1-01『元英雄と、魔女』1
前兆があったのかと問われれば、何もなかった、と大輝は答えざるを得ない。
寝て起きたら、気づけば異世界だった。
そうとしか表現できないほどあっさりと、気がつけば大輝は、見も知らぬ異世界へと転移させられており、そこで生き抜いていくほかに選択肢がなかった――言葉にすれば、それだけのこと。
当時、高校一年生だった。
過酷な旅路だった。
いつ死んでいてもおかしくない戦いだった。
それでも、意志持つ聖剣と、そして頼りになる仲間たちとともに、大輝は世界を――異世界を股にかけ冒険し、ついに目的となる魔王討伐に成功。
そして、やって来たときと変わらぬ唐突さで、気がつけばこの地球に帰還していた。
――それも、なんの時間経過もなく。
※
「えーと。ちょっと待って整理するから」
――あのあと。
熾は「後片付けをする」と言うと、その場に残っていた血の魔法陣らしきものを綺麗に消し去ってみせた。それもほとんど一瞬のうちに。
なんらかの魔法――もとい、熾に曰く《魔術》が行使されたのだろう。
魔法そのものは異世界で見慣れている大輝だったが、地球でそれを見るのは初めての経験だった。どうもシステムそれ自体が違うらしく、何が行われたのか、大輝にはさっぱり理解できない。
始末が終わると、続いて熾によって、大輝の腕の治療が行われた。
といっても熾は「あくまで応急処置ね。治癒の魔術も一応使ったけど、はっきり言って私の実力じゃ焼け石に水。だから、できることはこのくらい。……ごめんね」とのこと。
代わりに彼女は、まず大輝の腕に触れたあと、その手から出した謎の真っ黒な糸らしき何か(大輝にはそれがなんなのかさっぱりわからない)で、大輝の左腕をぐるぐる巻きにした。
黒い糸は、厚さというか質量が感じられない、たとえるなら影のような感覚だ。
「……真っ黒になった」
肌に直接巻かれた糸を見て、大輝は言う。
と言っても、すでに糸というより布かテープのようだ。溶け合って一体化したみたいに見える――というか、光をまったく通していないかのような漆黒だけが見える。
「まあ、補強ってことで。魔力で麻酔したから、痛みも感じないはず」
「……本当だ、確かに」
軽く腕を振って確かめる大輝。熾はその手を「こら」と押さえて、
「治ったわけじゃないから、安静にしてて。そうしておけば大丈夫だけど、あとで普通に医者に診てもらったほうがいいと思う」
「そっか。でもまあ、お陰で助かったよ。ありがとな、熾」
「う、あぅ……。その、えっと……ごめんなさい。怪我、させちゃって、……その」
笑顔で感謝を告げた大輝に、むしろ熾は罪悪感を刺激されたようで、しおらしく謝罪を述べた。攻撃してしまったことを、今になって強く後悔してしまったようだ。
だからこそ、大輝は熾を笑って許した。勘違いなら仕方がない。それ以上は責めない。
――その後は、ついて来いと言う彼女に従い、大輝は熾とともに移動を始めた。
一応、帰宅が遅れる旨を、家族に文面で連絡しておく。凪に心配されるかもしれない。
そうして歩き始めたところで、熾は改めて大輝の事情を訊ねた。
細部のほとんどは省略して、要点だけを伝えた大輝の横で、熾は両手をこめかみに当てて「むぅ」と鳴いた。
「つまり大輝は、寝て起きたら異世界にいて、五年間もずっと旅をしてて、それで目的を達成したと思ったら戻ってきてて、でも地球では一日も時間が経過してなかったと?」
「正確に五年かは、どうだろう。わからないな。向こうの暦はこっちと違ったし。まあ、おおよそそのくらいって感じ。こっちでの時間経過も、本当に同じタイミングだったのかまではわからないけど……少なくとも、オレが失踪してたなんて認識は誰にもなかった」
「ん……まあ、細かいところはとりあえずいいとは思うんだけど」
少し言いづらそうな様子を見せる熾は、とりあえず大輝が嘘を言っていないとは思ってくれているらしい。
それだけでも、充分すぎるほどありがたいと大輝は思う。
「オレ自身、何か夢でも見てたんじゃないかと思ったよ。幻覚とか、妄想とか、そういう類いのものなんじゃないかって、疑わなかったことがないとはさすがに言い切れない」
「そ、そこまでは私も言わないけどさ……」
熾の様子がなんだか気遣わしげで、大輝は思わず苦笑してしまう。
律儀な性格の少女らしい。一笑の下に切り捨てられても、大輝はおかしいと思わない。
「ただ少なくとも、オレには間違いなく、異世界での経験の記憶があるんだ。魔物だとか魔族だとか、あとは普通の人間とも。戦ってきた、そういう記憶が確かに残ってる」
そういう意味では、大輝の精神年齢は二十歳程度ということにもなる。
異世界での戦闘経験豊富な、英雄とまで呼ばれた――今はごく普通の高校生。
「……まあ私も、さっきのを見て素人だとは思わないけど」
「生憎、身体能力は大幅に下がったけどな。異世界だと、もっとこう、なんていうか漫画みたいな強さがあった。魔法使いではなかったけど、真似ごとみたいなことはできたし。聖剣の加護っていうのがあって、まあとにかく、オレは普通の人間より強かったよ」
「ゆ、ゆうしゃだ……」
「おい、やめてくれ。そう言われるとこっ恥ずかしくなってくる。このこと、オレはまだ熾以外の誰にも言ったことないんだ。秘密にしてくれよ、イタい奴だと思われたくない」
「え、あ、うん。そなんだ。そっか……わ、私が初めてなんだ……! ふ、ふぅん?」
――……なぜ照れる?
と大輝は思ったが、ツッコむより早く熾が首を振って。
「や、まあ正直言えば私も思いかけたけどね……でも、割とお互い様かなって」
「……魔術師なんだってな。正直、オレからすればそのほうがおかしい。ここ地球だぞ」
「そんな、異世界ならアリみたいに言われても困るんだけど」
「異世界ならアリだろ」
「異世界がナシでしょ」
「それ言われたらお終いだけどさ……」
事実、異世界に行った経験のある身からすれば、ファンタジーの世界から日常に戻ってきたはずが、地球も充分にファンタジーでしたと言われたようなものなのだ。
熾の言う通り《お互い様》なのかもしれなかったが、それでも、大輝からしてみれば異世界の存在より、地球産魔術師のほうが信じられなかった。
勘弁してほしいものだ。
無論、それはあくまで大輝側の視点であり、熾の側からすれば違う。
「魔術師なんてたくさんいるよ。少なくとも異世界経験者よりは遥かにいる」
「そ、そうなのか……? たくさん? たくさんいるのか」
「うん、たくさん。世界中に。裏の裏の社会には、魔術師の世界があると思っていい」
「よくない……カルチャーショックすぎる。地球でまで味わいたくなかった」
「異世界人が言うかなあ」
「異世界人ではないからね? てか、魔術師でも異世界の存在は知らないもんなのか」
「んー……まあ少なくとも公に立証はされてないかな。異世界となると、並行世界論とはまた違ってきちゃうし。そっちは一応、魔術的には立証されてはいるはずだけど」
「……………………並行世界」
「そう、パラレルワールドってヤツだね。別にあんま関係ないけど、……どうかした?」
「ああ……いや、別に。なんでもない」
脳裏に浮かんだ面白くない想像を、かぶりを振って追い払う。
それから大輝は、話題を変えるように熾へ問う。
「でも、そんなに魔術師とやらがたくさんいるってんなら、普通にバレないかな? 現に俺は、こうして熾と出会ったわけだし」
「いやちょ、出逢ったとか……っ! そっ、そんな恥ずかしいこと言わないでほしい!!」
「……え、どこが?」
「へぁっ!? ぅあ……、あぁいや、なんでもないけど……っ。おほんっ!」
どうやら熾には、話題を変えるときにわざとらしい咳払いをする癖があるらしい。
そんなことを大輝は思ったが、特に言葉にはしなかった。
「普通、こんなふうに一般人が巻き込まれること、まずないんだよ。あの場所には結界が張られてたしね。だから私も、その中にいる大輝は関係者だと思っちゃったし」
「結界かー……異世界にもあったなあ」
「あ、そうなんだ?」
「うん。防御結界とか、敵の戦術級魔術なんかを防ぐのにね。聖剣の機能で使えてさ」
「……なんか当たり前みたいに恐ろしい単語が聞こえたけど流すね……」
熾の表情が少し引き攣っていた。
大輝自身も、いったいなんのアニメの設定だ、と思うが。
「でも、てことはこっちの結界は違うのか?」
「んー……大輝が想像してるのが、ゲームとかで言うシールドとかバリア的なものなら、私が言ったのとは違う。こっちの魔術で言う結界は、簡単に説明すると、内側への侵入を邪魔するモノが多いかな。魔術師たる者、正体不明であるべし――ってね」
「へぇえ……なんか面白いな」
「そうかな。まあ感心してくれてるならいいけど。とにかくあの場所にもそれがあって、一般人は無意識に、あの場所に近づかないようになる意識干渉があった。魔力って基本はそういう性質のものなんだよ。普通の人間は、無意識下で《魔》を畏れて、忌避する」
「…………」
「でも大輝は普通に中に入ってた。――なんであの場所にいたの?」
あの場所へ向かった理由。
本来は無意識に避ける場所へ、大輝はむしろ、無意識に惹かれていた。
「なんか、急に気分が悪くなって。とにかく、そう……気持ちが悪くなってる原因を取り除かないと、みたいな気がして。あとは無意識に、気づけばあそこに向かってた」
「…………なるほど」
「なんかわかったのか?」
「いや、ごめん。ぜんぜんわからない。意味不明――でも、大輝は異世界に行ってたわけだし、原因があるとすればそれ関係でしょ、普通に。今言えるのはそれくらいかな」
「…………なるほど」
としか、言いようがない。わかったのはそれくらいだった。――何もわからない。
ただ、どうやら自分は異世界帰りの結果、力を失ったが、厄介な後遺症を残しているのかもしれない。
それがわかっただけでも進歩だろう、と大輝は前向きに考えておく。
「にしても、本当に信じてくれたんだな」
大輝は言う。熾は現状、大輝が異世界帰りであることを前提にしてくれている。
感謝はあったが、逆の立場なら自分が信じたかと問われれば、大輝自身も確信はない。
「だって大輝、あの化物を見て、魔物だって――そう言ったじゃん」
だが熾はあっさり言った。
目を見開く大輝に、熾は続ける。
「私ですら見たことがないモノの弱点を知ってた。なら少なくとも大輝は、私の知らない知識をひとつ持っている。……アレ、つまり大輝は異世界で見たことがあるんでしょ?」
「……ああ」
と、大輝は大きく頷いた。
そして同時に、やはりあの異世界での旅は夢ではないと、大輝は確信していた。
「あれは、オレが迷い込んだ世界にいた怪物だ。魔物と呼ばれていて、人間を殺すために存在するモノだった。何度となく戦って、倒してきた相手だよ」
「わあカッコいい」
「ごめんやめてすみません違うんですカッコつけたわけじゃなくて――」
「あはは、冗談冗談。いやでもまあ、それってかなり大きなことなんだよね……」
熾は考え込むように、片手を口の前にやった。
それから彼女は、大輝に向き直って――黒い双眸を大輝に見せる。
「……あれ? 熾の瞳の色、さっきまでと……」
「ね、大輝。モノは相談なんだけど、ちょっといいかな」
言いかけた大輝の言葉が、薄く微笑む熾によって遮られる。
少女は艶然と――魔的な笑みを浮かべていた。
吸い込まれそうな、艶のある笑みだ。
そして。瞳が、再び真紅へと染まっていく。
血に染まるかのように。
あるいは、血で染めるかのように――あまりに魔的に。
「……熾?」
大輝は、ふと思い出す。
もしこの世界に魔術師が存在するのなら。
それが、古来から歴史の陰に潜み、暗躍してきた者たちだとするのならば。
では、この世界では女性の魔術師をなんと呼ぶだろう。
決まっている。
「――私と、ひとつ契約をしない?」
人類は、それらを魔女と呼んでいる。
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