異世界帰りの英雄曰く

涼暮皐

第一章 Ignite heart

0-01『プロローグ/あるいは終わった物語のエピローグ』前

 返却された中間テストの結果を見て、彼はそっと安堵の息を漏らした。

 それを聞き取ったのだろう、前の席の友人が「おっ」と小さく声を上げながら、後ろの彼を振り返って微笑む。


「その分だと、今回はなかなかよかったみたいだな」

「ああ」

 と彼は笑みで返す。

「まだまだ上位ってわけじゃないけど、それでもちょっと前までよりは、だいぶ成績も持ち直してきた。お前のお陰だ、ありがとうな」


 素直に告げられた感謝の言葉に、前方の友人は恥じらうように手を振って答える。


「いいって別に。つか恥ずかしっつの」

「そうか? まあ、確かに油断できるほどの成績じゃないんだが……それでも、ここまで取り戻すだけでも大変だったんだ。勉強に付き合ってくれた分の礼は言っておくよ」

「ま、お互い様だよ。お前が真面目にやってるのに付き合ってりゃ、俺もサボらんから」


 帰りのホームルームが終わり、三々五々、帰路についたり部活動へ向かうクラスメイトたちを傍目に見送りながら、彼の友人はおざなりに言う。

 彼もまた、荷物を通学鞄に仕舞い込みつつ、窓から校庭を見下ろしていた。

 すでに眼下では、気の早い運動部の生徒たちが準備運動を始めている。

 脇には幾人かで連れ立って校舎の外を目指す、おそらくは遊びにでも出るのだろう生徒の姿もあった。


 実に平穏な、それは現代日本にありふれた高校生の日常風景。

 取り立てて興味を惹くものもないそんな光景を、彼は目を細めて眺めている。


「……どした? ぼうっとして」


 そんな彼の様子に、首を傾げて友人が訊ねる。

 なんでもない、と彼はすぐに首を振って、話を変えるように言った。


「それより、勉強に付き合ってくれた礼だけど」

「いや、だから別にいいけど。……ああ、まあそれなら――」


 友人はふと扉の外、廊下側へと視線を向け。

 すぐにそれを彼に戻すと、からかうように笑いながら言った。


「今度、後輩の女の子でも紹介してくれよ。俺は意外と年下好きなんだ」

「意外かはともかく……いや、そんなことをオレに頼まれても困る。わかるだろ?」

「お前に頼んでるわけじゃねえよ。ほら、迎えが来てんぞ。まったく妬けるねえ」

「ん――」


 見れば廊下の奥、教室の出入り口付近から、彼に手を振っている少女がいた。


「あ、やっと目が合いました。そろそろ帰りましょう、大輝だいき先輩」

「……そうだな」


 小さく呟く彼――大輝に、友人は肩を竦めて。


「しかしお前ら、本当に仲いいよな」

「……そう見えるか」

「いや、そりゃまあ、な。こんなに仲のいい兄妹、ほかに知らんぜ俺は。アレか? 実は血が繋がってない義理の妹だったりする?」


 難しい表情で黙った彼に、友人は軽く笑って伸びをした。


「まあ冗談だよ。漫画の読みすぎってヤツだ。さーて、俺もそろそろ部活行くかね……」

「あれ、今日は漫研の活動日だっけ?」

「違うけど、まあちょっと用事あってな。次の作品の打ち合わせ」

「なんか考えてるのか?」

「どうかな……たまには異世界モノでも考えてみようかね。異世界に召喚されて、勇者になって魔王を倒す、みたいなヤツ。かっちょいい聖剣とか振る感じで」

「……はは。じゃあ、オレも帰るよ。お先に」


 それだけ言うと、手元の《黒須くろす大輝だいき》と名前の書かれた成績表を鞄に押し込んで、彼は立ち上がった。

 廊下へ出ると、すぐ隣に寄り添うように、さきほどの少女がそっと並ぶ。


「中間の成績はどうでしたか?」

「ん、まあ……ようやく平均くらいには、ってところだけど」

「それは何よりです。がんばって勉強した甲斐がありましたね、大輝先輩」

「えーと。そいつはどうも」

「……なぎはどうだった、とは訊いてくれないんですか?」


 上目遣いに覗き込んでくる少女に、少し考えてから大輝は答える。


「いや、凪なら心配ないだろうと思ってさ。成績、ずっと上位なんだろ?」

「うーん。じゃあ、そういうことにしておきましょうか。先輩に免じてあげます」


 くすりと微笑む少女――黒須凪。

 少し考えてから、大輝は彼女に訊ねた。


「……前から思ってたんだけど、なんでオレのこと《先輩》って呼ぶんだ?」

「おかしいですか?」

「そう訊かれると困るけど。でも家だと《兄さん》だろ」

「ふふ。まあ、いいじゃないですか、学校でくらい。いろいろとバリエーションをつけたほうが先輩を飽きさせないはず、という妹なりの配慮ですよ」

「……呼び方に飽きるも何もないけどなあ」


 まあ、本人がいいなら、それでいいのかもしれない。大輝はそう納得する。


 廊下を進み、階段を下りて、昇降口に辿り着く。

 このあとの予定は特にない。

 返却された中間テストの復習は、急ぐものではなかった。

 凪もこのまま、いっしょに家に帰るつもりなのだろう。それならそれでいいか、と思う大輝は、ちょうどその昇降口で、下駄箱から靴を出す見知った人影を見つけてしまった。


「あ……」

「――っ」


 向こうも、大輝の存在には気づいたらしい。

 一瞬だけ目が合い、それがすぐに逸らされてしまう。幼馴染みであったはずの彼女は、そのまま大輝から逃げ去るように、足早に校舎を出ていった。


「相変わらず失礼な人ですね」


 物腰の柔らかな凪にしては珍しい、棘のある様子の言葉が聞こえた。

 まあ、あの態度を見れば無理もない言葉かもしれない。

 軽く首を振って、大輝は言う。


「ごめん、凪。オレ、ちょっと寄っていくとこあるから先に帰っててくれる?」

「……大輝先輩」

「別にあいつを追っかけるわけじゃないよ。嫌われてるのに、わざわざ近寄らない。単にどこか寄り道でもして、気分転換がてら中間の復習でも済ませちゃおうかなってだけ」

「それなら――」

「ついでに、本屋とかにも寄ろうかなって思うし。まあ、そういう感じで」

「……わかりました。では、お先に失礼しますね――


 固い口調で《兄さん》と呼ばれたのは、彼女なりの何かの意思表示だろうか。

 悪いことをしたかもしれない。けれど気分転換をしたいのは本心だし、さすがに言葉にできないが、そこに凪がいるのも落ち着かない。

 強引でも、ひとりになりたかった。


「……妹かあ……」


 立ち去った凪を見送り、そのあとで校舎を出た大輝は、小さく呟く。


 距離感が掴めない。妹の凪に対しても、親しかったはずの幼馴染みに対しても。

 いや、それだけではない。

 普通に話している漫研の友人にも、それ以外の全てにもだ。


 ――原因は理解していた。

 それは、自分が立っている場所を理解していないからにほかならない。

 立ち位置も判然としないまま、まして自分以外の誰かときちんとしたコミュニケーションなどできない。


「オレ……どこにいるんだろう」


 ある意味では実に思春期らしい、年齢相応と言えるような呟きが、夏前の澄んだ空気に溶けていく。

 雲の少ない爽やかな快晴と、心地いい温度の日差しに大輝は目を細めた。


 けれど。

 その言葉は本当に、大輝が心から感じている疑問だった。


 そう、だ。

 悩みや葛藤ではなく、それは純粋な謎であり、答えがあるはずのもの。


 ここはどこなのだろう。

 自分はどこにいるのだろう。

 そのことを、大輝はここ一年ほどずっと考え続けている。

 この世界はどこまでも違和感ばかりだった。




「――……」



     ※



 結局、店が閉まるまで粘ってしまった。

 店員の「そろそろ閉店ですので」という声に押されて、黒須大輝は午後十時――充分に夜と言っていい時間の街を歩いていた。


「集中しすぎた……。どうしよう、補導されたら気まずいよなあ」


 大輝の身分は、社会的には高校二年生である。

 言うまでもなく制服姿だ。大手を振って繁華街を歩くのは憚られる。


 少し考えてから、大輝は裏通りを使って家に帰ることにした。ちょっと遠回りになってしまうが、体を動かすのは嫌いではない。大きな道を外れて家まで帰ろう、と。

 通学鞄と、それから喫茶店に入る前に寄った書店で買ってきた、二冊の文庫本が入ったビニール袋を提げて。

 どこから見ても、学校帰りの一般的な男子高校生に見えるだろう。


 それが日常というものだ。

 どこにでもある、ごくありふれた平穏な生活。

 果たして、それは強固なものだろうか。それとも脆弱なものなのだろうか。

 少なくとも大輝は、その答えを所持してはいなかった。


 けれど、それでも。


「う、――っ!? なんだ、こ、れ……気持ち、わる……っ!?」


 ――日常それが破壊される瞬間に、自分が行き遭ったのだということは即座に理解した。


 そのとき、突如として大輝を襲ったものは、強烈な不快感だった。

 何か体に異常が出たわけではない。痛みもない。ただ強烈な不快の感情だけを、脳髄に注ぎ込まれたかのように、とにかく気持ち悪くて仕方がないという感覚がある。

 今すぐにでも、その感覚の元を断たなければ気が済まないという焦燥が。


「……っ」


 だから大輝の行く先は、本人すら自覚のないまま、ふらふらとある方向へ流れていく。

 帰路を外れ、もっとひと気のない場所へ――否、へ。

 その場所がなっているということは、大輝本人にも自覚がない。

 酩酊に近い感覚だ。濃い酒精が空気に満ちており、それを吸い込んだかのような。狭い路地を入り込み、辺りは次第に、寂れたビルに囲まれるような場所に出ていた。


「……あれ。なんでオレ、こんなとこに……」


 家に帰ろうとするなら絶対に通らない場所だ。遠回りどころか方向自体が違う。

 それがということは理解しているのに、それでも先へ進む足が止まらない。


 だからそれは、当然の帰結。


 大輝は、目の前の路地を折れる。

 曲がり角の先は少しだけ開けた行き止まりで、頭上からは月明かりが差し込んでいた。


 だが何よりも大輝の目を奪ったのは、そこを彩る鮮やかすぎる赤だった。

 一面がまるでペンキをひっくり返したかのように大量の赤で染まっており、それらは幾何学的な紋様を描きながら、何かしら一定の規則に従って地面を無尽に走っていた。

 さらに異常なのは、それら地面に描かれた赤の紋様が、淡く光を放っていること。この薄暗い中でもはっきり視認できる理由は、月明かりよりも足下から湧く赤の光のためだ。


 鉄の臭いが鼻を刺した。

 それがであることを、大輝ははっきりと理解する。


「……まずいんじゃないのかな、これ」


 呟くと同時、放たれていたほのかな光が急速に失われ、ゼロになった。

 こうなっては、まるで陰惨な殺人事件の現場のような雰囲気だ。事実として、もしこの大量の血液がひとりの人間のものであれば、とても生きているはずがない。

 ただ幸いなことに――そう表現していいのであればだが――周囲に死体と思しき何かは見つけられなかった。

 今ここにあるのは、血で描き出された魔法陣、それだけである。


「どう、したらいいんだ……これ? 警察とかに連絡するべきなのかな……」


 それとも、見なかったことにして踵を返すほうが賢明だろうか。

 ほんのわずかな逡巡。

 ただし、致命的だったのはその一瞬ではなく、そもそもこの場所へ来てしまったこと、それ自体だろう。

 手遅れというなら、この時点で大輝にはもうどうしようもなかった。


 直後、大輝は軽く、ほんのわずかに一歩を前へと跳んだ。

 身を捻り、振り向きながら大輝は跳躍する。

 彼がほんの一瞬前までいた位置へ、何かが振るわれている――その事実を、視覚というより感覚で確認しながら。


 ――


 驚きが、そこにふたつ。

 それを大きさで比べるなら、背後から襲われたのだと自覚した大輝よりも、不意打ちの手刀を簡単に躱された襲撃者のほうが大きかっただろう。


「あっぶな……」


 小さく呟く大輝。

 それに答えたわけでもないだろうが、この場にいるもうひとりは、納得とともに言う。


「躱す、か……。まあ、この場所で立ってる時点でそうだよね。念のためを考えた私の、これは甘さってヤツなのかな。うん、授業料だったと思っておこう」


 とんとん、と地面を爪先で叩く音が聞こえた。

 距離を取って目を細める大輝は、その音と言葉の発生源を視線の先に捉える。


 ――少女だった。

 年の頃は大輝と同年代くらいだろうか。黒一色の――どこかの学校の制服だろうか? それを着込んで闇に溶けている。

 短めの髪も黒く、唯一、紅い瞳だけが、夜の中で目立つ特徴だ。

 それがわずかに伏せられて、少女は溜息とともに、億劫そうに言葉を繋ぐ。


「長引かせたくないから言うべきだけ言っとくけど、投降するなら今にして。一応はこの街の管理者の代理で来てる。意味はわかるでしょ。こっちも正義の味方じゃなし、他所でやる分には追わないけど、この場所でやらかすってんなら容赦はできない」

「…………」


 なんとなく、だが。


 ――もしかしてオレがここに血で絵を描いた犯人だと思われているのか?


 ということを、大輝は察した。

 てっきり、襲ってきたほうが犯人で、今から口封じでもされるのかと思ったのだが、そういう事情なら誤解だと伝えられるかもしれない。

 まあ、それでも、こんな少女が犯人を追っている時点で、おかしいとは思うのだが。


「ええっと。何か誤解があるんじゃないかと思うんだけど……」


 ともあれ話をしようと大輝は口を開いた。

 だが相手にしてみれば、この発言はどうにも白々しく響いたらしい。

 少女の紅い瞳が、大輝を鋭く貫いた。


「――バカにしてる?」

「え。いや、そんなつもりは」

「いや、いい。別に慣れてるから、それはいい。だけど、そんな言葉で誤魔化せるなんて思われたくないな。いいよ、わかった。――こっちも忠告はちゃんと済ませた」

「う、わ……なんか話がよくない方向に転がってる気がする」


 嫌すぎる予感に、大輝は口元を引き攣らせる。

 一方、少女はわずかに身を落とし、油断なく構えを取る。明らかな臨戦態勢だ。


 ――ああもう、仕方がない。

 大輝は覚悟を定めた。

 降りかかる火の粉からは、全速力で逃げなければ火傷を負う。


 正直、どういう事態なのかはほとんど掴めていなかったが、このままでは攻撃を受けるという未来だけは明白なのだから。

 逃げ道側に立たれているのは厄介だったが、どうにか対処できる自信はあった。


 そして。


「――ふっ!」


 少女が、弾けた。

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