夜明け前、酒場にて。

 魔術師という存在の真相を知る者は、この世界の何処にも居ない。魔術師は世の終焉と再生を連れてやってくるからだ。終焉を逃れた書物の記録のみが彼らのおぼろな姿を写し、各地で語り継がれている話の大半は、何処からともなくやって来た創作の物語である。

 未知のものへの恐怖と崇拝だけが、魔術師の存在を形作っていた。

 幼い頃から、悪い子でいると魔術師が舌を抜きにやってくる、魔力を根こそぎ食べられる、死後の世界へ連れて行かれる、と様々な口上を言われて育つ子供は多く、大人になって魔法の知識を身につければ、彼らはより巧妙な創作を仕立てようとする。


「全部、でたらめな創作です。ありえません」


 優しくも意志の強い声が、小さな酒場の騒がしい空気を一瞬だけ切り裂いた。


「これもかよぉ……」


 続いて、狭いテーブルで顔を突き合わせる男たちの嘆き叫びが漏れる。

 下手に扱えば端から崩れていきそうな古めかしい書物をやや粗雑に突き返したのは、声と全く同じく優しい雰囲気を纏った、旅の青年。夜も更け人が密集する酒場の中でも一際目立つ異国の装いをしている。青空を思わせる髪色に、白銀の瞳、中性的な顔立ちも相俟って、人離れした雰囲気すらあった。


「そもそも、この書物はさして昔のものではないですね。500年も経っていないでしょう。保存状態が悪いだけですよ」


 青年は極度の遠視らしく、一度眼鏡を外すとぼんやりと宙を仰ぐ。傍らには多くの酒瓶やグラスが空になって整然と並べられているが、当人に酔いが回った様子はない。


「500年だって十分に昔だろ?なぁ」

「この本の話はこの辺りじゃ一番に有名だ。申し分ないだろ、兄ちゃん」

「もっと古くて、信憑性が高い文献は山ほどあります。それに、僕が求めているのは読み物ではなく学術的な資料だと、はじめに条件は提示しました。皆さんにせっかく持ってきていただいたのですが、どれも買い取ることは出来ません。申し訳ない」


 自分よりも若い者に、語気強く明確に断られた男たちは、それぞれが持ち寄った古書を抱えて寂し気な足取りで酒場を後にする。すると、人で溢れ返っていた酒場は、途端に風通しが良くなり、外の虫の音が聞こえる程に静かになった。

 何時間にも渡り男たちの相手をしていた疲れからか、旅の青年は深く息を吐く。眼鏡をかけ直すとワインを一杯、とカウンターに向かって注文をつけた。


「あそこに座っている旅人さん、魔術師の伝承について調べているんだと……酔狂な奴も居たもんだなぁ」「それで街中の本好きやら写本師やら古書店の爺やらにとっておきを持ち寄らせたのか?」「いつも高慢ちきな奴らが背中丸めて帰って行ったぞ」「ざまぁねぇな!」

「魔術師を調べて何になるんだか」「魔術師は千年以上も生きるって話だろう?」「それに、何度もこの世界を滅ぼしているんだから、誰も見たことがないのは当たり前だ」「所詮は想像上の生き物か」

「おい、誰かあの美人な旅人さんに声かけて来いよ」「お前さっきの騒ぎ聞いてなかったのか?」「あの旅の御方は男だろうが。お前の目は節穴か」

「魔術師なんて、生き物かどうかも、分からねぇ。心臓がないっていう話を聞いたことがあるぞ」「身体中が隅から隅まで回路か……創作としちゃあ悪くないね」


 酒場は、魔術師の話と、一人の異邦人の話で持ち切りだった。後者に関しては本人が居るのもお構いなしに、酒の肴に想像が膨らみ話は盛り上がっていく。

 後から入ってきた客の数人が彼を女と間違えて軟派の真似をすると、黙々と酒を飲み続けているのを邪魔されたのが気に召さなかったのか、にこやかに手を叩かれる始末まで起こった。もはや観衆は一人の旅人に釘付けで、店を後にすることができなくなっていった。


 次第に夜明けが近づくと、流石に静けさが漂ってくる。酒よりも水がグラスに注がれて徐々に熱が失われ、朝の空気の予感が酒場を冷やしていく。酔い潰れて寝ている者が半分以上、飽きて帰った者が少々、まだ起きている物好きが数名といったところである。


「おい兄ちゃん、見ない顔だが」

「……僕ですか?」


 そんな時分、とうとう一人の男が声を掛けた。


「見ない顔はアンタしか居ないよ。俺はシユウ、近くで食堂をやってる。旅人さん、名前は?」

「僕は、……ロォです。すみません、飲み始めてからずっと冷やかししかされなくて……拍子抜けしてしまいました。てっきり、古書を買い取らなかったことで嫌われたものだと……」

「あぁ、そりゃ悪かった。アンタが独り酒の方が良さそうなものだから、要らん気遣いをしてたんだ。ここはみな知り合い同士だから、異邦人相手にはちょっとばかし恥ずかしがり屋が多い」


 この世界に於いて、閉鎖的な地域や集落は珍しくない。むしろ王都のように栄えている場所の方が少数であり、それぞれが周辺の地域と独自のコミュニティを形成し、商売をして暮らしている。もちろん、貴族などの位の高い者が地域を治めている場合もある。

 ロォが訪れているこの村は、肥沃な土地を生かした農耕が盛んで、酒造りにも適した土地だった。それぞれの家が様々な商いをしながら生活し、村民同士で暮らしを支え合っている。


「いいや、それよかお前さん、こんな田舎に何の用だ。見たところ、王都の方から来たって感じだが……商人って身なりじゃあないな」


 シユウは魔法で、元居たテーブルから自分の酒瓶とグラスを手もとに移動させた。彼もこの地の者らしく、酒にはめっぽう強い。異邦人の話を酒の肴に、もう少し飲もうとしていた。


「おや、良い推理ですね。確かに僕は王都から来ました。実は探し物をして長いこと一人旅をしていまして」


 長いこと、という割にロォは若く、まだ20年も生きていないように見える。

 魔法で姿を偽ることは法令で罰則が発生するため避けられるが、実は旅の者には珍しくない。ロォが実は白髪頭の年を召した爺かもしれないとシユウは疑ったが、一方で彼が嘘を吐くような人柄だとは思えなかった。疑ってしまう程に、彼の見た目とその落ち着き払った態度の不均衡は奇妙なものだった。

 おまけに人と会話をし慣れていて、意思表示が明確なのに嫌な感じがしない。人を下に見るようなことをしないが、オドオドとするような様子もない。シユウは旅人の誠実さに感心し、この村の高慢な元締めや商人たちに態度を見習ってほしい、と考えながら酒を呷った。


「……探し物?この街には何もないがなぁ」

「何処へ行ってもそう言われます。けれども、何処に落ちているのかが分からないのが、探し物です」

「何を探してるんだ?」

「物、というよりは……。あぁ、少し嘘をつきましたね。人といった方が正しいかも」


 青年は、傍らの荷から何やら高価そうなものを取り出す。起きていた全員がその無防備さと、物の異様さにギョッとした。


「お、おい……何だソレ」

「これは本です」


 どん、と音をたててカウンターに本が置かれる。大きさも重量も明らかに通常のものとは違うというのが、一目で分かる。そして、最も異質なのはその装丁だった。本というよりも、まるで宝箱のように華美な装飾が施されていて、どこもかしこも目が痛くなるくらいに輝いている。極めつけには、本そのものが誰が見ても分かるほどに強く禍々しい魔力に満ちており、近くで見ているシユウは、何か漠然とした恐ろしいものに呑まれる錯覚に全身が包まれるような錯覚がした。

 2人の背後で、この光景を目の当たりにして静かに席を立った気弱な者が数名居たが、それ以外は怖いもの見たさでロォとシユウのやりとりを伺う。寝ている者は魔力に当てられ体を揺らしたが、熟睡しているのか特に起きる気配はなかった。


「この本の、作者を探していまして。中身は単なる歴史書なのですが……」

「いや、ちょっと待った。そんな趣味の悪い歴史書があるのか?まず本ってのはそんな……」

「あぁ、これは装丁を施した奴の趣味です。酷く悪い趣味でしょう。それに、素人が魔力で製本をした物なので、金銭的な価値は全くありません。中身は図書館に行けば閲覧できるものですし、本物の価値が分かる人は、交渉しに来たり盗みに来たりなんて、くだらないことはしません」


 素人がこんなに趣味の悪い装丁と魔力の込め方をするだろうか、とシユウの顔が引きつる。それを察したように、ロォが問いかけた。


「魔術師の伝承をご存知ですか?」

「ま、まぁ……幾つか。誰だって知ってるだろ……。それに、アンタは魔術師についての本を集めているって爺どもに言ってた」

「そうでした。聞いていらしたのですね」

「そりゃ、アンタの姿が魅力的に見えたからな」

「御冗談を」


 ふわり、という音が正解に思えるくらいに、旅人は優しく美しく笑った。白銀の瞳が細められ、群青の髪が揺れる。そういう所が魅力的に見えたんだがなぁ、と言おうとしてシユウは口を噤んだ。


「それで、魔術師がどうしたって……」

「あぁ、失礼。この本にはその魔術師の魔力が篭っています」

「……は?」


 その場の空気が凍る。様々な魔術師の伝承が頭の中を走馬灯のように駆け巡り、いま目の前の本から発せられる禍々しい魔力がより一層、恐ろしいものになった。


「その点においては、価値のあるものかもしれませんね。趣味は最悪ですけれど」

「いやいや……兄ちゃん、流石にソレは冗談きついって」

「特に冗談のつもりはないけれど……まぁ、信じられなくても当たり前ですね……」


 何せ、もう長い時が経ちすぎた。とロォは小さく呟く。

 感傷に浸るようなロォの横顔を見てシユウは少し居心地が悪くなり、空になったグラスを口元に寄せる。それを見かねた店主が、2人のグラスに水を注いだ。


「何やら面白そうな話をなさっていますけれど。旅人さん、お客様のようですよ」

「マスターは耳が良いですね。しかし、招かれざる客人といったところでしょうか」

「そのようですね」


 ロォはようやく椅子から立つと、魔法で荷物を片付けながら店の扉を開ける。

 すっかりまとまった荷物が彼の手に吸い寄せられ、カウンターに金貨が数枚転がると、外が何やら騒がしくなる。そうは言っても囁き声ほどの音だが、或る程度の魔力がある者なら聞き取れる。シユウもようやくその騒がしさに気が付いた。


「すみません、そろそろ行きますね。お酒、美味しかったです。本当はもっと話したかったのですが、皆様に迷惑はかけられませんから。……では、ごちそうさまでした」

「またお待ちしております」

「いや、ちょっと待て……」


 足早に出ていくロォの後を慌てて追い、シユウも店の外へ向かう。扉の向こうでは朝日が昇り始めていた。陽の光が目に痛く刺さり、冷たく澄んだ風が身体に吹きつけて酔いを覚ましていく。

 どんなに小さな物音一つでも響きそうな位、この地の朝は静けさに満ち満ちている。その中で、凛とした声音で旅人が告げた。


「お客人は、誠心誠意心を込めて、対応しなければ。そう思いますよね?シユウさん」


 朝日に照らされたロォは、いたずらっぽく笑っていた。その表情は見た目相応に少年らしく、かと思えば絵画になりそうなほどの色気もあった。眼前の光景が余りにも尊いものに思えて、シユウは思わず呟いた。

 ほら、やっぱり魅力的なんだ、と。

 それが聞こえたのか、ロォは困ったように眉を下げる。いや、聞こえていなかったのかもしれない。彼が困っている原因はもっと明確に、目の前に存在していたからだ。

 ほんの一瞬にしてロォは、派手な装束を身に纏った5人の男に囲まれていたのだ。


「何ですか、貴方達は。そんなに囲まれると流石に暑苦しいですよ」

「俺らのボスが、アンタが持ってる本を欲しがってんだ」

「参ったなぁ……ここ数年で、随分と有名になってしまったみたいだ……」


 5人組は、風体からして下級の盗賊たちのようだ。手口が込んでいないことから、『ボス』からすれば彼らは大した手駒でもないのかもしれない。体格も態度も大きいこの盗賊たちは、対照的に小柄で腰の低いロォを取り囲み、ナイフを突きつけるばかりだ。

 一方のロォは、低姿勢ではあるものの何を言われてもどこ吹く風である。古書を全て突き返したときと同じように、強い意志の籠った笑顔で、背筋を伸ばして凛と立っている。


「いいから寄越せ!」


 短絡的とも言える、まるで奪う算段など立てていないような台詞と共に、ロォの眼前へ刃先が向かう。魔力でも込めていたのか、避けようとするとそれを追うようにして、ロォの頬を僅かに掠っていく。

 陶磁器のように無機質な肌から、血が滲む。彼の白銀の瞳が少々不機嫌に細められた。優しさの象徴だった笑みは不敵なものへと塗り替えられていく。


「あぁ、もう…………」


 まるで手の焼ける子どもたちを相手にしているように、ロォは呆れたようなため息をつく。

 殺意の魔力に満ちた5本のナイフが、まだ彼の華奢な身体に迫っているのが、外野のシユウからも良く見える。

 本当は助けに入りたかったが、足が動かない。これは盗賊に対する恐怖ではなく、ロォの魔法の所為だというのは、時折送られてくる彼の視線で何となく理解できた。ここにいる者に迷惑を掛けたくないという、彼の気遣いなのだろうか。


「僕を襲うのは結構ですが、街から離れた所にしませんか?ちょうど南南西にまっすぐ進むと、静かで良い森があってですね」

「ゴタゴタ言ってんじゃねぇ!」

「……」


 一人の男がロォへと掴みかかろうとしたが、空を切る。ロォは一瞬の間に大きな荷物に腰掛け、宙に浮いていた。その手には、禍々しい輝きと魔力を放つあの不思議な歴史書がある。まさにそれが狙われているというのに、堂々としたものだった。

 盗賊たちは少しの間、本が放つ魔力に当てられていたようだが、最も屈強そうな一人がロォを追うように宙へ向かおうと地を蹴る。しかし、突如としてその足は地面に沈んでしまう。地面がまるで生き物のように、盗賊の片足を掴んで引きずり込もうとしている。


「なっ……なにしやがる!」

「すみません。久しぶりなもので、加減が効かなくて」


 ロォは相変わらず不敵な笑みを湛えていた。その後ろには氷のような加虐性が見え隠れしていて、おまけに、抵抗を続ける盗賊たちを見る彼の眼は、下等生物を見るような神の残酷さまでをも宿してる。

 今の彼は心優しい旅人である以上に、全知全能の化身のようであった。誰も触れられない所で、流れるような所作でもってこの場を支配している。


「見た目も内容も良く、歴史的、あるいは金銭的な価値を持つ本はいくらでもこの世に存在します。例えば、王都の王立図書館、それから古書店の埃に塗れた棚の隅、写本師たちの手元……」


 譫言とも、呪文ともとれるような言葉が、朝の空気を震わせる。決して大きな声ではないのに、脳内に直接響くような力強さで紡がれていく。

 地面のうねりは範囲を広げ、他の盗賊たちも引きずり込もうと身体を捉えている。やがて、少しずつひび割れ始めた地から見たこともない植物の蔦が伸び、絡まり合って檻のような様相を呈する。自然の脅威とも言うべきか、瞬く間に光景が変わっては、破壊とも創造ともとれる地の侵略が続く。盗賊たちは情けない声を上げ、時に許しを乞いながらも必死に抵抗をしていたが、成す術もなく蔦の檻はやがて彼らを囲ってしまった。

 シユウはその壮大な光景に開いた口が塞がらなくなっていた。


「この本の、真の価値を教えましょうか。あまり、良いものではありませんが」


 ロォがそう言うと、場の魔力濃度が急速に上がる。魔術の構造からして、空間の一部を圧縮して盗賊たちを押し潰すつもりだろうが、シユウはそのような芸当は見たことも聞いたことも無かった。

 仮に押し潰せたとしても、あまりにも悲惨の光景が広がるだけだ。ロォの表情は既に冷徹なものへとなっていた。先ほどまでの平穏は一体どこに行ってしまったのか。

 頭が割れるような魔力の強さに、呼吸を忘れないことに精一杯になる。あと数秒もすれば気を失いそうなほど、ここは危険地帯と化していた。


「……ロォ!もう、やめろ!灸をすえてやるのはそれくらいで十分だろうが!」


 足は未だ動かないが、全ての自由を奪われているわけではない。シユウは、出せる限りの大きな声で、体に残された力を振り絞りロォへ訴えた。


「……あ」


 我を失ったようなロォには届かないかと思われたが、彼の表情を見る限り聞き入れてくれたようだった。

 一瞬にして全ての魔法が解け、今までの光景が何事もなかったかのように元通りになる。ひび割れた地面も蔦の檻も無くなっていたが、5人の盗賊が折り重なってぐったりと気を失っているのだけはどうにもならないようだった。


「ロォ」

「……ありがとう」

「……」

「シユウ、貴方が名前を呼んでくれなかったら、僕は……」


 それ以上の言葉はなかった。孤独な旅人は、寂しそうな笑みを浮かべたまま、しばらく目を伏せていた。

 その表情が今にも泣きだしそうに見えたシユウは、ロォの頭を撫でようとした。ついでに抱き締めてやりたいとも思った。しかしどうにも身体が動かない。これはシユウの魔法ではなく、本能的な恐怖であると理解して悲しくなる。


「僕のこと、怖いですか」

「そうじゃない……。アンタは良い奴なのに、なのに、何も理解できないから……」


 言いかけて結局、今の自分にあるのは恐怖心だけだということに気が付いた。


「彼らが目覚める前に、僕が森まで運んでおきましょう。……迷惑を掛けたくなかったのに、最後に余計な気を負わせてしまった。本音を言えば、誰の記憶にも……残ってほしくなかった」


 朝日が昇り切った頃、旅人は何処かへ消えてしまった。


 彼自身が魔術師という仮説は如何だろうか。シユウはふと考えついた。生涯孤独な魔術師は、長い生涯を持て余しながら、自分自身が何者であるのかを探す旅をしているのだ。そう思い始めると、彼自身と彼の所持していた奇妙な本の尋常ではない魔力の強さも、彼の妙に落ち着き達観した様子も納得できるような気がしてくる。いや、自分をそう納得させたいのかもしれない。


 まるで全てが夢だったかのように、一日の営みが始まっていく。

 シユウはこの日、自分の食堂を休業にし、不思議な旅人との出会いを何度も反芻しながら紙に書き起こした。

 己だけが目撃していた、美しくも残酷な魔法の一部始終を、余すことなく記録に残すために。

 どんなに拙くても構わない。孤独な旅人を、少しでも多く長く、覚えていられるように。



 ・



 深く暗い森の中、大きな樹洞の淵に腰掛けた旅人は、頬についた切り傷を一人の少女に手当されていた。


「しっかり書き留めていた?」

「<もちろん、貴方の雄姿を>」


 少女は『隣人』であり、旅人が持ち歩く歴史書に封じられている身であった。旅人の尽力のお陰もあり時折であれば姿を現していることも可能だが、彼以外の前では姿を見せたがらない。少女は旅人の記録に執心していて、鞄の中、さらに歴史書の中で黙々とその日の出来事や彼の言動を書き留めることを生きがいとしていた。


「僕の事は良いよ。彼らのことを書いて」

「<あの酒場の連中は悪くなかったけれど、不運にも貴方にお仕置きされた阿呆どものことも?……ねぇ、いつも言うけれど、貴方のことが残らなかったら、意味がないのよ?折角、私という優秀な記録係がついているのに!>」

「君の力はとうの昔に認めているよ。でも、やはり僕はいい。……どうせ根無し草だ」

「<名前を捨てなければ、もう少しマシだったわ。今の貴方には、呼べる名前がない。これはとても良くない……>」


 この世において名付けというのは、少なからず縛りを生むものとされている。肉親以外にも、名付け親との関係や、地との相関関係、時には面倒な因縁になることもある。


「いや、あの名を捨てなければ、この身が灰になって無くなるときまで、僕は酷い幻覚と不眠に襲われたままだった。名前は全てを縛る呪いそのものだから。その場凌ぎの名前なら、僕の意識の8割は自由だ」

「<残りの2割は?>」

「稀代の魔術師に呪われたまま、使われずに腐っている。今さら取り戻せないよ。見ていたでしょう?奴らの加虐趣味と、世界を思い通りにしようとする魂胆は、僕の中に織り込み済みなんだ」


 ロォ、という名は彼にとってその場凌ぎの思い付きの名でしかなかった。

 彼には遠い昔、アエスという名前があった。しかし、それは時が経つにつれて純粋な呪いと化していった。名乗るだけで心臓が締め付けられ、挙句にはその名を冠しているというだけで血を吐いた。魔術師に名付けられ呪われた彼にとって「アエス」の名は死に至る病のようなものにまで変化し彼を蝕んだ。

 少女は悔しげに下唇を噛む。魔術師を継承する者のの性分とでも言えよう。全知全能そのもののような振る舞いは、であるアエスの奥底にも眠っている。


「<トレイズが貴方を呪いさえしなければ、貴方はもっと自由だったのに>」

「トレイズ……か、忌まわしい名だね。本当に……」


 旅人は自嘲気味に笑う。頬の傷は既に癒えていた。昇った太陽の光が木々の間を滑り込み、苔生した地面を照らしていく。その光の筋に目を細めながら、彼は立ち上がった。


「<あら、次は何処へ?>」

「さぁ……いつも通り、分からないよ。気ままに行こう。世界は、どこまでも続いているからね」


 気の遠くなるほどの年月を過ごし、たくさんの人と出会い、様々なものを目にした。それでも彼の精神は孤独なまま、果ての見えない旅を続ける。

 世界から隔絶されたまま、全てを滅ぼす魔術師になる筈だった旅人は、どこか遠くへ歩いていく。

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短篇 明乃ゆえ @sakuha

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