0-02『プロローグ/あるいは終わった物語のエピローグ』後
勢いよく地を蹴った彼女は、低い体勢で一気に大輝の懐まで潜り込んでくる。
暗闇から暗闇へ、沈み込むような移動は動きを捉えづらい。
――反応、間に合わな――っ!
大輝にできたことは、腕を交差させて一撃を防御することだけ。
幸い体格を比べれば、決して大柄ではない大輝でも、少女よりは遥かに勝る。
ガードは有効だろう。
などという楽観が通用しないことを、大輝は自らの肉体で学ばされた。
「るぁあっ!」
「ぎっ、」
ほとんどしゃがみ込んだ体勢から、跳ね上がるみたいな無茶な軌道で拳が放たれる。
交差させた両腕、その左の真ん中に少女の右の拳が突き刺さり、大輝は自分の体内からゴギッという骨の折れる音を感じた――そう思わされるほどの一撃だった。
「ごっ、ぐ、づぁ――っ!?」
体が跳ね飛び、コンクリートの地面を転がる。そのせいであちこちに擦り傷ができたが、その程度は気にならないほどの衝撃に大輝は襲われている。
あり得ない威力だった。地面から
大輝はなんとか体勢を立て直し、膝立ちで体を起こすものの、左腕から感じるふざけた強さの痛みが、それ以上の行動を許してくれなかった。
「痛っ、つぅ……うわ、くそっ、マジか……!」
「……うぅん?」
一方で、少女のほうも何かを疑問するような声を出した。
首を傾げたいのはこちらだ、と言いたいが、言えるはずもない。
「後ろに飛んで威力を殺した……? いや、でも――というかそれ以前に」
――何を言っているんだ、コイツは。
大輝は本気で思う。そんな簡単に言わないでもらいたい。
確かに、それらしいことはやったつもりだ。
とはいえ漫画やアニメのように上手くいくはずもなく、左腕に至ってはおそらく普通に折れているし、地べたを転がったのも痛い。
一撃で内臓から血を吹いて全身破裂することだけは防いだとか、そんなレベルだ。
ただ、少女が疑問しているのは、何もそういった理由だけではないらしく。
「てか――え、あれ、待って。制服……え、学生?」
ここに至って、少女はようやく大輝の姿を認めたとでも言わんばかりに目を見開いた。
「……今の今まで気づいてなかったとでも言う気か、コイツ……」
確かに暗がりだったが。だからって。
釈然としない思いと、加えて左腕の激痛に包まれながら、大輝は状況を見守る。
そして、彼の目の前で、少女は言った。
「――えっと。あんた、誰?」
「それは、勘違いで人をブン殴ったことを認める台詞だと思っていいのか?」
少女は口を真一文字に引き結び、冷や汗を流しながら面白い顔になった。
「いや。いやいやいや、そんなわけない。一般人がこんなところにいるはずない。だって私、最初にちゃんと確かめたし。――ああ、そ、それだ! 身のこなしがあり得ない!」
「…………」
「うぅ、いや、でも確かに年齢違いすぎるし、報告ではこんな武闘派じゃないはずだし、だからこそ私にお鉢が回ってきたんだし……いやでも、えぇ……? ならあんた誰!?」
ほんの一瞬だけ、お前こそ誰だと訊き返してやろうか、少し考えた。
けれどそれはやめて、大輝は正直に答える。腕が痛くて、遊んでいる気になれない。
「……黒須大輝。高校生だ」
そこまで言って、それ以上に何か言うべきかと考えて。
大輝は、自己紹介にこんな言葉を添えた。
「――ごく普通の」
「ごく普通の高校生に、こんな立ち回りされて堪るかぁ!」
少女は、そう言って頭を抱えて吠えた。
……まあ確かに。
大輝も思う。ほかに選択肢もなかったとはいえ、一般的な高校生にはできないであろうことを、彼はやってしまっている。そのせいで変に疑われてしまったようだ。
とはいえ、少なくとも現状だけを指して言うなら、さきほどの言葉に嘘は一切ない。
「……とりあえず、誤解は解けたってことでいいのか? なんでいきなり襲われたのか、できれば説明してほしいところなんだけど」
立ち上がって大輝は訊ねる。けれど少女は、まだ混乱したままの様子で。
「え、待って。いや本当に待って。やっぱり納得できないって!」
「……どの辺りが?」
「どの辺りって……。確かにあんたが、私の追ってる対象じゃないってことは納得する。だけど、ごく普通の高校生だ、なんて言われても、それは納得できないから」
混乱を落ち着かせて、少女は言う。
誤解はともかく、警戒はまだ解かれていない。
「あんた、何者? こっちも詳しく説明してほしいところなんだけど」
「……そう言われてもな」
「勝手なこと言ってるのはわかってる。無関係だってわかったら、あとでなんだって責任取る。だけど、こっちも仕事で来てる以上、怪しい奴を放っておくわけにいかないの」
「ああ……いや、そういうことじゃなくてだな」
自分の事情を説明するのは難しい。
いや、言うだけなら簡単だ。
だがとてもではないが、信じてもらえるとは思えない。
どうしたものか、と大輝は思案する。
さきほどは説明を要求したが、なんだか面倒臭くなってきたし、あと腕が痛いし、正直もう解放してもらいたい。あるいは介抱でもいい。
迷う大輝をじっと見据え、そこで少女は息をつき、それからこう言った。
「わかった。今ちょっと知り合いに連絡するから、そこで――」
瞬間だった。
――突如として、血の魔法陣が再び輝き始めたのだ。
「魔力!? なんで――あんたやっぱり!」
「違う、オレじゃない! ていうか、なんだって? 魔力!?」
勢いを増す赤い光。
それらはさきほどと異なり一瞬で強くなり、そして一瞬で再び消えていく。
何が起きていてどうなっているのか、大輝どころか少女ですら、全てを理解してはいないらしい。
意味不明といった表情で、少女は大輝に視線を投げる。
「反応した……? 私に? それとも……。ねえ、あんた――」
「――っ、危ないっ!」
「ひゃっ!?」
咄嗟だった。今度は大輝が叫び、少女に向かって飛びかかる。
虚を突かれた少女は、そのまま大輝に地べたへと組み伏せられた。
「何を――」
「暴れないでくれ、腕が痛ぇ! つーかすぐ立て!」
目まぐるしく変化する状況に、混乱しているのはお互い様で。
それでも、まだ大輝のほうは少し冷静だった。
再び誤解される前に少女の上からどき、そして視線を正面に向ける。
少女も見た。
彼の視線の先に立つ、巨躯を持った四足の黒い生物を。
「な……」
いや、それを生物と呼ぶのが果たして正確か、少なくとも少女は自信を持てない。
その黒い巨体は、獣と呼ぶにはあまりに無機的で、にもかかわらず殺意を持っていた。
「……ぐ……」
呻きながら、大輝が片腕を押さえる。無理をしてさらに痛めたのだろう。
自分を庇ったからだ――そのことを理解した以上、少女のやることは決まっていた。
「……ありがとう。下がってて、私がなんとかするから」
彼の正体について考えるのはもうやめだ。
この状況で、見ず知らずの自分を庇ってくれた。
その借りは返さなければならない。
「そりゃどうも……って言うのもどうかって気がするけどね」
「まあ腕折ったの、私だしね……悪かったってば」
「それより、倒せるか、アレ」
「さあ? あんなの見たことないけど……まあ使い魔か何かの類いでしょ。その割には、なんだか気配が妙だけど」
「……いや」
と。
大輝は言った。
「アレは魔物だ」
「……何言ってるの?」
「説明しづらい。まあ、とにかく人間を殺すことに心血を注いでるタイプの生き物だ、と思ってくれ。それでだいたい合ってる」
「何その最悪の生き物。……で、弱点とかあるの?」
細かいことを、少女は考えないことにした。
疑問は、無数に存在する。
自分ですら見たこともないモノを、ごく普通だと自称した、ただの高校生が既知であるかのように話しているのだから、それも当然の話。
けれどいい。
今、この瞬間だけでも、少女は彼を信用すると決めたのだから。
「核がある。たぶん脳天の辺りだ」
「核……」
「石みたいなものだと思ってくれていい。それを潰せば倒せる」
「なるほど……確かに、集中して見ればわかるね」
「オレはわかんないが……まあそれならいい。逆を言えば、それ以外の場所へ攻撃してもほぼ意味がないから、その点は気をつけてくれ。……できるか?」
「余裕」
言うなり少女は、その黒い獣に半身を向けた。掌を上に人差し指を向けるよう腕を前に伸ばし、たとえるなら遠距離武器で狙いをつけるかのような姿勢を取る。
逆を言えば、飛びかかられたら対応しづらい体勢だろう。
大輝には意図が読めない。
それでも――大輝は何も言わなかった。
そして。
「――《棘》――」
ただひと言、少女はそう口にした。
言葉を引鉄にして、少女の指の先から黒い何かが放たれた――ように大輝には見えた。
正確には視認できなかった。この場は暗いし、何より動きが早すぎたからだ。
ただ結果として、少女が指先から放った何かは、確かに魔物の脳天を貫いていた。核が潰され、存在を保てなくなった魔物が空気へ溶けるように霧散していく。
「……今のは……」
呆然と、訊ねるというよりは呟いた大輝に、少女は肩を竦めて軽く答える。
「見ての通り、私の魔術」
「……なんて?」
「そんなに驚くことかな。魔物なんて言葉が出てくるくらいだし、魔術師を見るの初めてってわけじゃないんでしょ。ていうか、あんたも魔術師なんじゃないの?」
「いや、まあ……違うかなあ、両方」
「……何それ。本っ当によくわかんないな、この人……おほんっ!」
少女はそこでわざとらしく咳払いをすると、ゆっくり大輝に近づいた。
正面に立って、そして彼女は、大輝に片手を差し伸べる。それと同時に言った。
「改めて。私は鳴見。――
「ん、ああ。黒須大輝だ」
「じゃあよろしく。別に、長い付き合いにはならないだろうけど」
「……こちらこそ?」
妙なことになったと思いつつ、大輝は握手に応える。
少女――熾は薄く笑って大輝の手を取ると、それをぐっと自分のほうに引っ張った。
「うお……っ」
一気に、顔が近づく。
改めて見ると、熾は整った容姿の少女だった。
「で? そろそろ大輝のほうも、正体を明かしてくれると嬉しいんだけど」
まっすぐと大輝を射抜く、紅い双眸。それに押されて、大輝は言った。
「あ、いや……。別に正体も何も、普通の高校生だってのは嘘じゃないんだけど。ただ」
「ただ?」
「――オレ、実は前、異世界に飛ばされてたことがあって」
「…………は?」
「そこで聖剣を貰って、魔王を倒して……まあ、五年間くらい旅をしてて。それで去年、地球に帰ってきた、みたいな? そんな感じ、なんですけど……」
「…………」
「いや、あの……ええと。鳴見さん?」
「熾でいいよ、大輝。ね?」
「そっすか。あのいや、そうじゃなくて。熾。熾さん、その……手ぇ痛いんですけど」
にっこりと、熾は大輝の目の前で、可憐な笑顔を見せている。
こんな顔もするのかと、なんとなく感心する大輝だったが、ただそれどころではなく。
「あの。痛い。握手が痛い本当に痛い握りすぎ痛い。マジで強い強い強い痛い」
「ねえ大輝。今のって、私のことをおちょくってるのかなぁ?」
「そんなつもりはないんだよ本当に。いや、本当に本気で言ってるんです、すみません」
「じゃあ、頭でも打ったとか?」
「左腕なら打ち抜かれましたけどっていうか痛い痛い本当に痛い、右手も砕ける!」
「――いや信じられるわけないでしょうが!」
「だから言いたくなかったんだよ……。てか魔術師だって似たようなもんだろ? そんな奴が当たり前みたいにいるはずないだろ、常識で考えて」
「じょ、常識!? 異世界に行ったとか言い出した奴に常識を諭されるの、私!?」
――けれど残念なことに。
たとえばそれは、鳴見熾が事実、魔術師であるのと同じように。
黒須大輝の言うことは事実で、彼はかつて本当に異世界を救った英雄だった。
聖剣を携え、勇者と呼ばれ、強大な力で魔王を倒した。
そうして地球に帰還した彼は、全ての力を失い、ただちょっとだけ土壇場慣れしたごく普通の高校生に戻ったのだ。
ゆえに、彼は知らない。
この地球が、異世界にすら匹敵するほど非日常を隠しているという事実を。
魔術師が、あるいは異能力者が、怪物が、人外が、SFやファンタジーのような超常的存在が本当に実在しているのだということを、黒須大輝は知り得ないのだ。
だから。
たとえ取り戻した日常が、そういった超常の存在に脅かされるのだとしても。
もはや彼に、戦う力は残されていない。
得ることもできない。
彼が英雄であった事実を知る者はおらず、それを証明することもできず、少年が理不尽に抗うことは許されない。
現に、彼は巻き込まれた。
下手に冷静で、なまじ状況に対応できてしまう事実は、彼を望まない非日常へ誘う呪いのような後遺症でしかない。
本当になんの力もない一般人にもかかわらず、何か秘密を抱えた非日常の人間だと疑われてしまう。
けれど。それでも。
――黒須大輝は、ごく普通の高校生に過ぎないのである。
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