第7話 狂気
「何! 私変なことをした?」
明良は樹希に詰め寄られて、笑うのを止めようとしたが、なかなか治まらない。やっとのことで、笑いをかみ殺して、樹希の顔をまじまじと見る。
「ごめん、すごい偶然なんで思わず笑ってしまった」
「何が?」
「いや樹希のお母さんがE&Wバンクとは思わなかった。前澤さん引きつってたね」
「どうして私の母が同じ会社だって言ったら、そうなるわけ。分かるように説明して」
置いてけぼりを食らったみたいで、どうにも納得がいかない。
「ふーん、君はお母さんと仕事の話はしないの?」
「そんな話しないわ。母は私の学校のことを聞きたがるだけだし」
「なるほどね。まあ、職業柄しかたないかな」
「全然意味分かんないんだけど」
樹希は自分でも理由は分からないが怒っていた。
「トレーダーって人種は、一人一人が独立会社みたいなもんなんだ。同じ会社に勤めていても、案件の内容次第で敵にも成れば味方にもなる。前澤さんはずっと里見グループの動きを追っていた人だ。今日も里見零士の改革論に、なんとか食い込みたいと思って参加したんだろう。知ってる? 今日のパーティの参加費用は、正規価格で二十万円もするんだ」
「前澤さんがそこまで投資して、このパーティに参加した意気込みはよく分かったわ。でもそれと私の母がどう関係するの?」
明良は困った顔で、これ以上訊くのと言いたげな顔をした。
――分からないに決まっているだろう。私は普通の中学生だぞ!
怒鳴りたいところをグッと堪えた。
「僕が金融業界では知られた存在であることは、今日だいたい分かっただろう。それも里見と同じ裏財閥である北条家に属しているからなんだ」
「それは知ってたわ。母から聞いてる。母はあなたを紹介して欲しいと言ったけど、無視したわ」
「それは正解だ。裏財閥はあくまでも裏の世界、禁忌の世界と言っていい。安易に接近する者は、とんでもないリスクを負うことになる」
周りにこんなに人がいるのに、明良と二人で隔離されているような感じがする。事実、話し始めてから誰一人寄って来なくなった。
「ねぇ、早く前澤さんと母の関係を教えて。さっきから誰も寄って来ないし、変な感じなんだけど」
「ああ、結界を張ったからね。じゃあ話を戻そう。前澤さんはこのパーティに来て、僕が来ていることに気づいた。今日の僕のパートナーである君が、自分と同じ業界の人間であることも知った。そこでこう思った。今回、里見零士は北条家と手を組もうとしている。その仲立ちをしているのが、君のお母さんじゃないかと勘繰ったんだ」
「でも私は明良を母に会わせてないと言ったよ」
「それは何の確証もない君の言葉に過ぎない。今彼は、慌てて裏どりに走っているのさ。おそらく、君のお母さんとお母さんのスタッフの最近の動きを、部下を使って調べさせてるんじゃないかな」
「でも何もないわ」
「そう、そこで彼は君の言葉を少し信用する。すぐに今日の本来の目的である、里見零士に接近するために戻って来る」
「ねぇ、明良君は本当に中学生なの? 私にはまったく分からない世界なんだけど」
「いずれは、全てが分かるときが来る。今は気にすることはない」
明良が微笑むので、つられて樹希も笑い返した。こんな風に言われたら、不安になるだけ損というものだ――樹希は完全に開き直った。
明良がサーブしてくれた料理を平らげながら、美味しい料理を堪能しようと頭を切り替える。
「さっきは結界を張っていたね。何か大事な話をしたのかな」
料理を食べることに夢中になっていて、いつの間にか零士が近寄ってきたことに気づかなかった。零士の後ろには杏里紗がいた。
「樹希がいろいろ知りたがるもので、少し説明をしていました。先ほどのスピーチはお見事でした」
「君がどういう風にあのスピーチを受け取ってくれたかは、いささか気に成るところだ。良かったら別室で少し話をしないか」
「いいですけど、コーマが不在の中で、意思決定はできませんよ」
「それはしなくてもいい。君自身に知ってもらって、時間をかけて是非を考えてくれればいい」
「先ほどのスピーチで大体のところは察しがつきますが、時間を取ってもらえるのは光栄です。お付き合いしましょう」
何か難しい話みたいなので、樹希は遠慮しようかと言ったが、明良はかまわないと言い切った。一人で会場に残るのは心細いので、迷ったがついて行くことにした。杏里紗も零士の後ろをついて来る。
四人は零士の案内でパーティ会場を出て、同じフロアのミーティングルームに向かった。これからどんな話が待っているのか、怖さはあるが好奇心が勝った。
歩いている間、誰も一言も発しない。普段口数の多い杏里紗が、青い顔で何も言わないのが不気味だった。当の樹希も緊張から話す言葉が思いつかない。よしんば何か思いついたとしても、この場に不似合いだと飲み込んでしまっただろう。
「ここだ」
零士がミーティングルームのドアを開ける。部屋の中に入るとムッと生臭い匂いがした。何だろうと急いで周囲を見回す。奥の机の上に女がうつ伏せになって寝ていた。首に医療用のメスのような刃物が突き刺さっていた。
それが死体であると認識したのと同時に、明良の手が口を塞ぐ。思いっきりあげた悲鳴は、明良の手に吸い込まれて音に成らなかった。
少し落ち着いたことを知らせるために、もう大丈夫だと明良の腕を軽く叩いた。明良の手から解放され、何が起こったのと訊こうとして振り向いたとき、杏里紗が明良の後ろからメスを振りかざすのが見えた。
樹希が危ないと叫んだのと、明良が後ろ蹴りで杏里紗の腹を蹴るのが同時だった。杏里紗は二メートル程度後ろに飛んだが、すぐに起き上がってメスを構える。
杏里紗の身体が低く沈んで樹希に向かって飛び込んで来る。握ったメスから赤い炎が吹き上がるように見えた。逃げようと思っても身体が動かない。刺されると思った瞬間、杏里紗の身体がゆっくりと床に崩れ落ちた。
杏里紗の背後に零士が立っていた。手刀で杏里紗の意識を奪ったようだ。
「甘いな。なぜ一度目の蹴りを手加減した」
零士の指摘に明良は唇を噛んだまま答えない。
顔は真っ青で、感情を必死で押し殺してる気がした。
零士は倒れている杏里紗からメスを奪った。バッグを調べると他に二本入っている。それらを全部集めて、ハンカチの上に並べた。
「思念放流はできるか?」
「いや、苦手です」
明良は悔しそうに告げる。
「俺も苦手だがやってみよう」
零士は集めた三本のメスを凝視しながら、拳を重ねて意識を集中する。しばらくして構えを解く。振り向いた顔から汗が噴き出していた。
「見事ですね」
明良が褒めても、ニコリともしない。
「いや、かなりてこずった。コーマはこういうのが得意なんじゃないか?」
「そうだなぁ。得意かもしれない」
「さっきは思わず甘いと言ったが、本気で杏里紗を打たなかったことに礼を言う。これでも未来の花嫁候補だから、今失うのは痛手が大きい」
零士が倒れている杏里紗の上に自分の上着を掛ける。初めて見せた優しい表情だった。
「向こうに倒れているのは誰?」
「美佐だ」
美佐さん……そういえばさっき見たときと同じドレスだ。
「どうして美佐さんが殺されたの? これも杏里紗がやったの?」
二人は樹希の問いには答えずに、考え込んでいた。沈黙に耐え切れずに、樹希はもう一度訊いた。
「ねぇ、これからどうなるの? 杏里紗は警察に逮捕されるの?」
パニックになりそうな樹希の方を向いて、明良が答えた。
「杏里紗は捕まらないよ。そうでしょう零士さん」
「ああ、こういう事案の始末は里見家のお家芸だ。すぐに掃除屋を呼ぶ」
「では、そちらはお任せします。樹希、申し訳ないけど杏里紗と一緒に、僕の家まで来てくれないか。コーマに思念干渉の経緯を見てもらう」
「いいけど、後で説明してね」
「分かった。それから零士さん、後始末が終わったら、零士さんも久我山の屋敷迄来てもらえますか。杏里紗を迎えに来て欲しい」
「いいのか? そいつは願ったりだ。八咫烏の屋敷に行けるとはついてる」
「では後で」
明良は電話で車を呼び出してから、気絶している杏里紗を抱き起した。その姿を見て樹希の胸に、小さな黒い炎が灯った。
「さあ、駐車場までこうやって杏里紗を運ぶから、杏里紗のバッグを持って、一緒に来てくれ」
樹希はすばやく杏里紗のバッグを持って、明良の前を先導する。幸いエレベータはすぐに来たので、他の客から怪しまれることはなかった。
エレベーターを降りるとセバスチャンが待っていた。気絶している杏里紗を見ても、何も言わず車まで先導した。
杏里紗を後席に運び入れ、樹希がその隣に座った。明良は助手席に座り、セバスチャンがハンドルを握った。
「コーマ様には連絡を入れました」
「ありがとうセバスチャン。里見は想像以上に本格的に準備していた」
「それで、このような事態を引き起こしたのですね」
「ああ、まさか死者が出るとは考えてなかった」
「京都でしょうか?」
「京都か、もしかしたら大阪や奈良が動いたのかもしれない」
車は外苑西通りから外苑入口で首都高速に入る。まずまずスムーズに進んでいる。その間、明良は無言で窓の外を見ながら考えている風だった。
「明良、訊いてもいい?」
樹希は遠慮がちに呼びかけた。
「何?」
「さっきのことなんだけど、やっぱり美佐さんを刺したのは杏里紗なの?」
「直接的にはそういうことになる?」
「直接的ってどういう意味?」
「文字通り、実際に刺したのは杏里紗だ」
「お願いだからもう少し分かるように話して」
樹希はいつになく真剣にお願いした。直接杏里紗がメスを振るうところ見たわけだが、まだあの杏里紗が人を殺したなんて信じられない。
「やれやれ、零士さんが来てからと思ったけど、待てないか。これは零士さんのミスなんだけどな。推測で話すのは好きじゃないけど、樹希の受けたショックを考えれば無理もないか」
樹希は明良の愚痴はまったく頭に入らなかった。ただ、早く本題に入って欲しいとそれだけを目で訴えた。
「じゃあ、詳細は零士さんが来てからね。事実だけ話すと、美佐さんを刺したのは杏里紗で間違いない。だが、杏里紗は心の隙に付け込まれて、操られたんだ。操ったのは、里見と北条が手を組むことをよく思わない、京都のご老人かその意気がかかっている連中」
今度は要点だけを抑えた至ってシンプルな説明だったが、やっぱりよく分からない。樹希は思い切って質問を再開した。
「ねぇ、今度は一つずつ教えて。まず杏里紗の心の隙って何?」
「一言で言えば嫉妬による心の不安定さのことだ」
「一言で言わないで。嫉妬って杏里紗が誰に嫉妬したの?」
「直接的な相手は殺された美佐さんだろうな。おそらく美佐さんは、零士さんのセフレ的な位置づけだったんじゃないかと思う。そして杏里紗はおそらく零士さんに抱かれている。でも零士さんは忙しいし、杏里紗は学校があるから簡単には会えない。加えてまだ中学生だから、心のコントロールがうまくできない。直接的な原因は零士さんのケア不足ということかな」
樹希は絶句した。杏里紗が零士さんに抱かれている。その言葉が頭の中で鳴り響く。
「零士さんが杏里紗を抱いたって、何で? 杏里紗はまだ中学生じゃない」
「さっき零士さんが言ってたように、杏里紗は零士さんにとって特別だったんだ。我慢できずに抱いたとしても不思議じゃない。それに一五才は戦国の世なら、嫁入りして子供だって産んでる年だ」
「うーん、少し引っ掛かるけど、無理やり理解するわ。じゃあ、操るって何? 催眠術みたいなもの?」
「うーん、樹希がイメージしてるものとは少し違うかな。これは人心掌握術の一つだ。杏里紗はまだ中学生だから、大人になるために、やらなければならないことがたくさんある。それは零士さんも十分に分かっていて、無理をしない。しかし杏里紗には大人の女として、美佐さんが零士の傍にいることを知っている。それでまだ子供である自分に対する苛立ちが、美佐さんへの憎悪としてすり替わったわけだ」
「じゃあ、明良と私はなぜ杏里紗に襲われたの?」
「おそらく自分の中の満たされない苛立ちが、同級生だが自分より大人びた樹希に向かったんだと思う。だが、いじめの効果は全く出ず、僕の出現で逆にやりこめられた。そのストレスが今回の引鉄になったのかもしれない」
「そんな……じゃあ、明良が一番悪いんじゃない。あんな挑発するように子ども扱いしたし」
樹希の非難に明良は押し黙った。車は既に首都高を降りて、一般道を走っている。上北沢も少し前に抜けた。
この沈黙に訳がある気がして、樹希も黙って窓の外を見た。辺りはすっかり都心の喧騒を離れて、住宅街になっていた。
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