2章 初恋は黒魔術の後で

第10話 酢豚とパイナップルと哲学書

 しかし、ユキに消えて欲しいという望みは早くも消えてしまった。それは昼休みの図書室で起きた。


 図書室に来たのは、幽霊関連の本を探すためだ。入り口付近にある流行本、課題本のコーナーを抜け、自習机を通り過ぎた奥。何度見てもよそよそしさを感じるスチール棚と汚れた本が、所狭しと並んでいた。


 あの中に、目当ての本はあるのだろうか?

 ……ま、ウチの学校は普通科だから、そこまで専門的なものは無いはずだ。


 毎度思うのだが、哲学/思想のジャンルはごった煮だ。哲学と現代思想と伝承とスピリチュアルの区別がついていない。

 哲学や現代思想は学問、伝承は記録、スピリチュアルはただの中二病ポエムだ。全然違うのに、なぜ同じように並べられるのだろうか。


 こういう人達が酢豚にパイナップルを入れたり、唐揚げにレモンをかけたりするのだろう。僕は山葵に漬けられたタコのために祈った。


 そう思いながら棚を彷徨っていると、面白そうな本に当たった。


『黒魔術大全』


 中々魅力的なタイトルだ。真っ黒な背表紙の上で、ワインレッドの文字が挑発的に微笑みながら、甘酸っぱい埃の匂いを漂わせている。

 黒魔術といえば、悪霊を召喚する術のはずだ。アイツみたいな幽霊のことが書いてあるに違いない。


 ちなみに、ユキはここにはいない。「運命の人を探してくる」と言って、昼休みが始まるや否や消えてしまったのである。

 まぁ消えたというか、普通に歩いて行ったけど。


 僕は目当ての本に手を伸ばし、引き抜こうとした。


「……あ、あれ?」


 だが、いくら引いてもびくともしない。この棚はびっしり本が詰まっているわけでもないのに……。まるで、棚と本の間が真空状態になっているかのようだ。


 なんとなくだけど、今この瞬間、自分は試されているような気がした。

 もしこの本を力任せに引き抜いたら、本棚の奥に眠っていた、眠らせざるを得ない種類の闇も引きずり出されるかもしれない。

 ――果たして自分には、それに対抗する力があるのだろうか? そう思うと、心の震えが手に伝わる。


 しかし、現実問題、僕はユキに関する情報をなくてはならない。僕は予感を押し込め、力任せに本を引っ張る。

 ――すると、突然留め具が外れたかのように、スっと抜け、僕の体は勢い良く後ずさった。


「きゃっ!」


 突如、背後から女の子の悲鳴。続いて、ドサドサッという大きな音がする。


「ご、ごめん」


 振り向きざまに謝る。すると、そこには尻餅をついている女の子がいた。


 こぼれそうなほどの大きな瞳で、伏し目がちにこちらを見ている。綺麗に揃えられた睫毛が印象的だ。顔を丸く縁どるようなショートヘアの片側に寄り添う、しっぽみたいなおさげが、どこか子供っぽさを感じさせる。


「え……えぇと、大丈夫、かな?」


 なれないシチュエーションにしどろもどろになりながら、僕は言った。かなり勢いよくぶつかったからな。どこか打ち身になってるかもしれない。


 恐る恐る女の子の顔を見る。女の子は眼の焦点が中々合わず、宙ぶらりんな様子だった。自分に何が起こったのか、まだ把握できていないらしい。

 その目は僕に、でたらめな屈折率をもったガラス細工を思わせた。


「とりあえず、立てる?」


 女の子に向けて手を差し出す。すると、女の子の眼が僕の手のひらに磁石みたいに吸い寄せられる。けど彼女は僕の手に触れる前にパッと手を引いた。まるで静電気でも起きたみたいに。

 そして、彼女は落とした本を慌てて後ろに隠した。


 ――再び沈黙。


 僕はその時、マンガで読んだ子供のあやし方を思い出した。


「子供に名前を聞きたいときは、まず自分から名乗りましょう。大人相手だったらそうするでしょう? 相手が子供だからと言って、失礼な態度をとってはいけません」


 確かそんなことが書かれていた。つまり、もし隠した本を見せて欲しければ、まず自分からだ。相手を幼児扱いしてるのが忍びないけど。


「僕は今日、この本を借りに来たんだ」


 僕は、なるべく優しい声を出して話しかけた。そして、さっき伝説の剣のごとく抜いた黒魔術大全を出したことが、後悔に変わるまで時間はかからなかった。

 魔術本を借りるなんて知ったら、ますます警戒されるに決まっている。


 ……とりあえず言い訳だ!!


「え……えとっ、この本は借りようとしたんじゃないんだっ! 隣の本を取るのに邪魔だったからさ。あの、ホントに欲しかったのはこっちの本で――」


 彼女の方を向いたまま手を後ろに伸ばし、黒魔術で出来たスペースの隣の本を掴む。

 ――黒魔術大全・付録!!


 沈黙・再び。もう僕には、この状況を打開する手筈が思いつかなかった。


 女の子は本を見つめていたが、何かを思い出したように急いで立ち上がった。そして「ご、ごめんなさい」という言葉を残し、本を隠し持ったままどこかへ行ってしまった。

 僕には、ただその後姿を見つめることしかできなかった。

 波打つ心臓のように、おさげが跳ねながら遠ざかる。残された僕は、二人で作り出した沈黙の余韻から抜け出せずにした。

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