八咫烏の棲む屋敷
ヨーイチロー
境界
第1話 転校生
久我山駅の外はどんよりとした世界が広がっていた。
雲が多くて暗い空は、通勤に向かう人々の姿を灰掛かった色に変える。
今朝は特に身体が重い。鉛の靴を履いているかのように足を上げるのが苦痛だ。つま先が上がらず地面に引っ掛けて転びそうになる。
久我山駅から学校までの僅か十分の通学路が、
空手で「息吹」と呼ばれる逆腹式呼吸だ。
小学四年生のときから、もう七年間空手を続けている。
苦しいときや、逆に調子が良くて浮かれているときに、樹希はいつも息吹を行う。
――私は何も悪いことをしていない。胸を張って登校するんだ!
樹希は十五才らしく溌溂とした顔でまっすぐ前を向き、確かな足取りで歩き出した。
学校に着いても特に挨拶をする友達はいない。みんな樹希へのいじめが始まると、関り合いになるのが怖くて離れていった。
敢えて引き留めようとは思わない。
その方が樹希にとっても楽だったから。
正義感を燃やしていじめに反発した者が、ドラマや映画のように自分のせいで泣くことの方が苦痛だった。
無言で教室に入る。自分の席に近づくにつれて、異臭がした。
机の上に糞が置いてあった。
まったく呆れるほど幼稚な手口だ。
目の端で自分の様子をニヤニヤしながら見ている、
まったく早起きして後生大事にこんなものを持ってきて、自分の机に置く。
その執念には頭が下がる。
きっと自分が半狂乱になって叫びながら、慌てて糞の始末をする姿を想像して頑張ったのだろう。
樹希は椅子を引いて、その上に何のしかけもないことを確認すると、無造作にどかっと座った。
とてもじゃないが、杏里紗たちの期待に応える気には成れなかった。
少々臭うが、このままにしておくことにした。教師の反応はだいたい予想できるが……
糞を放置している樹希の姿に、教室内が少々どよめいてきた。糞の臭気に周りの子も辛そうだ。だが、関わり合いに成ることが怖いため、誰も何も言って来ない。
待つこと十分、やっとホームルームの時間になって担任の
松宮は教壇に立って、微かな異臭とクラスのざわめきに気づき、目を凝らして様子を探った。すぐに樹希の机上の異変に気付き、視線が止まった。
何とも情けない目で、じっと樹希の顔を見つめる。
松宮は既に教職二十年のベテランだ。樹希が虐められていることには、もちろん気づいている。
同時にこの問題への下手な介入が、自分の教師人生を脅かすこともよく知っていた。だからほとんど見て見ぬふりをして過ごしている。
それでも糞を放置したまま授業に入るわけにはいかない。松宮は困った顔はそのままに、その重い口をようやく開いた。
「緒川さん、その机の上のものは何だね?」
「見て分かりませんか? 糞です。おそらく犬の糞だと思います」
「そんなことは見たら分かる。どうして糞を置いたままにしているんだ」
松宮は予想外の答えに多少苛立ちが籠っていた。
「なぜ、私が対応しなければいけないんですか? 私はこの糞をどうにかする前に、なぜこれが私の机に置いてあるのか、先生に問われたいと思っているんですが……」
松宮は必至で動揺を隠していた。
樹希の誘いに乗って犯人捜しを始めれば泥沼に嵌る。
貴重な授業時間を削るような事態に成れば、自分の責任も問われることは必至だ。
懸命に考えた末に、行きついた結論には樹希も唖然とした。
「用務員さんを呼んでくる。ちょっと待っていてくれ」
そう言い捨てて教室から出て行ってしまった。
どうなるのか、好奇心をむき出しにして松宮の行動を見守っていた生徒たちは、あっけにとられた顔で、その後姿を目で追った。
三分もしないうちに、ビニール袋とトイレットペーパーなどの用具を持った用務員の原口さんと一緒に、松宮は戻って来た。
樹希の机を指さして、原口さんに糞の始末を指示している。
原口さんは何も言わず、黙々と糞の処理をした。ビニール袋に問題のそれを収め、ご丁寧に除菌シートで机の上を何度も拭いてくれた。
その間中、樹希は立ち上がって腕組みをして、原口さんの手際の良い作業を見下ろしていた。
一七〇センチ近い長身の樹希のその姿は、まるで主人が使用人の働きを監視しているようにも見えた。
糞の処理が終わると、原口さんはそそくさと教室を出て行き、松宮はこの事態の原因を一切問うことなく出席を取り始め、それが終わると何事もなかったかのように出て行った。
またもやどっと疲れが出てきた。
ワクワクしながら仕掛けたいじめが、あっさりとかわされて、頭に来た杏里紗たちの次の行動を思うとうんざりしたからだ。
前はもっと直接的な攻撃だった。最初はトイレに入っていると騒がしい気配がしたので、ドアを思い切って開けると、水を満載したバケツを持った杏里紗の取り巻きが、ドアにぶつかってひっくり返った。持っていたバケツの水がかかって、制服が水浸しになっている。
どうやらテレビドラマのように、水を頭の上からかけようとしたらしい。
次のときには、杏里紗の取り巻きの男が、樹希に向かって暴力的な行動を起こした。樹希の髪を掴んで引傷りまわそうとしたので、髪を掴まれた瞬間にスマホで連射撮影した。けたたましいシャッター音で、男は思わず手を離した。
「この写真をネットにあげてもいいし、警察に暴行罪で訴えてもいいよ」
樹希の迫力ある脅しは、お坊ちゃま学校の中学生には震えあがるほどの効果があった。それ以来、直接的ないじめはなくなった。
普通ならこれで樹希の相手をする人間はいなくなるはずだったが、杏里紗は執拗だった。ときに根負けするほど陰湿な手段が続いた。
靴を捨てられて、上履きで帰ったこともあった。
それでも次やったら、窃盗罪として警察に訴える、見て見ぬふりをする者も同罪だと、教室に張り紙をした。
樹希の中学生とは思えない断固たる意志と行動力に負けて、だんだんとやることが幼稚に成って行った。
そしてついに、こんなくだらない手段に訴えてきたわけだ。
まあいい。そんなことをしても無駄なことが分かったら、もう同じことは二度としないだろう。これは一種の根競べだ。根をあげた方が負ける。
自分がこんな酷い目に遭ってるのに、見て見ぬふりをする教師の冷たさは愚かしさすら感じる。
テレビのニュース番組などで、自殺者が出るようないじめが取り上げられると、必ず教師がインタビューされて、判で押したように学校側は知らなかったとか、そんな事実はないなどと口先のごまかしをして、余計に叩かれる。
――松宮は、私が自殺してインタビューされることを、まったく考えたことはないのだろうか?
人にものを教える立場としては、驚くべき想像力の欠如だ。
ただ、人間は解決できない難問にぶち当たると、後送りにしたくなる傾向があるのは確かだ。松宮の気持ちも分からないでもない。
ましてや、こんな名門校の教師である以上、極端な保身に走るのも仕方ない。
樹希自身、母の真智との間のトラブルは、こんないじめ以上に苦痛だった。
元々樹希は中学受験する気はなかった。仲の良かった香苗や郁美と一緒に、地元の公立中学に進学する気でいたのだ。
今の学校に進んだのも、真智が会社の同僚から勧められてその気になったのだが、樹希は何となく気が進まなかった。
そんな樹希に対し、真智はいつものように強引だった。
真智は娘のためになると思えば、例え本人が嫌がっていても、母の勤めとばかり強引に推し進める。
そんな母が嫌いではないので、受験してしまった。
落ちれば今の悩みはなかったのだが、合格してしまう地頭の良さが樹希にはあった。
いざ入学となって、学費の高さに再び樹希は驚いた。
樹希の家は、私立に行けるほど裕福ではない。
外資系銀行で働く真智は、同世代の女性に比べれば、給料も高い方だがそれでもシングルインカムだ。マンションのローンだってまだ払い終えてない。
真智は笑って、子供はそんなことを気にすることはないと言ったが、樹希的にはこんな学費を払うよりも、自分の小遣いを上げて欲しかった。
もちろん言い出せないが……
樹希は真智の生き様が嫌いではない。
樹希がまだ五才のときに、父の貞夫の浮気が発覚して真智は離婚を決意した。
相手の女性は、樹希がまだ真智のお腹の中にいるときに貞夫と関係し、発覚当時は関係も五年目になっていた。
真智は貞夫に怒ったわけではなく、相手の女性に同情した。まだ若いのに五年もの長い期間、ずっとこんな男に身を捧げて可哀そうだと言うのだ。
それ以来樹希はずっと貞夫とは会ってなかったが、中学に進学したときに一度だけ家の近くで会った。
中学生に成った娘の姿を見て、思わず涙ぐんでしまう気弱で優しい父だった。
その姿を見て、真智の強くてあくまでも前進する姿勢に、ついて行くのは苦痛だったのだと想像した。今一緒に暮らしている女性は、貞夫よりも年下らしいがきっと優しい人なんだろう。
父の頬を伝わる涙を見ながら、本当のところは真智と別れて良かったのだと、樹希は他人ごとのように感じてしまった。
そんな気弱な父をぶった切った母は、人生の勝ち組を驀進している。外資系銀行で男と対等に張り合い、娘は誰でも聞いたことのあるブランド校に入れ、たまには酒を飲んで帰りが遅くなったりする。
そんな真智に今の状況を相談すれば、すぐさま学校に怒鳴り込み、教師や同級生の親を相手に戦争を始めるか、いじめられるような不甲斐ない娘に喝を入れるか、どっちに転んでもありがたくない結果が目に浮かぶ。
だから、樹希は真智には相談しない。
売店で買ったパンを食べながら、午後一番の美術の授業が人物画の写生であることを思い出して、樹希はすこしばかり憂鬱な思いでいた。杏里紗の報復を恐れて、誰も樹希とペアを組もうとはしない。
それ自体は平気なのだが、結局教師が無理やり二人組の中に割り込ませて、迷惑そうな人たちと三人組で写生をすることに成る。そういう思いの中にいることは苦痛だった。
気が乗らないまま、次の授業の予鈴が鳴る。写生用の道具を持って、みんなの後をぞろぞろと歩いて美術室に向かう。
授業が始まると、予想通りペア作りが始まった。樹希の周りには初めから誰も座っていない。次々とペアが出来上がる中で、憮然としながら座っていると、一人の男子が近寄って来た。
「緒川さん、ペアがいないなら、僕と組んでくれるかな?」
自分にペアを申し込むなんて、おめでたい奴がいるもんだと思いながら顔を上げると、そこには息を飲むほど美しい顔をした男子がいた。
「戸鞠君……」
それはつい最近転校して来た
すぐに学校が喜んで迎えるぐらい、お金持ちの家とか成績が相当優秀とかいろいろな噂が流れ、クラス全員が注目した。
転校初日から噂の効果とルックスの良さがあって、友達に成ろうと男女を問わず大勢が声をかけたが、明良は誰にも打ち解けなかった。
いつも一人でいて、休み時間も独りでタブレットに向かっている。驚くことに二学期の中間テストでは、転校したてにも関わらず五百点満点とパーフェクトな結果を残し、職員室の前に張り出されたランキング表には、二位以下を突き放した断トツの一位で、彼の優秀さがアピールされた。
抜群の頭の良さと誰とも交わろうとしないクールさが相乗効果に成り、どこか他人を馬鹿にして見下しているように思え、今では誰も近寄れない存在に成っている。
そんな明良が自ら樹希に声を掛けてきた。
「いいかな」
言い終わらないうちに、明良が向かいの席に座る。樹希は後追いでうんと頷いてから、これじゃあ私が意識してるみたいじゃないと思って、脇の下を冷たく感じた。
そんな樹希の葛藤を全く気にすることなく、明良は黙々と写生をしている。時折樹希の顔をじっと見つめるのが気に成って、樹希の方はまったく捗らない。
時間だけが待ったなしで過ぎていく中で、ついに樹希も雑念を捨てて鉛筆を走らせ始めた。考えてみればこれほど綺麗な顔を、じっと見つめるチャンスはそうはない。開き直ってそう思うと、鉛筆を握る手に力が入る。
一通り描き終わった頃、明良は自分の顔を描いていてどう思ったのか、どうしようもなく訊きたくなった。
とは言え、あからさまに訊くわけにもいかず、せめて明良の描く自分の顔を見て、自分に対する思いを推し測ろうとした。
「ねぇ、どのくらい描けた?」
「もう少しで完成する」
明良は樹希の顔を見ようともしないで、一心不乱に手を動かしている。
しばらくじっと我慢していたが、明良の手が止まったところで、思い切って訊いてみた。
「見てもいい?」
樹希はあくまでもさりげなく訊いたつもりだが、声が裏返ってしまった。
「いいよ」
明良は無造作にスケッチブックを渡す。
不思議な絵だった。瑞樹はシュッとした綺麗な顎だが、デフォルメされて、三日月形に尖って描かれていた。鼻も横幅が小さくて高さもあるが、その絵の中ではピノキオのようにツンと尖っていた。目も細めのアーモンド形でクールな印象だが、吊り目に描かれていてきつそうに見える。
それでも全体的なバランスは調和していて、樹希の強気で芯の強い性格が滲み出ていた。
「私の顔ってこんな風に見えるの?」
明良は樹希からスケッチブックを受け取り、自分の絵を見ながら、「ああ」と一言だけ発した。
強い視線を感じて、横目で視線の出元を探ると、杏里紗が凄い形相でこっちを睨んでいた。わざと気づかぬふりをして、明良に小声で囁いた。
「私の状況知ってるでしょう? 後で嫌なことされるかもしれないよ」
樹希の忠告に、明良は鼻で笑った。
「僕の心配より自分の心配をしたら」
そう答えることは分かっていたような気がする。明良は自分たちとは、別の次元に存在してるように感じた。
「でもあなたは男だから、暴力的な手段で来るかもしれないわよ」
「だから自分のことを心配しな」
感じた通りだ。別の次元にいる。樹希は明良を心配するなど無駄なことだと思い、窓の外を見た。朝はあんなにどんよりしていたのに、太陽が顔を出して世界が輝やき始めていた。
六限目が終わり、杏里紗と取り巻きの男たちが、帰路についた明良の後を追う。心配になった樹希は、夢中でその後を追った。
下駄箱で下足に履き替えた明良は、なぜか校門に向かわずに、プールと体育館の間にある、人気の少ない場所に向かった。その後を杏里紗たちがついて行く。そして樹希が目立たぬようにその後に続いた。
人の姿がほとんど見えなくなったところで、明良が振り向いた。
「何か僕に用かな?」
やはり明良は杏里紗たちに気づいて誘い込んだのだ。樹希は体育館の壁の後ろに隠れて、そっと成り行きを見守った。
「俺たちの用件は分かっているだろう」
杏里紗の取り巻きのリーダー格である進藤が、ありったけの凄味を利かせて答えた。男は進藤を合わせて四人いるので、人数を頼んでの威圧だ。杏里紗と取り巻きの二人の女はニヤニヤ笑いながら見ている。
「まったく思い当たることはないけど」
涼しい顔で明良が答えると、言い訳でもすると考えていたのか、進藤は次の言葉が出てこない。
「美術で緒川とペアを組んだだろう。おまけに楽しそうに話してた。それが問題なんだよ」
杏里紗の取り巻きの一人の歩美が声を振り絞った。顔も力の限り厳しい表情を作っている。
あからさまに言ってくるとは思っていなかったのか、明良はくすっと笑った。
「でっ、どうするの?」
明良はあくまで自然体だ。
「警告だ。二度と緒川とペアを組むな。明日学校で会っても無視しろ」
やっと進藤が用意していたと思われる要求を口にした。そのやり取りが何となく漫画チックに感じて、緊迫した場面にも関わらず樹希はあやうく吹き出しそうになった。
「納得できないなぁ。なんでそんなことしてるの?」
飄々とした明良の態度に進藤が切れた。
「素直に分かったと言えよ」
進藤はどこで覚えたのか、上目遣いに明良を睨みながら言った。
「素直だから訊いてるんだよ」
明良は二、三歩前に出て、進藤が掴みかかれるぐらいまで距離を縮める。虚を突かれた進藤は、夢中で明良に掴みかかるが、どうしたのか分からないが身体が宙を浮いて、明良の背後の地面に叩きつけられた。
その場の全員が、何が起きたのか分からないまま、立ちすくむ。進藤が背中の痛みを堪えながら叫ぶ。
「全員でやれ!」
進藤の叫びに呼応して、残りの三人が一斉に明良に掴みかかる。だが、手を触れることもなく、三人とも宙に浮いて、明良の背後と左右の三方の地面に叩きつけられた。
相当痛いようで、四人とも起き上がれない。あるいは理由の分からない結果に、戦意を喪失したのかもしれない。四人とも粋がってはいるが、根はお坊ちゃま学校の生徒だから、強い相手と喧嘩したことはないのだろう。
頼みの男たちが簡単に叩き伏せられて、取り巻きの二人は怯んだが、杏里紗だけはまだ強気の顔で、明良を睨みつけている。
明良は杏里紗の方に近寄って行った。
「何だよ」
杏里紗が精いっぱいの声で、明良を威嚇する。
「いや、なんでそんなに緒川さんに絡むのかなと思って――」
明良が軽い口調で理由を尋ねたが、杏里紗は口をへの字に結んで、睨みつけたまま答えない。
「まあ、いいか。僕は僕がすることに干渉されなければ文句はないから。ただ、これは僕からの警告だけど、次は君たちが大変なことになるよ。心の痛みは、体の痛みの比じゃないからね」
そのとき樹希には、明良の全身から黒い妖気が見えたような気がした。
気の強い杏里紗が強張った表情で頷いている。
「じゃあね」
明良は杏里紗たちを放って、樹希の隠れている方向に近づいて来る。樹希とすれ違ったとき、目があったが特に言葉はなかった。
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