第32話 デカルトの蜜蝋

 翌日、体育がある五時間目になる。


 今頃、愛樹とももかは犯人を探しているのだろう。僕は睡魔と戦いながら、事件の顛末を想像していた。犯人がいたら愛樹に足蹴にされるだろう、と。

 だが、もしいなかったらどうしようか。そうなると犯人は幽霊なのだろうか。


「事件、解決するといいわね」


 隣に立ったユキが話しかけてくる。

 どうして犯人探しに行っていないかというと、僕が行かないからだろう。僕が行けば、僕に犯人を見つけさせてももかの好感度を上げる気だ。


 覗きが出たのはユキと出会った日と同時期なのは、なぜだろう。

 ユキとも関連があるのだろうか。

 でも、それをユキに聞く気にはなれなかった。

 なんというか、まるでユキに全てを押し付けているかのように思えるのだ。


「そうだね、捕まるといいね」

「……なんだか、捕まって欲しくないみたいね」

「いや、犯人は本当にいるのかなって思って」


 もしいなかったら、渡辺さんの被害妄想か、幽霊の仕業のどちらかになる。そうなったらどう解決するんだろう。

 被害妄想だったら、他の悩みを聞いてあげれば解決するのだろうか。

 幽霊だとしたら……ももかは幽霊関連の悩みを何度か解決しているというが、正直信じ難いし。


「大丈夫よ。愛樹ちゃんとももかちゃんなら、なんとかしてくれるわ」

「いや、ももかはしてくれない気がするし、愛樹はしすぎるから不安なんだけど」

「もうっ、レイくんは人を疑いすぎよ」


 頬を軽く膨らませてユキが怒る。いや、そもそも僕が疑い深くなったのはユキのせいでもあるからね。

 ユキが好き勝手言って僕に取り憑いたりしなければ、僕はもうちょっと人間信者に近づいていたと思う。


 ――放課後。


 愛樹とももかの口から出てきたのは、犯人はいなかったという知らせだった。しかし、渡辺さんは何者かの視線を感じているという。調査は振り出しに戻った。

 僕達幽霊部は、部室で再び作戦会議を行った。


「じゃ、犯人は幽霊だね。わたしの出番だよ」


 ももかが力強く握りこぶしをつくる。少し大きめの袖から出た小さな拳は、頼もしさよりも可愛らしさの方が勝っていた。


「その前に、調査結果をもう少し詳しく教えてくれ」


 千聖さんが珍しく、真面目な話題に入り込んできた。あまり興味がないと思っていたけど、やっぱり渡辺さんのことが心配なのかな?


「結果も何も、怪しい人はいなかったわよ。渡辺さんは窓際の三階席で、外にあるのはそれより低い民家と体育館くらいだから、覗くのは無理そうだったわ。だから、クラスメイトが怪しいと思って辺りを見てたけど、みんな普通に着替えてたわ。

 でも、覗きの噂はあるみたいね。なんとなく見られてる気がするって人が結構いたわ」


 なるほど。愛樹の報告を聞く限りは、犯人がいる可能性はなさそうだな。

 けど――昨日の渡辺さんの思い詰めたような顔が思い出される。誰にも覗かれていないのに、あそこまで辛く感じることがあるのだろうか。


「強いて言えば、クラスメイトの反応がちょっとぎこちなかったわね。なんか渡辺さんのこと腫れ物みたいに見てくるのよ。あれはどうかと思うわ」

「そ、それは愛樹ちゃんが怖かったから――」

「っ? 怖いって何が?」

「だって、渡辺さんが着替える時に、目からものすごい睨みが――」


 ああ、それはわかる。愛樹はエロ方面に対する殺気がすごいもんな。あれに睨まれたら蛙も同然。その場に立ち尽くすしかないだろう。


「蝋そのものは知覚されない」


 千聖さんが言った。竹を一太刀で割ったような言い方に、場が一瞬静まる。

 呆然とする僕達を前に、千聖さんは説明を続けた。


「デカルトの有名な説だ。彼は誰もが納得できる真理を探すために、ありとあらゆるものを疑った。まず疑ったのは感覚だった。

 蝋を火に近づけると蝋は溶けて、甘さや冷たさといった感覚は失わる。しかし、蝋そのものは依然としてそこにある。よって、蝋そのものは感覚とは関係がない故に知覚されない。つまり、感覚というものはあるはずのものをないと感じることもあり、疑わしいものだということだ」


「そうなんですか? 溶けた蝋があるのに蝋そのものは失われるって、おかしい気もしますけど」


「いやいや。結論から言うと、デカルトは間違いをおかした。彼は、感覚でとらえられないものを、蝋そのものと呼んでいただけだった。順序が逆だったわけだね。

 つまり、知覚されないものを霊と呼んでいるのだから、霊が見つからないのは当然ということだ」


 なるほど。またいつもの詭弁が始まったのかと思ったけど、今回はそこまで変なことは言ってなさそうだ。でも――。


「で、その偉い哲学者様は、のぞき問題をどう解決するわけ?」


 愛樹が問いかける。そうだ、蝋だか知覚だかを理解しても,結局のところ問題は解決していない。

 うん、また騙されるとこだった。しっかりしなければ。


「主体の形而上学だ。つまり、渡辺さんは覗かれているんじゃない。だれかにそう思い込まされているということだ。もう答えは出てる。次に見に行けばわかるさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る