1-08『元英雄の、日常』4
店内へ現れた姿を見て、大輝はほんの一瞬、硬直する。
無論、即座に再起動には成功して、大輝は咄嗟に目線を元へと戻した。
彼にとって幸運だったのは、まず自分が通路側の座席だったことだ。
前方を向いて顔を逸らしていれば、背中側を通る客が大輝に気づく可能性は低い。
ふたつ目の幸運は、今やって来た来店者がふたり組だったこと。ふたりとも大輝と同じ御社高校の制服姿だったが、大輝が知っているのは片方だけ。
店員に案内されて近づいてくるが、連れに意識が向いていれば、大輝に気づく可能性はさらに減るだろう。
そして三つ目の幸運は、大輝の連れである熾が今、何か考え込んでいることだ。
それは不意に名前を呼ばれ、それを聞き咎められる可能性も多少ながら減っているということ。
「――――」
ゆえに。とにかく大輝は自分の存在感を消すことに注力した。
もちろん大輝には、魔法のように姿を消したり、他人の認識を逸らしたりすることなどできない。
可能なのは音を殺すこと。
呼吸音を、動く際に生じるわずかな衣擦れの音を、自身から発生するあらゆる気配を最小に留めることだった。
大輝が異世界から持ち帰った技術のひとつだったが、意味があるかは怪しいところ。
初めから死角に潜んでいるならともかく、普通に視界に入る位置だ。どれほど存在感を殺そうとしても限界がある。
だからこそ、決めるなら最速で行う必要があった。
ただ新しく来たふたり組は、よりにもよって大輝の隣の席へと案内されてしまう。
その不運は呪いたいところだが、幸運もあったのだから帳消しだろう。
「おー……なんか、こういうお店来るの初めてかも。普段チェーンばっかだし」
隣の席に座った客の、片方がそう口を開いた。
御社高校の女子生徒ではあるようだが、生憎と大輝は見覚えがない。小柄だが、それで学年がわかるはずもなく、ただ明るそうな印象を受けると思うだけだった。
「確かに、ちょっと入りにくいよね」
その少女に、もうひとりの少女が答えて言った。
大輝の知り合いはこちらだ。
大人しい性格の少女で、快活そうな連れとは対照的だ。
「わたしも、なかなか友達に紹介しづらいんだけど。でもオススメなんだー」
「へへぇ。唯架ちゃんの行きつけに連れてきてもらえるたぁ、あたしも幸運ですなあ」
――その瞬間、すっと大輝は立ち上がった。
それは、流れるように美麗な動作。周囲を全て知覚し、けれど意識を向けていることを知覚させず、意識の間隙を縫うように無音で行動する、洗練された身体操作だ。
使い道が伝票を持って会計に行くことでなければ、手放しで称賛すべき技量であろう。
その自然さは、目の前に座っている熾ですら、大輝が立ち上がったことに気づかないというレベル。椅子を引く音すら立てずに大輝は立った。
立って、そして、歩いたのだ。
それだけと言えばそれだけであり、それだけのことをして大輝は会計に向かう。
レジ前に着いてから、片手を挙げて店員を呼び、
「すみません、先にお会計お願いします」
ふたり分、纏めて代金を支払う。
結果的にはこっそりお金を払っておく太っ腹な奢りみたいな感じになったが、心中ではただ一刻も早く、見つかる前にこの店から逃げたいと思っているだけだ。落差が酷い。
とはいえ大輝は内心、ガッツポーズを決めている。
思ったより体が上手く動いた。やはりどうにも左腕を庇いがちになるのは仕方ないが、それ以外は十全だ。
昔ほどの身体能力はなくとも、身体操作の感覚は戻りつつある。
――戻ってきてから始めた筋トレ、結果が出てきてるな……やった。
若干、関係ないところで喜びつつ、レシートを受け取って席へ戻ろうとする。と、
「……………………」
さきほど入店した少女が、引き攣った顔で大輝を見ていた。
それはもう、ぜんぜん普通に思いっきり当たり前みたいな感じであっさり見つかった。
――当然ながら、大輝がいかに音を殺そうが、別に姿が消えているわけじゃない。
偶然でも視線が向けば気づく。当たり前だ。
音だけ消しても意味がない。ほかの感覚も普通に人を捉えるのだから。
大輝の奮戦は、本人の満足とは裏腹、無駄な足掻きだった。
「……どしたの、唯架ち?」
少女の正面に座った友人らしき子が、名前を呼ぶ。
唯架と呼ばれた少女は、はっとした様子で慌てて彼女に向き直り、手を振って言った。
「あ、あ――ううん、なんでも!」
「え? でも今、あそこのヒトじっと見て――」
「わ、わたし、ちょっとお手洗い行ってくるからっ!」
言うなり少女は立ち上がり、そのまま店内に洗面所へと駆け込んでいった。
わけがわからない様子で、快活そうな友人は首を捻り、その視線を大輝へと向ける。
「…………」
大輝は視線を逸らし、席へ戻った。
さすがに顔を上げている熾に、彼は言う。
「熾、そろそろ出ようか」
「へ? あ、うん、いやでも、えっ?」
事情が掴めず、熾は困惑していた。
その隙を突くように、隣席の少女が声をかけてくる。
「あの! えっと、すみません。ちょっと、いいですか?」
まさか声をかけられるとは想像していなかった。
面倒な事態だ。それでも、なるべく角の立たない表情で大輝は答える。
「はい?」
「あ、――や、その制服、御社ですよね。もしかして、唯架の知り合いなんですか?」
怪訝さを隠しきれていない視線が、大輝をまっすぐ射抜いていた。
「……君は?」
「……友達です。唯架の」
慎重、というよりは警戒された返答だった。大輝はなんだか笑いたくなる。
いい友達がいるんだな、と安堵したくなるような気分だ。
だから答えにそれを選んだ。
「小中と同じ学校だっただけだよ。だから知ってはいるってだけだ」
「同じ学校――」
「ごめん、もう出るから。それじゃあね」
言うだけ言って、大輝は視線を熾へと戻す。
首を捻りながら立ち上がる彼女に、心中で謝りながら。
「会計は済ませておいたから」
「うぇあっ!? でも、その……それは、あの、ありがとござい、ますです……?」
なぜか顔を赤くして恐縮する熾を連れて、大輝はそのまま店をあとにする。
しばらく、無言のまま歩いた。どこへということもなく。
そう間も空けず、普段の調子を取り戻した熾が、大輝へと問う。
「……どしたの、いったい?」
「ああ……だよね。いや、ごめん。オレの都合で勝手に店を出たりして」
「それはいいけど……聞かないほうがいいこと?」
少しだけ、その気遣いに甘えようかと誘惑された。
だが、それはフェアじゃないと思い直す。迷惑をかけたのは大輝の側だから。
「隣に座ったふたり組。あれ、片方が知り合いなんだ」
「話しかけてきたほう……って感じじゃなかったか」
「うん、そっちは知らない人だね。悪いことしたかもしれない」
「……で?」
「もう片方――
発端は家が近所だったという、ただそれだけのこと。
きっかけなんて覚えていないが、確か小学校の低学年くらいの頃には、もう親しくしていたと記憶している。
落ち着きのある大人びた性格の少女で、なんだか馬が合ったのだ。
――異世界へと飛ばされてしまうまでは。
「なんか、気まずげだとは思ったけど」
「……熾でもそれはわかるんだな」
「おっと? どういう意味でしょう。どういう意味ですか? 私は説明が欲しいです」
「や、すまん、悪かった。意味もなく皮肉が言いたくなったんだ。許してくれ」
幼馴染みだった――などと過去形で言えば、たとえ見ていなくても察するだろう。
一度、大輝はかぶりを振って、精神の調子を整える。それから続けた。
「異世界に行ってた、って言ったろ。帰ってきてから――なんだか避けられてるんだ」
「……その話は誰にもしたことがないって言ってなかったっけ?」
「そうだね。だから理由がわからないんだ。……本当に、気づけば嫌われててさ」
――ちょっと参ったよ。
そう呟く大輝が、熾には酷く寂しげに見えた。
「思い当たる節がオレにはなくてさ。だからいろいろ、理由は考えたんだけど――」
「……え、でも。向こうは、大輝が異世界に行ってたなんて、気づいてないんだよね?」
「どうかな。もしかしたら気づいたのかもしれない。その可能性は考えた」
「さ、さすがに、それは」
「昔から頭がよくて、勘の冴えた奴だったから。異世界だとは想像できなくても、オレが何かしら、昔と違うことに気がついた……とかなら、あるかもしれない」
いっしょに暮らしている家族ですら、そんなことは想像もしていないだろう。
それでも彼女なら――唯架なら察してもおかしくないと、大輝はなんとなく思うのだ。
「あるいは単に、異世界に飛ばされる前にきっかけがあったのかもしれない。オレが旅の間に忘れてしまっただけで、その前に、何か嫌われるようなことをオレがやったのかも」
「で、でも……それならちゃんと話せば」
おろおろとした様子で、そんなことを熾は言う。
なんだか珍しい、というか意外な様子だ。
気にしなければいい、とか言うかと思った。
――いや、熾は言わないか、そんなことは。
少しだけ気分を楽にして、大輝は熾にこう答えた。
「無理だよ」
「……どうして……? だって、その……仲がよかったん、だよね?」
「オレも最初は謝ろうと思ってたさ。何か気に障るようなことをしたなら謝りたかった」
「――――」
熾も気づく。そうだ、大輝ならきっとそうしたに違いない。
そんな大輝が今、彼女と同じ店になっただけで逃げ出すほどだというのなら、それは。
「だから、仲直りがしたくて会いに行って……そのとき、面と向かって言われたよ」
「……なんて?」
「――お前が近くにいるだけで気分が悪くなる、って。本当に、今にも倒れそうな顔で」
だから大輝は、それ以来、決して彼女の近くには存在しないように努めた。
極力、視界に入らず、朝妻唯架の世界から《黒須大輝》を消し去ってしまおうと。
「何、それ。一方的すぎるでしょ……大輝が気にすることじゃないよ」
一瞬だけ悲しそうに息を呑んだ熾だったが、次の瞬間、今度は怒って言った。
それは彼女らしい言葉で、彼女らしい優しさだと大輝は思う。
「まあ、いいんだ。唯架が……あいつがそう言うなら、それ相応の理由はあるんだろう。そういう意味ではオレが何かしたんだから、よくはないかもしれないけどな。ただ、こうなるともう《のどか屋》は使えないな。あいつも行かなくなってると踏んでたんだが」
「……そこまで一方的に気を遣ってあげる必要、あるの?」
「オレは知ってる。あいつは、意味もなく他人を傷つけるようなことはしない。絶対に」
それを、大輝があまりに確信的に言うものだから、熾には二の句が継げなかった。
だからこそ。
それほど信じている相手に嫌われる気持ちを、熾は想像するしかない。
「……付き合ってたの?」
代わりに訊いたのは、だからそんな、訊かなければいいようなことで。
大輝は薄く笑みを漏らすと、肩を揺らしてこう言った。
「どうかな。そう思われることもあったけど、言葉にしたことは一回もなかった」
「……それって」
「でも今はわからないな。あいつがオレを嫌ってるのは、そもそも初めから、オレなんて好きだったことが一度もないからかもしれない。オレを幼馴染みだと思ったことはないのかもしれない。それが正解なら、オレが選んでる行動も正解だと思うよ」
「な……」
いっそ卑屈が過ぎるような大輝の言葉。熾もさすがに、それはどうかと思う。
ただ。このとき大輝が口にした発言の真意は、熾が想像するような卑屈さから来るものではない。
単純に、彼はそれが事実かもしれないと考え、その通りに言葉を作っていた。
朝妻唯架が黒須大輝を好きだったことなど一度もないのかもしれない。
朝妻唯架が黒須大輝を幼馴染みだと思ったこともないのかもしれない。
――この地球は初めからそういう世界だったのかもしれない――。
異世界から帰還して、一年間。
ついぞ一度も消えることのなかった違和感と、それらに答えを出す想像。
それが正解であるのなら、ああ本当に、自分はどこにいるというのか。
「いや、大輝、あんまり遠慮しすぎるのも私はどうかと――……大輝?」
苦言を呈しようと口を開いた熾の目の前で、大輝が口許を押さえて立ち止まる。
蹲るのを途中で堪えたみたいに、たたらを踏んで前屈みになる大輝。
顔色が青かった。
「……気持ち、悪い……吐きそうだ」
と、大輝は呟く。
「ちょっ、そこまで――」
「違う。熾、違う、そうじゃない。――気持ちが、悪いんだ」
「大輝……?」
「昨日の夜と……同じ感覚が、する」
「っ……じゃあ!」
その言葉で熾も気づいた。
――魔術師が、動き始めたのだ。
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