第3話 魔性の男
杏里紗は霞町の交差点で男を待っていた。その男の名は
杏里紗にとって初めての男であり、一生消えない刻印を刻み付けられた男だ。
見た目は三十少し手前ぐらいだろうか、実年齢はもっと上かもしれない。中学生の杏里紗には、二十才を超えた男の正確な年齢は分からない。
大城と三人で食事に行った日から、杏里紗の心は少しずつ壊れていき、母が夢中になる大人の男がどういうものか、知りたくてたまらなくなった。
京子に似てハーフっぽい顔立ちの杏里紗は、身長も一六五センチで躰も大人っぽく成長している。私服に着替えて化粧をすれば、大学生でも通用するような女に変身する。
毎日学校が終わるとすぐに帰宅し、私服に着替えて化粧をして、渋谷に向かった。最初は公園通りやセンター街の路上で、高年齢の男に絞って物欲しそうな目で誘ったが、意に反して声をかけてくるのは、キャバクラやAVのスカウトばかりだった。
杏里紗は京子がつきあっていた大城のような男を知りたかった。自分に夢中にさせて、そいつの人生が壊れるくらい翻弄したかった。それが自分を道具としか見ない母親への復讐だと思ったのだ。
思いとは裏腹に成果が全く出ない日が続く。
それでも杏里紗は渋谷に通い続けた。
すると男の代わりに女の友達ができた。友達の名はサキ。杏里紗と同じ年の女の子だった。彼女は杏里紗の話を聞いて、ここではダメだと言った。ある程度年食った男は路上でナンパはしない。
杏里紗が、どこならそういう男が声をかけてくるのか、と訊いたら、やはり酒場がいいと教えられた。特にセンター街入り口にある英国風パブなら、座って飲んでるだけで、声を掛けてくる男はたくさんいるということだった。
サキが一緒に行ってくれるというので、不安ではあったが思い切って行ってみた。
そこで杏里紗は初めて飲酒をした。キューバリブレと言う名のカクテルだった。飲んでみると甘い感じで、コーラと変わらないと思った。これなら大丈夫と思った瞬間、胃の中で爆発が起きた。
顔に血が上って来るのが分かる。
かなり胸が焼ける感じがしたが、気分は良く成った。
立て続けにお代わりして三杯目を飲んだとき、建物が回っているように感じた。
そこへスーツを着た若い男が声を掛けてきた。
横目でサキを見ると、ちょっと前からラッパー風の男が隣に座って、二人で盛り上がっている。邪魔しちゃ悪いと思って、自分もこの男と話す練習をしようと思った。
男の話は面白かった。
マカオでカジノに入った話、フィジーでダイビングをしてサンゴ礁を見た話、タイで女だと思って席に呼んだダンサーが実は男だった話、どの話も、両親がろくに旅行に連れて行ってくれなかった杏里紗にとって、初めて聞く異国の世界だった。
酔いも手伝って最初の目的を忘れ、杏里紗は男の話に夢中になった。男の手がだんだんと杏里紗の躰に伸びて行き、肩や背中に触れ始めたが、話のアクセントだと思って気に成らなかった。
男に店を出て飲みなおそうと言われたときも、初めて飲んだ酒の力でブレーキが掛からなかった。
隣を見るとサキと目が合い、まだここで飲むから行ってきなと言われた。
立ち上がると思いのほか身体の自由が利かない。男の肩を借りてふらふらしながら店を出た。
男は力強い足取りでふらつく杏里紗を支えながら、センター街を奥の方に進んで行く。
途中で交番がある三差路に出たところで、左のやや細い道に入った。そこを更に進んで行くと、怪しいネオンでいっぱいの場所に出た。
『ホテル』という三文字がやたらと目につく。
男は、もうフラフラだから静かなところで休んで、元気になったらまた飲もうと言った。意味が分からないまま頷くと、男が手を引っ張って建物の中に入ろうとする。男の邪悪な意図に気づき、「嫌だ」と言って立ち止まると、更に男の手が強まった。
足に力を込めて踏ん張ると、突然抱き寄せられて強引にキスをされた。男のヌメっとした唇の感触が気持ち悪かった。
男が唇を離して、もう一度ホテルの中に入ろうとするので、「お願いやめて」と叫んだ。男の力が更に強くなって、今度は恐怖心が生まれた。
「おい、離してやんなよ」
突然背後から男の声がした。引きずり込もうとする男の手が止まったので、後ろを振り向くと、カーキ色のコットンパンツにストライプのロングTシャツを着た、目の前の男よりやや年上に見える男が立っていた。
「なんだ、お前は関係ないだろう」
目の前の男は不満そうに叫んだ。
「どう見たって嫌がってるじゃないか。それに相手は子供だ。そこに入ったら犯罪だぞ」
後ろの男の声は低くて力強かった。
「ちぇっ」
目の前の男は舌打ちをして去って行った。杏里紗は酔いと安堵で力が抜けて、その場に座り込んだ。
「お前もさっさと立って、帰らないと警察に補導されるぞ」
男が笑いながら、杏里紗を見下ろした。
「助けてくれてありがとう、手を貸して」
杏里紗が手を伸ばすと、男はその手を握って軽々と引き起こしてくれた。引き起こしてくれたとき、男から大城と同じ匂いがした。
「さあ、さっさと帰れ」
男が立ち去ろうとした。
「道が分からない」
それは本当だった。今自分がどこにいるのかさえ、よく分からなかった。
「この道を真っ直ぐ行ったら、道玄坂に出る。そこで左に曲がったら駅だ」
「嫌だ、ここを一人で歩きたくない。連れて行って」
「お前なぁ」
男は迷惑そうな顔をしたが、今にも泣き出しそうな杏里紗の顔を見て、困ったような情けない顔をした。
「やれやれ、道玄坂までだぞ」
男が歩き出したので、杏里紗は急いでその後を追った。
「ねぇ、名前はなんて言うの? 私は及川杏里紗」
男は横目でじろっと睨んだが、特に拒否もせず教えてくれた。
「
「零士さんね。私は杏里紗って呼んで」
「二度と会うことはないな」
「そんなこと言わないで、私お母さんに似て美人でしょう」
零士は立ち止まって杏里紗の顔を見た。しばらく見てから、杏里紗の顔に街灯が当たるように位置を変えた。
「お前、もしかして及川京子の娘か?」
「そうよ、お前じゃなくて杏里紗と呼んでね」
「売れっ子教育評論家の娘が、なんでこんなところで非行少女してるんだ。父親は確か文部科学省の官僚だろう」
「非行しててもいいじゃない。うちなんか実態はめちゃくちゃだよ。母親は男作って帰って来ないし、父親はそれを知ってても、出世のために放置してるし」
「ふーん、それでぐれたってわけだ」
「ぐれたわけじゃない。母親が娘より大事に思ってる男ってのが、どんなものなのか知りたかっただけ。できれば男たちの人生を無茶苦茶にしてやりたい」
「及川京子はさっきぐらいの若い奴とできてるのか?」
「ううん、もっと年取ってる。四十才超えてるかなぁ。本当はそのぐらいのおじさんが狙いだったんだけど、なぜかああいう、若くて軽い奴しか声を掛けてこなかったんだ」
「どこで知り合ったんだ。援交系の出会いサイトか?」
「ううん、パブで出会った。出会い系は嫌だ。もっとちゃんとしたおじさんで、紳士的な癖に女に手を出す奴を、懲らしめてやりたい」
「お前、屈折してるな」
零士は爽やかそうな雰囲気はそのままに、呆れたような表情で杏里紗を見た。
「お前じゃなくて、杏里紗だって」
「ふん、じゃあ杏里紗、教えておいてやる。そういう親父はお前みたいなガキには、絶対手を出してこない。お前からは処女の青臭い匂いがプンプンする。どんなに着飾って化粧をしても、その匂いがする限りちゃんとした親父は寄って来ないと思え」
「失礼ね。私のどこが臭いのよ」
「そこで怒るところだ。まあ、いろいろあるんだろうが、もっと酷いことは世の中にはいっぱいある。まだ飯食えて、帰って寝る家があるだけお前はましな方だ」
零士は苦笑しながら、優しく諭してくれた。
大人はそういう風に考えるのかと、杏里紗は不思議に思った。細いホテル街の道が終わり、道玄坂に続く大きな通りに出た。
「じゃあ、さっさと帰れよ」
ありがとうと言おうとしたとき、零士を呼ぶ声がした。
「零士ー、なんでまだここにいるの、早く行こうよ」
杏里紗が振り向くと、巻き髪で、身体の線がくっきりと出るワンピースを着た、若い女が立っていた。黒目と目の下の涙袋がやたら大きくて、目が猫のようだ。唇は真っ赤なリップで彩られ、鼻筋がくっきりしている派手な女だった。
「美佐か、ちょっと面倒に巻き込まれたんだが、もう終わったから行こう」
美佐と呼ばれた女は、嬉しそうに零士の腕に腕を絡ませる。自分のことはやっかいごとで、しかももう終わったと言われて、杏里紗はカーッとなった。
「ちょっと待ってよ零士、私帰るなんて言ってないわよ」
「あら、この子何?」
美佐が珍しい動物でも観るように、杏里紗の顔をじろじろ見た。
「かまうな、もう関係ない。さっさと行くぞ」
「関係ないってことはないでしょう。私も行く」
杏里紗が零士の前に立ち塞がった。
「もうこれ以上、俺に付きまとうな。これ以上関わると今の平和な暮らしに戻れなくなるぞ」
一瞬杏里紗の背中に冷たい空気が流れた。さっきまでと、零士の雰囲気が一変したのだ。杏里紗の本能がもう帰った方がいいと告げている。
「別に戻れなくてもいいわ」
本能に意地が勝ってしまった。そのときの零士の顔は般若に見えた。
「いいだろう。お前が勝手に決めたことだ」
「ちょっと、まだ子供だよ。しかも素人の……」
「自分で決めたんだ。年は関係ない」
零士は道玄坂下の交差点に向かって歩き出した。
交差点から文化村通りに入る辺りで、杏里紗の心臓は、不安で大きく動悸が乱れた。何度も立ち止まって家に戻りたくなったが、歩みを止めることができない。何か不思議な力に引き寄せられるように、零士の後をついて行った。
零士と美佐は通り沿いの雑居ビルの前で立ち止まり、エレベーターに乗り込んだ。これに乗ってしまったら、おそらくもう逃げることはできない。
「いいのか?」
零士が最後の確認をする。
杏里紗は意志とは無関係に同意の印として頷いていた。
零士が最上階である九階のボタンを押し、扉が閉まりゴンドラが動き始めた。九階に着くと、受付が在り黒いスーツを着た男が数人待機していた。
「お待ちしていました」
黒服の男の一人が零士と美佐に挨拶をする。
「そちらは?」
杏里紗の存在に気づいて、零士に確認する。
「今日のスペシャルゲストだ」
零士が自分の連れだと紹介する。
「かしこまりました」
零士は信用されているのか、あっさりと入室を認められた。
部屋は暗幕で閉ざされ、奥にはステージがあった。ステージの前には七卓のテーブルが配置され、六卓のテーブルにそれぞれ男と女がペアで座っていた。
男は全員ベネチアンマスクを着用し、その隣に美佐のように派手に着飾った美しい女がいた。黒服を除くと零士だけは素顔を晒している。
零士はステージの右斜め前のテーブルに座り、その両隣に美佐と杏里紗が座った。女がみんなドレスで着飾っている中で、杏里紗だけ普通の服だった。場違いな感じに委縮して身を屈めるようにした。
零士が立ち上がって、他の六卓を向き、深々と一礼した。
「ようこそボルジア家の夜へ、今宵もルクレツィアの化身たちと楽しみましょう」
零士が挨拶し終わると、美佐が立ち上がりステージに向かった。
美佐はステージに立つと、周囲に妖艶な微笑を振りまきながら、様々なポーズを作った。一通りポーズを作ると、ワンピースを脱いで下着姿に成った。美佐の下着は扇情的なレッドだった。布面積は極限まで小さく、同性なのに杏里紗の顔は赤く火照った。
美佐がテーブルに戻ると、次の女がステージに上がり、美佐のようにいろいろなポーズを取りながら下着姿に成ってゆく。ついに杏里紗を除く七人の女が下着姿になって各席に着いた。
「お前も服を脱ぐんだ」
零士が低い声で杏里紗に命じる。その目は拒むことを許さない、非常な目だった。杏里紗はあがらうこともできず、おずおずと立ち上がってステージに向かう。
ステージに立つと、全員の好奇な目が集中する。杏里紗は何もできずにステージに座り込んだ。
美佐が近寄ってきて、やさしく杏里紗を立たせ、ブルーの格子柄のワンピースの前ボタンを外し始める。ボタンを全て外すと、今度はゆっくりと袖から脱がす。万歳をさせてスリップを脱がすと、杏里紗は下着にレースのソックスと靴を履いた格好になった。
まだ腰回りなどに幼さが残るが、胸の隆起は十分で、周囲はフォーと感嘆の声をあげた。
美佐が席に戻ると、代わって零士がステージに上がった。
零士は何もできず立ちすくむ杏里紗に、非常な目のまま囁いた。
「このクラブに初めて参加した女は、必ず受けなければならない儀式がある」
「何をするの?」
杏里紗は怯えながら訊いた。
「俺がこれからお前を抱く」
言い終わると同時に、杏里紗はステージに横たわらされて、キスをされた。
杏里紗は抵抗したくても、零士の目に射すくめられて、声一つ上げることができなかった。
零士は杏里紗の下着をはぎ取り、愛撫を始めた。杏里紗にはそれからの記憶はぼんやりとしていた。気づくと処女を失い、周囲の男たちがオオーと歓声をあげたのを覚えている。
杏里紗は腰が抜けたようになって、動くことができなかった。黒服たちがやって来て、杏里紗の躰とステージを綺麗に吹き始めた。
成すがままの状態から、黒服が腕と足を鎖でステージに拘束する。口にはレザー製の猿轡をかまされた。再び恐怖で目を見開いた。
零士が裸のままで顔を近づけてきた。手にはペンのようなものを持っている。
「これが最後だ」
杏里紗の左の乳房の下にペンが押し付けられる。痛みで躰をくねらせようとしたが、黒服に抑え込まれて動くことができない。零士は、ペンの先で乳房の下を突きながら、少しずつ移動していった。
杏里紗は猿轡の中のボールを噛みながら、失神しそうになった。
どのくらい時間が経ったか分からない。拘束が解かれ、零士がやさしく髪を撫でている。
「これでお前は俺の所有物だ」
杏里紗が左の乳房の下を見ると、小さな字だがしっかりと「REIJI」と刺青が彫られていた。
美佐や他の女たちは次々に違う男に連れられ、奥の個室に消えて行く。零士は会が終わるまで、ずっとステージに残って杏里紗を抱きしめてくれていた。
こんな酷いことをされたのに、零士の躰の温もりに幸せを感じた。
会が終わって帰るとき、黒服から封筒を渡される。封筒の中にはまだ帯封がついたままで、百万円が入っていた。
帰りは零士がタクシーで送ってくれた。美佐ではなく自分を送ってくれることが嬉しかった。ラインを交換して時々会ったが、なぜか零士はボルジアの会には一度も誘わず、杏里紗の躰にも一切触れなかった。
零士は杏里紗を、霞町の交差点から麻布十番方面に、少し歩いた場所にある雑居ビルの地下のバーに連れて行った。零士の話では、このビルの最上階にもボルジアの会の会場があるらしい。
カウンターに着くと、杏里紗はモスコミュールを、零士はワイルドターキーをロックで頼んだ。
「どうしたんだ。誕生日は先月祝っただろう」
「そんなんじゃないよ。どうしても締めることができない奴がいるんだ」
「ほー、今の杏里紗に手の負えない中坊がいるのか?」
杏里紗は零士から支配力について教わり、それを実践することにより、クラスを掌握してきた。中学生でそれを打ち破る人間がいることに、零士も驚いたに違いない。
「二人いる。一人は男だ。最近転入してきた。だが、こいつはいい。普通じゃないから、もう関わらない。もう一人は女だ。こいつはどんなに揺さぶりをかけても屈さない」
杏里紗は悔しそうに、この三カ月間樹希に対して行ったいじめについて説明をした。説明し終わると零士はフフンと笑った。
「なかなか手強い女だな。たまにそういう精神的に手強い奴はいる。こっちが仕掛ければ仕掛けただけ、逆にダメージを食らう、そういう奴だ」
「なんとかできるかな?」
「やり方はいろいろある。こっちは境界を越えているから、超えてないやつを恐れる必要はない」
「良かった」
杏里紗はホッとした。やっぱり零士は悪魔のように憎らしいけど頼もしい。
「ところで、男の方はいいのか? 話を聞く限り、俺はむしろそいつの方に興味があるな」
「あいつはいい。心の痛みと言われたとき、本当に恐ろしかった。あいつは零士みたいだ」
「俺みたいか、会ってみたいな、その中学生に。そいつの名前を教えてくれ」
「戸鞠明良……」
「戸鞠?」
「戸鞠にはあまりかまわないで。零士は平気でも、私は怖い」
「戸鞠明良の家はもしかして久我山か?」
「知らない」
「もし俺の知っている人間なら、戸鞠は八咫烏の一族だ。だとすると話は違ってくる。その男が選んだ女だったら、杏里紗の手には負えないだろうな。今度だけはやり方を変える。いじめは止めて和解しろ。」
――八咫烏?
零士は何か思い当たることがあるようだが、詮索するのは止めようと思った。
久しぶりに会った零士には、なぜか強く惹かれる。うぬぼれではなく、零士も自分を大切に扱ってくれる。
独りになるとこの思いは痛みに変わる。だから零士とは会いたくなかったが、会ってしまえばまた溺れてしまう自分がいた。
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