1-05『元英雄の、日常』1

 一夜が明けて。

 明くる日も、黒須くろす大輝だいきはもちろん学校へ向かった。


 非日常から日常へ戻ることをあえてリハビリと呼ぶなら、大輝は一年かけて、ようやく体が慣れ始めた頃合いと言える。

 このペースを崩したくない、というのは大輝の本音だ。


 異世界という非日常へ順応することのほうが、今思えば楽だったかもしれない――。


 振り返って大輝は思う。

 異世界に飛ばされた当初の精神状態が安定していた、とは胸を張って言えないが、それが命に関わるとなれば泣き言ばかりも言っていられない。

 結果、追い込まれる形で異世界での生活に適応した。

 慣れない、などと言える状況ではなかったのだ。投げ込まれてしまった以上、どうにかする以外の方法がない。


 とはいえ。

 まさか、その逆に苦労することになろうとは、大輝も想像していなかった。


「うーむ……」


 悶々と考え込むような様子の大輝に、首を傾げて友人が訊ねる。


「どした、大輝? お前がそんなんなってんの珍しいな」

「ん? ああいや、大したことじゃないんだが……てか珍しいってこともないだろ。ついこの前までは、中間対策で大いに悩んでたし」


 苦笑いを見せつつ大輝は言う。

 日常への適応――という範疇に含めていいのかは諸説あろうが、戻ってきた大輝が直面した、ある意味で最大の窮地というものが、何を隠そう成績面。つまり勉学だった。


 まったく覚えていない。

 ぜんぜんついて行けない――。

 進学校だったこともあり、長い異世界生活で失った勉強の知識を取り戻すことは、彼を最も苦しめた問題だと言えよう。

 今もなお、ようやく平均へ戻ったかどうかのレベルだ。


 ――転移させられたのが高一の春頃でよかった。

 大輝は、割と本気でそこに感謝した。受験直前だったら目も当てられない。


「それはそうだけど。でも、割と大輝ってあんま悩むタイプじゃない気がするし」


 勉強の話を持ち出した大輝に、友人は言う。


「そうか?」

「ああ。なんか大人びてるっていうか」

「――――」


 なんの気ない言葉なのだろうが、大輝はわずかに固まった。

 なにせ大輝は、異世界では二十歳程度の年齢まで成長していたのだから。地球に戻ったことで成長が戻った、というか、まだ成長していない自分に戻ったというか――ともあれ精神年齢を考えるなら、周囲の同級生たちよりはひと回りほど上になる。

 あまり気にするほどの差があると自覚してはいないのだが。

 それでも、ときおりギャップのようなものを感じさせられなくはない。

 できればそれは隠したい、というのも大輝の偽らざる本音だった。


「で、なんか悩みごとか?」


 再び友人に問われる。どうやら、割と本気で心配してくれているらしい。

 そんなに悩んでいるように見えたのか。首を傾げつつ、感謝を込めて大輝は言う。


「まあちょっと、これからどうしようかなって」

「あー、進路とかの話か」

「ん、まあ。大きく言えばそう」


 正確ではなかったが、そういう話にしておいたほうが面倒はない。

 まさか魔術師と知り合いになってしまい、事件に巻き込まれて困っている――などとは相談できない。

 まして悩んでいることが、別にこの事件そのもののことではないともなれば。


「つっても大輝だって、進学する気はあるんだろ?」

「まあ、大学には入るつもりだよ。これといって目指している場所はないんだけど」


 それは、異世界へ向かう前の大輝の考え。

 さして立派なものではない、なんとなくいい大学を目指し、なんとなくいい会社に就職したいという、安易で難しい夢想だった。


 では、翻って今の自分はどうか。

 大輝にはそれがわからない。

 元に戻ればいい、という簡単なことが、なぜかできない。

 いつもどこかに、言葉にしづらい違和感が纏わりついている。


 ――オレは本当に、このままでいいのだろうか。

 オレにはもっと、何か別に、やりたいことや目指したいものはないのだろうか――。


 この場所にいても――いいのだろうか?


 そういう違和感が、この一年、まったく拭えないでいる。


「まあ、まだ誰だってそんなもんだと思うけど……、なあ大輝」


 目を細めて話を聞いていた友人が、ふと視線を逸らして教室の外を見る。


「どうかした?」

「いや……、なんか騒がしくね?」


 放課後の学校とは、そもそも定義として騒がしい場所だ。おかしいということはない。

 ただ確かに、言われてみれば何か廊下側から、普段と違う妙な空気が感じられた。


「ん……?」


 大輝も視線をそちらに向ける。

 それで気づいたが、どうも廊下にいる生徒たちがなぜか全員、足を止めて一方向を見ているのだ。

 まるでそちらから、とても目立つ誰かが歩いてくるとでもいうように。


「――っと、ここだ。二年五組」


 そして、そんな声が教室に飛び込んできた。

 そんな聞き覚えのある声といっしょに、ひょっこり教室を覗き込む、見覚えのある顔も飛び込んできた。

 聴覚と視覚を、強度ではなく鮮度によって殴られた気分だった。


「いたいた。おはよ、大輝。迎えにきたよっ!」


 ぱっと顔を明るくして、昨夜出逢った少女が――魔術師が、大輝に小さく手を振った。

 昨日と同じ、黒い色の制服。胸には入校証を無駄にきっちり提げている。


「……………………熾、さん?」

「うん。ほら、早く行こ。立って立って」


 まるでなんでもないことであるかのように、そこには、鳴見なるみおきが立っていた。


 教室中の、あるいは廊下まで含めてのあらゆる視線全てが、露骨に大輝へ突き刺さる。

 日常に、かなりの亀裂が突っ走った――のちに大輝はそう述懐する。


 それは《襲撃》であった。


「なん、で……ここ、ああいや、ああっ」


 いろいろと訊きたいことはあったがそれどころではない。

 慌てて荷物を纏め立ち上がる大輝。その肩を、すぐ傍にいた友人ががっと掴む。

 そして、当たり前だが、こう訊かれた。


「……どゆこと?」

「オレが聞きたいんだよなあ……悪い、今ここでは説明したくない」

「いや、お前、だってあの制服、中学生だよな……?」

「なぜ制服を見ただけで、……いや待てマジか」


 ――速報! 熾! 中学生説!!

 それはそれで混乱するがそれどころではない!


「悪い、詳しい説明は五年後くらいに同窓会でするから、あとで!」

「――あとすぎない!?」

「大丈夫、人生なんてあっという間だ!」


 自分でも何を言っているのかわからない発言をかまして、大輝は逃げるように廊下へ。

 そんな様子を見ながら、熾は丸い目できょとんと首を傾げつつ、言った。


「あれ、ごめん。そこまで急がなくてもよかったけど」

「急がせるつもりのない行為だったと!?」


 ――天然か。天然でこれをかましたというのか。

 だとすればそれはそれで厄介だ。自分が目立つという自覚がないとでも言う気か。

 いろいろなことを頭で考えながらも、とにかく大輝は熾の手を掴むと、


「え、わわ、大輝?」

「とにかく早く出よう。行くぞ」


 そのまま有無を言わせず、熾を引っ張るように大輝は校舎を抜けていく。


 ――後日、二年五組の黒須は中学生と付き合っている、という噂がおよそ七十五日ほど囁かれることとなったが、大輝は地味なので、あまり問題にはならなかったという。

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