第49話 願う狂人と雨上がりの朝

 着地と同時に、腐った肉のクッションから黄色じみた液体が飛び散る。脇に抱えていた少年は気を失っているが命に別状は無さそう。


「くそったれが……」


 吐き捨てる動作すら、今は痛い。腹の傷は二発が貫通したようだが、一発はどうやら内臓にダメージを与えている。


「つか、この子重い……」


 力の入っていない人間が、こうも重いとは思わなかった。成長期手前といったまだ可愛らしさの抜けていない年頃に、なんでこんな地獄を味わわなければいけないのだろう。


 足下の無数のしかばねは自身の不遇を無言で訴えてくる。それはまるで、来島善の人生で救えなかった人々の怨嗟、もしくは偽善の果てに出た犠牲者達の憎悪にも思えた。


 頭上、崖上を見上げると、研究所のあちこちで火の手が上がっていることが確認できる。時折聞こえる悲鳴が、せめて実験体の子供達のもの出ないことを願う。

 

「願ってばかりだ」


 実現など、一度としてない。実現するための努力は間違ったまま。何ともまぁ、


「救いようのない」


 ゆらゆらと少年を抱え、走る。走っているつもりだが傷を庇い、子供一人抱きかかえた状態ではその歩みは牛歩にも劣る。霞む思考。空が白んでいるのは幻か。


「ん……」


 少年の声が漏れる。持ち方が雑すぎたのだろうか。彼の長い髪は乱雑に伸ばされたようで、結んだ痕跡がみえる。それはこの子がやったのか。はたまた自分が手に掛けた少年の姉がやったものなのか。


 頭の中でキリキリと音がする。


 空に飛行機が見える。旅客機のそれでも無く、プロペラを両翼に搭載した軍用機。格納部分のハッチが開く。数本のロープが垂らされ、研究所のまがい物の兵士達とは違う、上から下まで完璧に装備をかためた兵士達が降りてくる。


「被検体番号二十九番、脳核型二式。来島善、確保」


 無線での通信が目の前でなされる。複数の兵士のごつごつとした軍用銃が向けられる。すでに囲まれ、逃げようにも退路などない。頭上を飛行機が旋回してゆく。


「両手を挙げて、地面に這いつくばれ」


 向けられた銃口と緊張した雰囲気。対照的に自分の心中は妙に落ち着いている。彼ら兵士が背にする東の空に見える光。それはいつかこの身を賭してある人と見たかったもの。


 朝日に照らされた彼女は、カーテンレールにぶら下がり揺れていた。伸びきった首。表情は思い出せない。空気中に浮く細かなホコリが陽光に照らされ、冒涜的なな神々しさだったことを覚えてる。


 苦難、辛酸、恥辱。彼女の笑顔の裏側に如何ほどのものが秘されていたのか。自分は少しは知れたのだろうか。分かりはしない。だから……


「君に会いたい」


 願う。


「何をぼそぼそと……命令に従え!」


 しびれを切らした兵士の一人が、足下に威嚇射撃する。少年はまだ意識を取り戻していない。


「(優、君に会いたいよ)」


 もはや暗示を掛ける余裕すらなく、口から滑ったのはただの願望。


 やっと、思い出せた。記憶をせき止めていた何かが外れる。溢れる思い出に乗せられた感情は、狂気に塗れた自分には不似合い過ぎた。


「(優、君が好きだよ……)」


 狂気と偏執へんしゅうに似た思いは、彼女に届かない。


「「「うわあぁあぁあぁああぁぁあ!!!」」」


 兵士達が自身の額に何かを突っ込む。ある者はナイフ。ある者は銃。ある者は素手で自らの額を引っ掻き、貫き、脳を掻き回す。


 「あっはっはっはっはははは、あははは!」


 泣き笑う。自身の歩んできた道行きは、人を殺すに十分だったことに。彼らが狂ったのは暗示ですら無く、来島善にただ共感しただけ。来島善が見てきた光景、感じたこと、その心傷を彼らは見た。


「意外とすごかったんだな、自分」


 兵士達は自らの脳を掻き出すことに夢中で使い物になっていない。来島善が悪夢から覚めるための脳核の起動動作。癖のように身体に染みついた動きは、ゴミのような日々から逃げようとするかのように額を掻き続け、消えない傷になってしまった。


 夢と現実の区別すら曖昧になり、傷だけが確か。でも傷に紐付けられた記憶には、左頬に火傷を持つ彼女がいた。


「さぁ、帰らなきゃ」


 もう迷わない。


 旋回した飛行機が羽の付いたエンジンを上に向け、ヘリコプターさながらのホバリングでこちらへと来る。プロペラに反射する朝日がやけに眩しくて、傘を差す。昨晩の雨は止み、空には虹が浮かぶ。


「君とみたかったなあ」


 無い物ねだりだろうか。

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