝は憂に何をされているのかわからない。
足を固定されたこと、だけではない。
無造作に触れようとするだけにしか見えない憂の左腕。それに触れられると、おそらくまずい――動きからそう読み取るしかできない。
触られただけでお終いならば、防御することすら不可能だ。――だから。
「――ふっ」
屈んだ大輝は直後、まるで跳ね返るみたいに今度は立ち上がった。同時に大輝は、骨にヒビの入った左腕を思いっ切り振るう。
確実に憂の意識の隙を突いた。
ただしゃがんで、再び立った――行動としてはそれだけだが、大輝の身体運用は、確かに魔術師の虚を突くことに成功していた。
立ち上がりながら、裏拳に近い挙動で振るわれる大輝の左腕。
憂は驚きつつ、それを両腕で咄嗟に防御。
いくら虚を突こうとも、その場から動けない大輝の一撃では姿勢を崩すことすら難しい――はずだった。
「――っ、づ……!?」
予想外に重みのある一撃に、思わず憂は呻いた。
何が起きたというのか。まるで左腕に鋼鉄の手甲でも仕込んでいたかのような衝撃が、両腕の痺れとともに憂の体勢を崩す。
そして大輝は、作った隙を逃さない。
がら空きになった彼女の腹部へ、大輝の右の拳が走る。
「――――っ!」
「や、ば……っ」
腰を使って上体を捻り、回転軸を作るように振るわれる大輝の拳。固定された体勢から放たれたとは思えない威力を秘めている。
まともに喰らってはまずい――と、咄嗟に思わされてしまったことが憂の失敗だった。
ゆえに。
大輝の振るった拳が、憂の脇腹に突き刺さる――寸前。
「――――っ!」
「うっ、――くぅっ!」
大輝の足の裏と、地面との接着が解除された。
固定されていることを前提にして、体重を前に乗せた一撃だ。足が開放されたことで、逆に大輝の体勢が崩れてしまう。
つんのめりながらも、右足で転ぶのを堪える。
結果、大輝の攻撃には、想定ほどの威力が乗らなかった。
拳は確かに憂を捉え、多少のダメージを与えることには成功したが、それだけ。
すぐに憂はバックステップで距離を取り、大輝との間合いを離していた。
「――――」
思考の猶予はわずか。このあとの動きは勝敗に関わる。
このまま後ろへ駆けて熾の元へ向かうか、憂へと追い討ちをかけるか――刹那の判断。
大輝は、解答に後者を選んだ。
憂が動きを止めてきた方法が大輝にはわからない。
もし念じるだけでこちらを動けなくする類いの魔術であれば、彼女に背を向けることはできないだろう。
一か、八かだ。
大輝は左腕を盾にするよう顔の前に構え、そして地を蹴った。
低い体勢のそれは、レスリングのタックルに似ている。違いは左腕の盾だ。
大輝は、自分の腕を覆う厚さのない黒の膜――影のようなそれが何か知らない。知っているのは熾がこれを魔術で創り出したことと、尋常でない硬度があること。
そして、衝撃が内部の腕に浸透してこないことだ。
一方、それがわかっていないのは、憂の側も同じである。
大輝はその一点に賭けた。
――体の倒れる音が響いた。
大輝の左腕を、憂が右手で掴んで押さえている。
「……やられたなあ」
と、憂は言った。仰向けの状態で。
その上では今、彼女を押し倒した大輝が、馬乗りになって憂の動きを封じている。
「その左腕を……ずいぶんと信頼してたんスねえ」
大輝のタックルを食らい、憂が押し倒された最大の理由はそれだ。
青年に魔術師のことがわからないのと同じで、憂もまた大輝の正体を知らない。
一撃を受けたことで、大輝の左腕を必要以上に警戒してしまい、ほんのわずかに反応が遅れた。
「……どうかな。骨折したから、テーピングしてあるだけなんだが」
「骨が折れてる腕を振り回してたんスか、キミ? 絶対それ痛いでしょ……」
「固定が頑丈でね。衝撃は中まで来ないんだ」
「それは腕を振り回しても痛くないって意味じゃないと思うっスけど」
その通りだったし激烈に痛い。
確かに熾の影は頑丈で、打撃による衝撃は腕に浸透しない。
が、覆われていない部分と筋肉は普通に繋がっているのだから、振り回せば普通に痛みがあった。
「で、どうする気っスか? あたしはこうして、押し倒されちゃったわけっスけど。別に負けたとは思ってないっスよ?」
「……そうだな」
実際、この体勢に持ち込んだところで、できることなど限られている。
現代日本で安易に殺人などできるわけもなかったし、当然やりたくもない。
一方、憂はおそらく魔術を用いれば、この状況からも逆転ができるのだろう。
――たぶん、魔術の発動には相応のラグがある。
少なくとも念じればすぐに発動する、というほど便利なものではない。今の攻防で、大輝はその確信を強めていた。
けれど何か呪文を唱えるとか、相応のジェスチャーがあるなどといった、わかりやすい前兆を大輝は見つけていない。
仮に必要ないとすれば、ラグなどあってないようなもの。
有利ではあるが、魔術の発動を必ず阻止できる、と大輝に断言はできないのだ。
だから、
「だから――ここからは交渉だ」
大輝は言った。
その言葉があまりに予想外だったから、憂はきょとんと目を見開く。
「……交渉? どういうことっスか」
「時間が惜しいから端的に言う。オレの依頼を請けてくれないか」
「は……、はあ?」
「運び屋なんだろ? その憂に依頼したい。――オレを、熾のところまで届けてくれ」
「――――」
その、あまりにも状況を無視した大輝の依頼に、さすがの憂も絶句した。
足止めの依頼を請けていることは、彼にも伝えたはずだ。
にもかかわらず、それと相反する依頼を、同じ人間相手に言ってのけるなど――剛毅というか、考えなしというか。
「……できないっスよ。先に請けた依頼が優先なのは、さすがに当然――」
「思ったんだが。本当に、オレをこの先に入れるな、なんて依頼を請けてるのか?」
憂の言葉を遮るような大輝の言葉。
それに憂は目を細めた。
「……あたしが嘘を言ったと?」
「そうは言わない。けど、おかしいとも思ってる。その依頼には意味がない」
「…………」
「だって、もともとこの辺りには、結界が張られてるんだろ。最初から一般人は近づいてこないようになってるんだ。だったら、わざわざ憂に人払いを頼む意味がない」
「……どうっスかね。念には念をってことはあると思うっスけど」
「そうかな、そうは思わない。オレはもっと憂を高く買うよ。そんなに安くないだろ?」
そう。参道を含めた広範囲に人払いの結界を、さらにその中心部分の別の結界を。この場所には二重の結界があることを、大輝は熾から聞いていた。
一般人は今、この場所へ近づいてこない。
近づく者がいるとすれば魔術師だけだろう。ならば、
「憂が請けた依頼は、この場所に近づく熾以外の魔術師を遠ざけることじゃないのか?」
「……。だから、魔術師ではないキミのことは見逃せって?」
「そうは言わない。だから依頼をするって言ってるんだ。言い訳がいるなら今のを使ってくれればいい。実際に届けろとも頼まない。ただ、見逃してさえくれれば」
「――へえ?」
にやり、と憂は口角を歪めた。
少なくとも、一考に値する提案だとは認めてくれたらしい。
「ま、仮にそうだとしても。さっきキミも言った通り、あたしはそんなに安くないっス。出せるんスか? キミに、あたしを買うに値するだけの対価が?」
「さっきは安価であることをセールスポイントにしてたような気がするんだけど……」
「高く買うって言ったのはキミのほうっス。誠意、見せてほしいとこっスよ?」
――話に乗ってきた。
あとは大輝に、憂を満足させるだけの対価が払えるかどうかだ。
それなら、大輝には払えるものがある。
「後払いは応相談――だったよな?」
「なんスか? バイトして稼ぐまで待ってくれ、なんて言わないでほしいんスけど」
「まさか。オレが憂に支払う対価は、お金じゃない。情報だ」
「情報?」
「――オレの正体を教えてやる」
気後れするような素振りは見せられない。できるだけ高く売りつけてやる。
元より、黒須大輝が持っているものはそれだけなのだ。せいぜい偉そうな顔でいよう。
「金に換えられる情報じゃないよ。こんなチャンスは二度とない」
「――く、ふっ、はは……あはははっ!」
果たして。
開き直った大輝の言葉に、憂は笑いを堪えきれなかった。
「は、――はは、あははははは! 確かに、確かに知りたいって言ったっスね! しかもさっきのを見ちゃあ、それには高値をつけざるを得ないっス。はは、あはは……っ!!」
「……交渉成立と思っても?」
「ひー……いやあ、オッケーっス。まったく、まさか買収されるとは……ね、大輝」
ふと名前を呼んだ憂に、大輝は首を傾げて言う。
「……なんだ? 悪いが時間が惜しい、話してる暇は――」
「えい」
「――うぉおっ!?」
掴んでいた大輝の左腕を、憂はそのまま自分の胸元へと誘導した。
服の中へ、だ。柔らかな感触の谷間に腕が挟まれ、人肌の温度を感じさせられる。
「は!? おま、何して――!?」
「もう。あんま、暴れないでほしいっスよ……ん、あっ」
「喘ぐな! 頭おかしいのか!?」
「あるでしょ、胸の間に。いつもそこに入れてるんスよ。出してほしいっス」
言われてみれば、憂の胸の間には本当に何かが挟まれていた。
大輝は表情をがっつり顰めて、それでも言われた通りに、谷間から薄い紙を取り出す。
「……なんだこれ」
「何って、名刺っスよ。渡すって言ったじゃないっスか」
言われて見れば、確かにそこには《愛子憂》の文字と、連絡先らしき数字の羅列が。
大輝はそれを制服のポケットに仕舞い込み、憂の上からどくべく立ち上がって。
「……なぜ胸の谷間に名刺がある」
「えっちなおねーさんだからっス」
あまりにもあっさり告げられた頭の悪い答えに、ツッコむ気力はなかった。
そんな大輝に、こちらも立ち上がった憂は薄く笑って、ふと訊ねた。
「ちなみに。もし外側の結界を張ったのがあたしだったら、どうする気だったんスか? その結界を張るためにあたしが雇われてた可能性もあったと思うんスけど」
問いに、大輝は真顔で答える。
「……考えてなかった」
「最高っス。そうでないと」
言って、笑って。それから憂は、大輝に告げた。
「――行くなら急いだほうがいいっスよ。間に合うかどうかは五分っスね」
「ああ、そうだな。……ありがとう」
大輝は頷き、踵を返す。
――三十分は絶対に持たせる、と熾は言っていた。
その言葉を大輝は信じる。
それでも、可能な限り急ぐに越したことはないだろう。
大輝は振り返らず、今度こそ熾の元へ辿り着くために駆け出した。
「――大輝!」
そんな背中に、ふと声が届く。
大輝は振り返らない。そんな時間はないし、憂もそれはわかっているだろう。
それでも、彼女の声は確かに、背中へ届いた。
「生きて戻ってきてくださいよ! 料金の取り立ては、絶対にまからないっスからね!」
言われるまでもなく、大輝には死ぬつもりなどさらさらない。
無論、死なせるつもりもだ。
鳥居を超え、内側の結界へと侵入する。
その先で、熾が待っていることを信じて。
※
――ひとり境内へ入った鳴見熾は、その先の空気に思わず顔を顰めた。
魔力の濃度がキツい。明らかに自然状態ではないが、人為的にできることなのか。
「……急いだほうがいいかもしれない」
なんらかの魔術的実験が、あるいは実を結ぼうとしている可能性がある。
往々にして、その手のものは自己で完結しない。必ず、どうしようもない被害を周囲へ撒き散らすのだ。
魔術とはそういうもので、だからこそ熾のような人材が必要となる。
広い境内をまっすぐ進むと、やがて橋が見えてきた。
――その上には、ひとりの男が立っている。
熾もまた端に足を乗せ、その途中で止まると男に声をかけた。
「渡会空也ね?」
一度は間違ってしまったが、今度の場所は明るい。電気が通っているのだろう。
だが境内にほかの人影はなかった。
どうも空間を捻じ曲げ、もともと神社にいた人々を位相ごとずらしたのだろう。
この場所は境内であって、また同時に境内ではない。
「……鳴見熾か」
果たして、長髪の男は答えた。写真で見た通りの顔だ。
低く響くような声に、熾はすっと目を細め、警戒の度合いをひとつ上げる。
「へえ。私のこと知ってるんだ? 話が早くていいね」
「この街のことは、ずいぶんと調べた。必要だったからな」
「……、そう」
「もっとも、あまり成果らしい成果はなかったが……お前のことは別だ。ずいぶん有名なようじゃないか。魔術師らしくもない」
挑発、という様子はない。だがそう言われるのは気に喰わない。
すでに臨戦態勢は取っている。
瞳は赤く染まり、いつでも魔術を発動できる状態だ。
ただ渡会のほうは思いのほか落ち着いた様子だった。
纏う魔力は穏やか、否、どうにも覇気がない――といった風情。
少なくとも、あまり実力のある魔術師とは思えない。
「一応、仕事として言っておく。投降するなら命までは取らないけど」
「……お前、俺を止めにきたのか」
「はあ?」
熾の勧告に、今さらすぎるズレた返事を渡会は返した。
熾としては微妙な心境だ。出鼻を挫かれた、と言っていいかもしれない。
「当たり前でしょうが。今さら何を言って――」
「お前だって、ここではない世界に焦がれているのではないのか」
「――――…………」
「そうだろう? そうではないのか。これは運命だ。ああ、この街にでしか手に入らないものがあると俺は知っていた。知っているんだ。だが見つけられなかった。どうあっても俺を導いてはくれない。くれない? いいや違う、そんなはずはない! だからこうして行き遭った。そうだろう? お前はどうだ。お前は違うのか、鳴見熾?」
「……何……?」
何かがズレている――そう思えてならなかった。
会話が成立しているようで、どうも話が要領を得ない。理性を失っているわけではないようだが、それでも目の前の魔術師は、明らかにどこか人格が破綻している。
――魔に呑まれて、自分を見失ったか……?
熾は目を細め、熾は思考を回す。
一方の渡会は、だからやはり、挑発のつもりもなく。
「違うのか? お前は、自分の世界が間違っていると考えたことはないのか――魔女よ」
刹那、――魔力の渦が迸った。
それは目に見えず、感覚としては突風の如く熾を中心に圧を散らす。
無論、たとえ常人の目には見えずとも、魔術師であるならば理解できる。
「――私を、魔女と、呼ぶな……ッ!」
顔を押さえて、熾は呟く。指の隙間から、血のように赤い瞳が渡会を睨んでいた。
凡百の魔術師であれば、この段階で涙を流しながら熾に命乞いを始める。
膨大な魔力の渦が、物理的な圧力さえ伴うほどに膨れ上がったのだ。その総量は異常と言うほかない。
だが渡会は、気圧される様子ひとつなく答えてみせる。
「それだ。それだよ、――鳴見熾」
「――何が、言いたい?」
「お前が魔女と名乗ることすらできないことが、この世界の限界だ。お前の強さに、その能力に――俺は敬意を表する。だがこの世界は決して、お前を受け入れはしないだろう」
「黙れ。……お前に、何がわかる」
「わかるとも――そうだろう、人工の魔女」
「――――」
熾は押し黙った。
渡会は何やら言いたいらしいが、知ったことではない。
その先を言葉にしたら殺す。
侵入者だからでも仕事だからでもなく、言ってはならないことを言ったから殺す。
その意識に、熾の思考は完全に染め上げられていた。
そして渡会は、熾が思った通り――言ってはならないことを口にした。
「お前は、この世で唯一――この世界の歴史においてただひとりの後天的な魔女だ。人の手によって生み出され、そして遺棄された、現存唯一の魔女症例。その検体。それが、」
「死ね」
直後、熾の足下から染み出るように広がった黒の影が、質量を持って渡会を襲った。
圧倒的な魔術だ。呑まれたものは、闇の内で刻まれ、押し潰されて、バラバラに死ぬ。
言うなれば、それは上位者による命令だった。
大輝が見てきた、少女らしい鳴見熾の姿はそこにはない。
今ここに立っているのは、――魔女。
そう。もはやそれは、鳴見熾であって、鳴見熾ではなかった。
言葉は撃鉄だったのだ。
契機となり得る呪文に等しかった。
熾の中の《魔女》を呼び起こす行いだった。
――魔女とは。
魔女とは生まれついて、魂に魔術を刻み込まれた人間を指して言う。
本来、魔術とはすなわち技術であり、学習と鍛錬によって身に着けるもの。
どんな天才たちだって、生まれついて魔術が使えたわけではない。全ては後天的な学習による。
だが魔女は違う。
魔女は、生まれついてその身に魔術を宿す、生きた呪いなのだ。
ある一点を指向する、生物というよりも現象に近い存在。
在るだけで周囲の命を脅かす――そういう呪い。
少なくとも魔術的にはそう解釈され、ゆえに歴史上、魔女は人間にとっても――魔術師たちにとってさえ、人間として扱われることなどあり得なかった。
けれど。熾はそれとも少し違う。
鳴見熾は、魔術の世界においてただひとり、――生まれたときは人間だった少女だ。
ゆえに彼女は嫌悪する。
魔女と呼ばれることを厭い、魔女である自分を嫌い、それでも――どうあっても魔女としての在り方を、自身から切り離すことができないでいる、己の弱さを嫌悪する。
今だって同じだ。
呪いとしての役割に殉じ、それを暴く者を、まるでシステムのように殺してしまう。
それが、鳴見熾という名の症例だった。
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