第2話 杏里紗の憂鬱
誰もいない自宅に戻り、杏里紗は悔しさで唇を噛んだ。
緒川樹希をいじめ始めたことには、特に明確な理由はない。意志の強さがはっきりと見て取れる凛とした顔立ちと、教師にさえ簡単には迎合しない、精神の気高さが気に障っただけだ。
少しいじめれば簡単に屈するだろうと、高をくくって始めたのだが、杏里紗たちが何をやっても効かなかった。
犬の糞を机に置くことは、杏里紗が考えに考えた末に出したものだ。
杏里紗が見たかったのは、悔しさに唇を震わせながら、犬の糞を片付ける樹希の姿だった。もし、怒りのままに杏里紗に抗議してきたらなお面白い。
だが、樹希はまったく思いもよらない行動をとった。放置である。結果愚か者の松宮が用務員に指示をして、糞を片付けさせた。糞を片付けている用務員を、見下ろしている樹希の姿はどこか高貴さが漂っていた。
孤立させても、暴力で脅しても一切屈しない強さに、知らぬ顔を決め込んでいたクラスメートも、徐々に見直し始めている。何よりも杏里紗自身が、その精神の気高さに圧倒され始めていた。このままでは杏里紗の支配力が、どんどん低下しかねない。
杏里紗が今のように成ったのは、中学に入学してからだ。
小学生の頃は自分でも素直だったと思うし、周囲からも愛されていた。
ただ母親の京子は、テレビにレギュラー番組を持つ教育評論家で、常に家を空けていた。
父親の正吾も文部科学省の官僚で夜遅くまで働き、杏里紗が起きている時間に帰宅することはほとんどなかった。たまに帰って来ても厳格な性格ゆえに、テレビ番組さえ制限されるので、むしろ帰ってこない方が良かった。
杏里紗は広い家の中で孤独を噛みしめながらも、テレビに映る母親に愛されていることを誇りにして、寂しさを紛らわせていた。
杏里紗が名門中学に入学したことから、母親としての能力の高さが証明され、京子の仕事は猛烈に忙しくなった。結果として帰りは一段と遅くなっていく。
平日杏里紗が家で起きている時間に、顔を合わせることは滅多に無くなり、父親と三人で出かける機会は消滅した。
それでも一年間は、家族がバラバラで暮らす寂しさにも耐え続けた。
杏里紗が二年生に進学した四月に、久しぶりに正吾が早く帰宅した。いつものようにデリバリーされた夕食を、特に話題もなく無言で食べていた。
沈黙の食事に耐え切れず、杏里紗は思い切って自分から話しかけた。
「今年のゴールデンウィークは、家族旅行できないかな。中学に入ってから、三人で出かけなくなったじゃない。たまには三人で一緒に居ようよ」
正吾はちらっと杏里紗を見たが、再び無言で食べ始める。何も応えてくれない父親の態度に挫けそうになったが、勇気を振り絞ってもう一度訊いてみた。
「駄目かな。普段は一人でも一生懸命頑張るから……お願い」
最後は涙が出そうになって掠れた声になった。
正吾は食べる手を止めて、再び杏里紗と目を合わせた。その目は父親とは思えないぐらい、無機質な感情を示していた。
「お前の母親は一緒に旅行など行かないよ」
「どうして、四年生のときに、一緒にハワイに行ったときは、凄い楽しかったじゃない。幸せそうなお母さんを見て、また行こうってお父さん言ってたじゃない」
「昔の話だ」
「またみんなで行けば元に戻るよ」
「もう無理なんだ」
「どうして、行ってみないと分からないじゃない」
「分かるんだ」
「何で、お父さんは私たちと一緒に行きたくないの?」
杏里紗は顔をくしゃくしゃにして泣き出したが、正吾は無表情で食べ続ける。
「もういいよ、分かったよ。お母さんがいつも遅くまで帰って来ないのはお父さんのせいだ」
自分でも酷いことを言っているのは分かっていた。しかし自分を抑えることができなかった。正吾は黙って聞いていたが、杏里紗が泣きはらした目で睨むことに耐え切れなくなって、低い声で話し始めた。
「お母さんはもうお父さんのことが好きじゃないんだ。他に好きな人がいて、今はその人と食事でもしているんだろう。だからもう三人でどっかに行くことはないよ」
杏里紗の涙が止まった。あまりにショックが大きいと、人は感じることを止める。父の言葉が心に深く突き刺さったまま、言葉を失った。
次の日、杏里紗は学校から帰ると、母親の所属する事務所に向かった。父が言った今の京子が好きな人が本当にいるのか確かめたかったからだ。
もちろん事務所に行ってもその人に会えるわけではないが、母の職場は一度だけ連れて行ってもらったこの事務所しか知らなかったからだ。
杏里紗は辛抱強く、いつ出てくるか分からない母を、事務所の外でじっと待った。お腹が空いてめまいがしそうに成っても、何も食べずに待ち続けた。
それはほんの偶然だった。この偶然がなければ、杏里紗は今の杏里紗ではなかったかもしれない。
京子は父親よりも少し年上の男と、腕を組んで事務所から出て来た。躰を動物的にくねらせ、上目使いに媚びる様子は、テレビで視る凛とした母の姿ではなかった。
男は事務所の社長の
それは意図的ではなかった。身体が別の力で押し出されたような気がした。突然目の前に現れた娘の姿に、京子の媚態が止まった。
「お母さん、もう仕事は終わったの?」
終わってないとは言わせない強い意志が、杏里紗の目には宿っていた。それでも、何か言いかけた京子を制し、大城が言った。
「おや、娘さんが迎えに来たのか。杏里紗ちゃんだったかな。お母さんに似て美人だね。お母さんはちょうど今、仕事が終わったところで、一緒に食事に行こうとしてたんだ。杏里紗ちゃんも一緒にどうだい」
大城の悪く言えばふてぶてしい、良く言えば大人の対応に、京子は不満気だったが、口には出さなかった。
杏里紗はこの提案に憎らしさを覚えながらも、今を逃すとまた偶然会える機会がないことを恐れた。結果として首を縦に振る。
三人はタクシーに乗り込み、六本木に向かう。車中では大城が次々に話題を繰り出す中、京子は機嫌悪そうに終始無言で通し、杏里紗が機械的にイエスノーを繰り返した。
タクシーは六本木交差点を抜け、飯倉交差点の手前で左折したところで停まった。降りると、すぐそこにレストランの入り口があった。
大城が受付で予約を告げると、リザーブした席に案内された。ハイソな雰囲気の店内には、ジャズバラードが程よい音量で流れ、心がリラックスする。
「何を飲む?」
テキパキとオーダーを済ませた大城は、最後に杏里紗の飲み物を確認した。二人はワインをオーダーしたようだ。
「ジンジャエールを」
杏里紗は普段飲み慣れない辛口のソフトドリンクをオーダーした。
運ばれてくる料理は素晴らしかった。前菜で出て来た白身魚のカルパッチョは、ヴァルサミコの甘酸っぱいジュレと、香り高い香草を合わせた、味だけではなく見た目も美しい一品だった。
メインの牛テールの赤ワインの煮込みは、トロトロに仕上げられた肉と、ソースに添えられた、滑らかな舌触りジャガイモのムースリーヌが、絶妙のマッチングを味合わせてくれる。
杏里紗はデリバリーの夕食を孤独に食べている自分に比べて、こんなところで旨い料理を食べている京子に、ムラムラと怒りが湧いてきた。
「いい気なもんね。私はいつも一人で寂しい夕食なのに、自分はこんな場所でご馳走を食べてるなんて、ホントに嫌に成っちゃう。この実態をマスコミに流したいぐらいだわ」
京子は杏里紗の嫌味に露骨に顔をしかめただけで何も言わない。代わりに大城が苦笑しながら話し始めた。
「杏里紗ちゃん、お母さんは油断するとすぐに足元を救われる厳しい世界で、生き残るために毎日頑張っているんだ。このぐらいの息抜きは許してあげてよ」
さも最もらしいことを言う大城に、杏里紗は猛然と腹が立って来た。
「それも全部自分のためでしょう。それなのに教育のことを語るなんて大ウソつきじゃない」
「杏里紗!」
京子は眉を吊り上げて杏里紗を睨んだ。逆切れしないでよと、言い返したかったが、店の中で大城もいるので、それ以上言えなかった。
デザートも素晴らしかったが、怒りで満足に味合うことができなかった。
食事が終わって、店を出ると京子が冷たい眼で杏里紗を見ながら言った。
「タクシー代あげるから一人で帰りなさい」
母親の務めを放棄したような京子の態度に、杏里紗は絶句した。ショックで今にも泣きだしそうな杏里紗を見て、大城が京子に言った。
「まあまあ、打ち合わせは今度でいいじゃないか。せっかく杏里紗ちゃんが来たんだから、今夜は帰りなさい」
口調は穏やかだが、目には反論を許さない厳しさが出ていた。今度は京子が泣きそうな顔をした。
「分かったわ。今日は帰る」
二人で大城が捉まえたタクシーに乗り込んだ。京子はおもちゃを取り上げられた子供のように、露骨に憮然としている。
「そんなにあの人と一緒にいたかったの? 私よりも大切なの?」
杏里紗は非難めいた口調で言った。
「そうよ。悪い」
もはや京子は自分の不倫を隠そうともしない。
「それなら、どうしてお父さんと一緒に暮らしてるの?」
杏里紗は一縷の望みを込めて、京子に訊いた。しかし返って来た答えは、杏里紗が期待するものではなかった。
「仕事のためよ。私は離婚して家庭を壊すわけにはいかないの」
「お父さんが可哀そう」
「何が――。あの人だって、官僚として離婚するわけにはいかないの。出世のこと考えて一緒に居るんだからお互い様よ!」
それから杏里紗は一言も口を利かなかった。ずっと窓の外を見ているだけだった。もう泣く気力さえ起きない。この日からずっと杏里紗の心は壊れている。
今日一日の悔しい記憶を振り返る中で、何度も戸鞠明良の顔が思い浮かんだ。転校してきたときから気に成っていた。クラスの男子にはない大人びた雰囲気、何事にも屈しない気高い精神、頭が良い上にルックスは申し分なかった。
女子中学生が恋するには、非の打ちどころがない完璧な男だが、話しかける隙がない男でもあった。孤高の雰囲気を常に携え、話しかけることに
それが、こともあろうか樹希とペアで写生していた。杏里紗が手をまわして樹希を孤立させていたことが原因だが、二人が仲良く見つめ合って写生している姿は杏里紗の嫉妬を掻きたてた。
気高い精神を持った二人は、理想のカップルのように見えた。自分だけでなく、あの教室にいた全員がそう思ったはずだ。
できることなら自分が樹希の位置にいたかった。ルックスだけなら自分は樹希に勝ってるはずだ。
ただ、自分にはその資格はない。それは分かっている。明良だけではなく、この先他の誰と出会っても、それは間違いなかった。
だから明良の存在が憎かった。樹希に輝きを与え、結果的にあの女を虐めている自分を貶めたからだ。
だから進藤たちに襲わせた。四人相手なら勝てると踏んだからだが、結果は燦燦たるものだった。明良に傷一つ負わすこともできず、四人とも戦闘不能になった。
もしこれが十人で襲ったとしても、結果は同じだった気がする。それ程明良の力は圧倒的だった。
そして、最後にとどめを刺された。
今後明良に干渉すれば、心を痛めつけると言われた。
何をされるのか分からないが、その言葉を発したときの明良の全身から、総毛立つような恐怖を感じて、思わず頷いてしまった。
その言葉は時間が経った今でも、薄れぬことなく心に焼き付けられている。
持続する恐怖、永久的な恐怖と言ったものが、現実に存在することを思い知らされる。
もう、明良に手出しすることは、頭が命じても身体が拒否するだろう。
杏里紗の怒りの矛先は、再び樹希に向いた。あの女だけでも貶めて、できれば自分と同じみじめな存在に追い込みたかった。
だが、中学生レベルの半端ないじめでは、あの女の孤高の精神は一切揺るぎはしない。
もっと、凶悪で残忍で力を持った存在が必要だった。
こうなれば嫌ではあったがあの男に頼むしかない。この世の悪意と残忍さと、全てを従わせる強さを持ったあの男を……
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