手
豊 名尾汽
手
“もう行くのか。いつも早いな”
いつもどおりわたしは無視した。それでもアイツは、
“じゃ、部活がんばって。頑張り屋さん”
と、ブリキの手を振る。
わたしは目を合わせないように玄関を出て、うしろ手に戸を押し込んだ。
……やめて。汚さないでよ…………
大きくて暖かいお父さんの手。
背中を押してくれたブランコ、抱き上げてくれた動物園、手を繋いで並んだ遊園地……。どれも大事な、お父さんとの思い出……
……それが、アレを見るたび薄れていく。
みんな、アイツのせいだ!
アイツが壊れたと聞いたのは五時限目あとの休み時間。……母さんもわざわざ電話してくる必要ないのに。
アイツが壊れたからって、わたしが部活を休むと思う? 絶対行かない。いつもどおり、たっぷり練習してから帰るんだから。
母への憤りを募らせるうち、いつの間にかホームルームが終わっていた。
もう教室には誰もいない……と思ったらあの男がいた。大あくびで帰り支度をしている。
二人きりだ。いやだなあ。ナンパでもしてきたらどうしよう。わたしも早く帰らなきゃ。でも同じタイミングで教室を出るのもイヤだし……。ここはやり過ごすしかないか。
ところが彼は一番近い後ろのドアには向かわず、こっちへと歩いてきた。
びたびた、びたびた……
わたしは気づかないふりで鞄にノートを押し込む。でも、足音はどんどん近づいてくる。
もう……やだ……どうしよう……!
しかし、それは取り越し苦労に終わった。彼はわたしの隣を通り過ぎ、前のドアからA組の教室を覗いてブツブツ言っている。
「くそ、誰もいねえ……」
よかった。
……けれどホッとしたわたしは、はっきりばっちり、彼と目が合ってしまった!
「……」
「……」
何か言いたげな顔で近づいてくる。
怖い。何か言わなきゃ。
「あ、あのね……」
「あ?」
やっぱり怖い! わたしは勇気を振り絞った。
「あ、あの、ウチのことなんだけど……」
わたしは仕方なく、壊れたアイツのことを打ち明けた。彼がオルターを扱う部活の所属であることを思い出したからだ。
「とっもっえー」
「やっだ、男と部活サボりぃ?」
「だいたーん。巴もそんなことするんだ」
……嫌なやつらに見つかった。
「あの、先生には許可もらったから、別にサボりじゃ……」
「さっすが。ふだん真面目だとこういうときいいよねー」
「いいなあ、わたしもサボろっかな……。お、と、こ、と♡」
「ミサちんはだめだよぉ。インターハイの練習しなきゃ」
「だからそれがカッタルイんだって」
「……すごいよね、ミサちゃん……」
「巴もぉ、もっと練習すれば行けるって」
行けないって。自分の実力くらいわかってる。
「でもさあ、やっぱり親の――」
二人の顔色が変わった。彼が振り向いたからだ。
「じゃ、じゃあああ、わたしぃ、外周残ってるから」
「そそそお。わたしたちじゃ怒られちゃう。巴と違って不真面目だしぃ。じゃじゃじゃ、またあした!」
二人はそそくさと校門から駆け出していった。……ふう。
「なんか、ワリいな」
「え?」
「……いや、さすがにつき合ってるとは思わねえだろうが、噂になっちまうんじゃねえか」
ううん、助かった。……それにかえって好都合かも。
「しっかし、女子の話ってな
「あらあらあらあら、とっても楽しそう」
誰? と思ったらA組の恩田さんだ。どこから現れたのか、上履きのまま……
「またまたまたまた鼻の下伸ばして、部活サボって彼女とデート?」
「や、彼女ってわけじゃ――」
「彼女? わたしそういう意味の彼女って言ってないんですけど? やっぱりそういうことでいいのかしら?」
「
「あの、本当に違うんです」
もう、しょうがないっ!
わたしは彼にした話を恩田さんにも繰り返した。……ああ、身内の話がどんどん広まっていく。
すると彼女は――
「わたしも行く」
え? ちょっと……
「待ってて。部室の鍵閉めてくるから」
「あ、あの……」
「絶対待っててよ!」
そう言うと、カモシカのような足で一直線に校舎へ向かった。
「あ……」
「なんかワリいな。あいつ、オルターのことになると……」
……もういいです。覚悟を決めました。
でも……
友達?二人を連れてくるなんて、母はびっくりするだろう。
でもそうか、今日はそれどころじゃないんだった。
歩きに歩いて、我が家を見渡す通りに出る。と、男が二人、クルマに乗り込んでいた。
間違いない。ウチから出てきたんだ。走り去るクルマの横には大きなロゴがあった。
「オルターのディーラーだな」
「あなたの出番、なくなっちゃったわね」
彼を見下し、メーカーへの信頼を言葉にする彼女。しかし部屋に通すと――
「何よアイツ等! 人の血が通ってないんじゃないの!」
「落ち着け」
「だって、何よこれ!」
テーブルには薄い冊子が積まれていた。どれもオルターのカタログだ。
その横に、母がお茶のお盆を置く。
「もう……駄目なんですって」
「けっこう深刻な故障、ですか?」
ふうん、彼、いちおう礼儀はわきまえてるんだ。
「AIのあちこちに腐食があるそうなんです」
「へえ、そりゃ珍しい。AIはカッチリ密閉されてるんだが。やっぱり古いから、か」
横たわるアイツに、彼は視線を投げた。
「蒸気に当たり続けてきたせいではないかって。ウチ、蕎麦屋ですから」
「えーっと、どれくらい……」
「十四年になります。その間、ずっと厨房に」
「メンテナンスはされてなかったんですか!?」
「おい、理緒……」
「だって……」
「いえ、きちんと、定期的には」
そう、きちんとやってた。もう古いから、買い換えたほうが割安だと言われてからも、ずっと。
「で、
「十四年物か。うーん……」
彼もおそらくディーラーと同意見だろう。彼女の手前、それを口にできないんだ。
「たとえばデータを新しいAIに移し替えるとか」
「理緒……」
「何よ?」
「たとえば俺の性格やら仕草やらはそのまんま、
「気持ち悪い」
そのひとことは、わたしの想像を越えて彼を落ち込ませた。
「……つまり、そういうことだ」
あ、立ち直った。
「元のこのオルターにするには、おんなじAIを手に入れるか、十四年前のOSを見つけてこなきゃいけねえ」
「それで、どうしたらいいのよ」
「だから、うーん……メタトロンの日本支社に問い合わせて、AIがなきゃ、OSをオーダーメイドで……でもなあ」
「ちょっと何よごちゃごちゃと。つまりどういうことなの!?」
「……復元は、限りなく不可能に近い」
「……」
すると彼女は端末を取り出す。
「おいおい、まさか本当にメタトロン社に電話すんのか!?」
「違う! 輝矢によ」
「よせ、どうせ繋がんねーよ」
しかし彼女は取り合わない。
「……えっと、A組の阿澄くん?よね。彼もあなたと同じ部活なんじゃ……」
「ああ、あいつ今日は合唱部の助っ人に借り出されてんだよ。なんか、伴奏の子が手を怪我したとかで」
へえ。阿澄くん、ピアノも弾けるんだ。
「……」
恩田さんが無言で端末をしまった。
「どうだったよ?」
「……まあ、彼の意見も、だいだいあなたの言うとおり……」
「だろお?」
彼はここぞとばかりのドヤ顔をした。
……ここはあきらめるしかないわね、母さん。
振り向いたわたしは、アイツに向いて正座する母を見つけた。
その姿勢はまるで、妻が夫にするような……
「もう! やめてよ!!」
「巴……」
「お母さんのそういうとこ、学校で噂になってるんだから!」
「でも、彼はあなたのことも……」
「わたしはソイツが大っ嫌いなの!! 大事な思い出を汚してるのよ!!」
「……」
逃げ出したい衝動を、わたしは意地で踏みとどまった。今日こそ母を言い負かすチャンスだ!
「……あー……」
二人には悪いことをした。こんな気まずい場所に来させて。……あと、ちょっと恥ずかしい。
「……手……」
え?
恩田さんがアイツの頭に手を当てている。
「彼、手のこと、気にしているわ」
「おまえ、何言ってんだ?」
「ふっふーん、わたしはね、オルターの気持ちが読めるのよ」
「ついにスピリチアルの世界に行っちまったか」
「嘘じゃないわよ」
「あの……もしかして、これのことでしょうか?」
母は、どこからか汚い何かを持ってきた。広げてどうにか”手”とわかる、薄汚れた皮膚のようなもの……
「これが、彼の……」
「ええ。同じ型のはもうなくって。調理のときは厚めの手袋をするから、なくても問題はないんですけど」
「お母さん、彼はそれに未練があるみたい」
「え? でも、作り直す必要はないって、わたしには……」
「そうよ。そんなの必要ない。とっとと捨てちゃえばいいのに」
「巴、あなた、なんでそんなに……」
「……」
「これは彼が十四年間ここで働き続けた証なのよ」
……それはわかってる。アイツは父のかわりにウチに来て、以来、お爺ちゃんが死んでからも厨房に立ち続けた。おかげで不自由なく暮らせたし、学校にも行けている。感謝しないのは罰当たりだ。
……そんなことはわかってる! でも、でも……好き嫌いは別のものだ!
そのとき突然、動かなかったアイツがゆっくり手を伸ばした。よりにもよって、わたしのほうへ!
「きっと、昔のことを思い出しているのね」
母さん、何言ってるの? そんなわけないじゃない!
「今はこんなですけど、昔は仲が良かったんですよ。いっしょに公園に行ったり、買い出しに付いて行ったり」
…………え?
「……この子、彼の手をぎゅっ、と握って」
……
大きくて暖かいお父さんの手。
背中を押してくれたブランコ、抱き上げてくれた動物園、手を繋いで並んだ遊園地……。どれも大事な、お父さんとの思い出……
……涙が、止まらない…………
やだ、加瀬くんと恩田さんが見ているのに。
……やっぱり連れてくるんじゃなかった。
二人のせいだ。わたしがこんなブリキの手を握ってるのは。
こんなに涙が溢れてくるのは。
たぶん直せないとわかってたのに。
…………
こんな気持ちに……させられる…………なんて…………
……
「……お父さん…………」
手 豊 名尾汽 @yyutto
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