第6話 初体験

 樹希は心が跳ねだすのを抑えるのに苦労した。今朝起きたとき、快晴の空を見上げて、楽しい一日が待っている予感がした。

 今日のために、杏里紗と一緒に買ってきた黒のワンピースを着て、姿見の前に立つ。首の下のフロント部分にスリットが入って、白い肌が見えるところが大人っぽい感じがして、何だか大学生に成った気分だ。

 ドレッサーの前で髪を纏める。後ろはポニーテール状に括り、前髪はジャギーに下ろす。顔の左右に一筋の髪を垂らすのに苦労した。

 母親に貰ったお気に入りのポーチに、財布と化粧直し用のセットを入れて玄関に向かう。

 黒いパンプスも杏里紗と一緒に買いに行った卸したてだ。パンプス初心者の樹希に対し、杏里紗は二、三日履いた状態でドライヤーを当てると柔らかくなると教えてくれたので、今日まで毎日実践した。


 外に出て歩いてみると、なんだか世界が変わって見える。電車に乗っても、他の乗客に見られている気がして、恥ずかしかった。六本木について、明良と待ち合わせの約束をした喫茶店の前に着くと、以前来たときとは違う妙にくすぐったい感じがした。

 変に気合を入れて来たので、待ち合わせ時間まで後十五分ある。こういうとき女性の方が先に来るのは、気合を入れてるようで恥ずかしいのかななどと、変な気を回しながら待っていると、一台の黒い高そうな車から明良が下りてきた。運転手と何か話してからドアを閉めて、こっちを向いた。


 明良は白と黒のタートルネックのアランニットの上に、紺無地のファブリックが適度な光沢感を持った薄手のジャケットを着て、ボトムスにはダークトーンのハウンドトゥース柄のノータックパンツを合わせている。ややカジュアルだが、痩身の体形にマッチして、大人びた雰囲気が出ている。

「良く似合うね」

 明良に今日の装いを褒められて、また少しテンションが上がる。

「戸鞠君も大人っぽいね」

 微かに声が掠れる。

「明良でいいよ」

「じゃあ、私も樹希と呼んで」

 脇の下がスースーする。

「会場はヒルズだったよね」

「そう、少し歩くことになるけど」

「今日送ってもらった車がそこに停まっているから、ヒルズ迄送って行ってもらおう」

「いいの?」

「ああ、遠慮はしないで」

 明良を送って来た車に乗り込むと、運転席には大柄な男が座っていた。

「セバスチャン、申し訳ないですがヒルズ迄送ってもらえますか?」

「かしこまりました」

 低くて威厳のある返事だった。

 運転手付きの車に乗るなんて、明良はもしかしたら、すごいお金持ちかもしれないと思った。考えてみれば、こんな時期に清真大付属に転入してくるなんて、通常ルートではありえない。

――先物相場の世界で連戦連勝の男!

 真智の言葉が頭を過る。


 車だとヒルズ迄はすぐに着いた。

 降り際に明良がセバスチャンと何か話していた。迎えの段取りを話しているのかもしれない。

 零士の主宰するパーティの会場は四九階だった。地上二百メートルからのパノラマに息を飲む。

 既に杏里紗は来ていた。零士の姿はない。

「杏里紗!」

「ちょっと、もう遅いよ。もうすぐ始まるよ」

「ごめん、零士さんは?」

「オープニングセレモニーで挨拶するからって、向こうに行った」

「そうか主催者だもんね」

 少しばかり明良を置いてしまっている。気分悪くしたかなと気を使って見ると、樹希たちを無視して、会場に集まった人々に目を走らせていた。

 自分など、大人の群れに気後れして、杏里紗を見つけたとたんすり寄ってしまっているのに、明良はまったく臆することなく堂々としている。こういった場所も慣れている感じだ。

 杏里紗も大したもんだ。中学生なのに、こういう場所でまったくものおじしてない。

 ハイネックのふんわりした白いブラウスは、華やかな杏里紗の顔を明るく輝かせた上、女性らしさも印象付けている。黒のラップスカートは、お揃いの布ベルトをリボンにして巻いてあるのが、粋な可愛さを演出している。

 何よりもブラウスを突き破りそうな豊かな膨らみが、ほぼ平たい胸の樹希のコンプレックスを刺激する。


 ウェルカムドリンクとしてもらったオレンジジュースを飲みながら、ステージを見る。LEDディスプレイには、『里見グループ飛翔の会』の文字が映されている。

 パーティの参加者もちゃんとした大人ばかりだ。自分たちのような子供が、参加して良かったのかと戸惑ってしまう。

「杏里紗さん」

「美佐さん!」

 美佐と呼ばれた女は、年のころ二五、六か、目の下の涙袋と猫のような目が印象的だ。くっきりした鼻筋と真っ赤なリップで飾られた唇は、さすがに大人の女は違うと思わされた。黒いドレスは起伏に富んだ身体の線を、くっきりと浮き上がらせ、それから連想される隠微な行為に、同性の樹希でさえ顔を赤らめてしまう。

「こちらの可愛らしい方と、ハンサム君はお友達?」

「そうです。中学の同級生で緒川樹希と戸鞠明良です。同じクラスなの」

「そう、杏里紗さんのお友達は素敵な方が多いのね。高木美沙です。今日は楽しみましょう」

 美佐が突き出す手を軽く握った。しっとりとして柔らかな手だった。

 続いて美佐が明良と握手する。その姿は、おそらく十才は年の差があると思われるのに、映画のように美しく映えた。

「じゃあ、私はもう少し挨拶するから」

 美佐が去った後で、樹希は我慢できずに言ってしまった。

「来てよかったね。あんな美人とお知り合いになれるなんて」

 顔を強張らせている樹希に対し、明良はくすっと笑った。

「人間関係にクールな樹希でもそういう顔をするんだ」

「何よ、どんな顔に成ってるのよ」

 嫉妬したことに気づかれた上、涼しい顔で指摘されて腹が立って来た。

「まあまあ、オープニングリマークスだよ」


 司会の女性が零士を紹介すると、ロックのリズムに乗って零士がステージに向かう。力強いビートが零士を実際以上に大きく見せる。

 ウイ・ウイル・ロック・ユーだ――スポーツの大きな大会などのテレビ中継で、よく使われているロックの名曲が流れる。樹希にも耳慣れた曲が会場の関心をステージに引き寄せる。

 壇上に立って、周囲の注目が自身に集まっていることを確認して、零士は手を上げて曲を止めた。

「私の敬愛する紳士、淑女の皆さま、本日は里見グループ飛翔の会にお集まりいただき、ありがとうございます」

 会場内に、一斉に拍手が巻き起こった。零士はその拍手を、全身に浴びるかのように微笑んでいる。

「本日の会は、里美グループがこれから挑戦する目標を、お集まりいただいた皆さまに発表し、賛同いただくことを目的としています。つきましては、不肖ながら私里見零士が、これから少しばかり皆さまの時間をお借りして、当グループの目指す姿をお話しさせていただきます」


 零士が右手を上げると、左右のモニターに『最強国家日本の創生』が映りだされた。

「皆さまは今の日本をどのようにお考えですか? 経済大国、治安優良国、民主主義国、多様性尊重国、人によってそれぞれ捉え方は違うでしょう。しかし現在の日本を取り巻く外交状況は、日本建国以来の未曽有の危機に陥っています」

 モニターが東アジアの地図に切り替わった。中国が真紅、ロシアがブラック、北朝鮮が灰色、韓国が赤紫で色分けされている。

「この状況を見てどう思いますか? 日本の周辺には友好国など一ヵ国もなく、いつ侵略戦争を仕掛けられるか分からない状態にあります。しかも韓国を除く三ヵ国は核保有国です。最早北海道や九州がいつ占拠されても決しておかしくない状況と言えます」

 再びモニターが切り替わり、アフガニスタン侵攻とチベット動乱の二文字が映し出された。

「一方、このような話をすると、反対意見として日本はアメリカが守ってくれるから大丈夫などと宣う方がいます。先年の憲法改正闘争では野党党首がテレビで『アメリカは日本を守る義務がある』と声高に叫んでいました」

 場内から失笑が漏れた。

「重要なことは、アメリカの基地があろうが、最新兵器で武装しようが、日本を取り巻く周辺国家の一撃を食い止めることはできないということです」

 今度は場内が水をうったかのように静かになった。

「核保有国は自国への直接報復がないことを熟知しています。だから、弱い国への侵攻は容赦しない。となるとどうなるか? つまりアフガンやチベットのように日本が戦場になるのです」

 誰もが零士の言葉に耳を傾けている。それだけ零士のスピーチは危機感を煽る迫力があった。

「こんなに航空機とミサイル兵器が発達しているのに、未だに日本は島国だから大丈夫などと、神話のような話を信じている人がいます。もちろん占領され国家が消滅することはないかもしれない。しかし東京にミサイルを撃ち込まれれば、政治・経済はマヒし、多くの人命が損なわれる。それは国家が消滅するのと同じダメージを受けるということです」

 会場にいる全員が零士の言葉に耳を傾けている。

「だからこそ里見グループは立ち上がります。里見グループは一企業としての利益追求を止め、国家財政の健全化に向けて支援します。こんな莫大な借金を背負った国家が強く成れるはずがありません」

 零士の言葉と同時にモニターに『日本の財政赤字一千百兆円』の文字が表示された。

「そして財政基盤を強めた後、憲法改正を支援します。使えない軍事力など持っていてもしかたない」

 モニターには憲法改正の取り組みの要旨が表示されている。

「最後に、自衛隊、いや軍の強化を図ります。私は徴兵制などという愚にもつかない政策は考えていません。軍関係者の大幅な賃金アップによる募集の強化を図ります。そしてプロの軍人になる訓練を強化します」

「私は日本を軍事国家にする気など、毛頭ございません。ただ、今日の危機的状況に直面して、最低限の抑止力が必要だと考えたわけです。里見グループはそのために総力をあげて国家を支援します。どうか皆様には今後も温かいご支援を、お願いいたします」

 里見零士の挨拶が終わると、会場内に拍手が鳴り響いた。ステージ上の零士を見ながら、樹希はその姿に興味を惹かれた。

 普通、この場面では深々とお礼をするのが一般的だと思うが、零士は胸を張って手を振っている。この傲岸不遜ともいえる姿が、会場内で見ると実に清々しい。

 零士のような人間が、今世界で求められているリーダーなのだと、理屈では説明できないが、心に深く刻まれた。

 隣では杏里紗がうっとりとして零士に見惚れている。どうやら杏里紗は、年の差が大きいにも関わらず、本気で零士のことが好きみたいだ。


 その後もパーティは大盛況だった。特別ゲストとして、防衛大臣や警察庁長官が祝辞を述べた。里見グループの人脈の広さに驚いてしまう。

 ゲストの中には明良を知っていて声を掛けてくる人が何人かいた。ほとんどが金融関係者だった。やはり明良は、母が言っていた通り裏財閥とかいう北条家の人間で、金融界の大物なのか?

 自分と同じ中学生とは思えない堂の入った対応に、母の言葉を信じかけていた。そして挨拶してくる人たちに、さりげなく自分を今日のパートナーとして紹介してくれる気遣いが、心がぎゅっと掴まれたような感じで嬉しかった。


「ホントに可愛らしい方ですね。戸鞠さんがちゃんと同年代の方といらっしゃるのを見て、嬉しく思います」

 何人目かの明良の知り合いが、明良が紹介する前に自分に気づいた。一見かなり年上で、さわやかなおじさんと言った感じだ。

「ああ、すいません。ご挨拶が遅れました。私はE&Wバンクの前澤と申します。戸鞠さんには仕事上たいへんお世話になっておりますが、なかなかお会いできなくて、今日は非公式の席上で厚かましいと思いましたが、ご挨拶させていただきました」

 最高のもてなしの笑顔を向けてくる。前澤に手渡された名刺の社名を見て、樹希はハッとした。母と同じ会社なのだ。

「丁寧なご挨拶ありがとうございます。緒川樹希です。戸鞠君とは学校の同級生で同じクラスです。あの、実は私の母もE&Wバンクなんです」

 前澤の目が一瞬鋭くなったが、すぐに元の人懐っこい目に戻る。

「そうなんですね。緒川さん、ああ、トレーダーの方ですね。お母様にはたいへんお世話に成っています。ところで、お母様には戸鞠さんを既にご紹介されていますか?」

「いいえ、まだです」

 明良の前なので、母から会いたいと言われたことは黙っていた。

「そうですか、では今後もよろしくお願いします」

 前澤は慌てて戸口の方に歩き出した。その後ろ姿をポカンとして見送っていると、クスクスと笑い声が聞こえる。

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