第32話 心傷風景 ケース0 ver.2 「傘の思い出」

 視界が開ける。


 日に焼けてしまい色褪せた画用紙に描いたような世界が広がる。しかし視界の隅からにじり寄ってくる炎に褪せ紙は焼き落ちる。


 全ての褪せ紙が焼き落ちたその先は、雨の世界だった。


 空は灰色の雲が覆い隠し、冷たい雨が降り注ぐ。視界が揺れているように感じる。


『これは、善の記憶?』


 ノイズ混じりに、葦戸博士の声がする。


『ああ、善の視点での記憶だな』


 視界に、善のものと思われる手が出てくる。まだひどく幼い、赤ん坊特有のぷにぷにとした手。辺りを見渡すように眼球を動かすと、自身が段ボール箱に入ってる事が分かる。視界が揺れているのは、誰かが運んでいるからだと理解する。


 運んでいる人物の顔が見える。まだ若い、幼くも見える女性。その表情は酷く暗く、目は虚ろだ。


 傘を差してはいるが雨の勢いは強く赤ん坊の善も、運んでいる女性も濡れている。


 嫌な予感だけが、私の中に沈殿していく。


 女性はふらふらと建物へ近づいていく。その建物の門に「スギノ園」と書かれた表札が見えた気がした。彼女はそこに善が入った段ボールを置く。自身が濡れるのを顧みないままに、傘を段ボール箱にかける。


「うっ……」


 女性はうずくまり、段ボール箱にいる善へと話しかける。


「わ、私に、お前を……こ、殺す事が出来れば……」


 衝撃が、心へと響く。彼女の虚な目に、言い知れぬ狂気が宿る。


「お前さえ、いなければ……」


 暗く、重い感情の淀みが言葉となって現れる。


「私は、お前が憎いよ……善」


 虚な目からは雫か、最早雨か涙か分かりはしない。


「こんな母親でゴメンね」


 最後、彼女は少し笑った。

 その瞬間、彼女は何処からか包丁を取り出し、自らの喉に突き立てた。


「グッ……ェェ」


 血の泡を吐き散らし彼女は息絶える。

 血はあまり掛からなかった。傘があったから。


 幼い善の視点では、傘と段ボール箱に阻まれ彼の母親の死体は見えない。しばらくすると幾人かの大人が来て彼と母親を引き離した。


 視界が、暗転する。


 しかし直ぐに、ぼやけた光が広がり視界は復活する。耳元で、博士と交信して居る時に流れているノイズのような音がする。


 そこは幼稚園の施設内のような場所。周りには玩具が広げられ、何人かの子供が遊んでいる。


「来島善、検診の時間だ」


 白衣を着た大人達が、複数の子供から善を連れていく。善の視点が少し高くなった事から、彼が成長したことが分かる。


「はい!」


 元気よく答え、三人の研究員達について行く善。


「コイツが例の……」


「ああ、五年前の一家強盗殺人事件で死刑になった来島育敏の子供だよ」


 大人達は人目もはばからない。ただただこの時の善が、言葉の意味がまだ分かっていないことを願う。


「でも、確か犯人に家族は居ないはずじゃ……」


 一番年下らしい研究員が口を開く。


「知らないのか、あの事件は事件発覚までに数ヶ月掛かった。死体からの腐敗臭でやっと通報されたからな」


 善は大人達の言葉が分かっているのか。だとしたらそれはどれだけ残酷なことか。


「いざ警察が突入したとき、その一家の長女が監禁されていたことが分かった」


「それってつまり……」


「そう、こいつの母親はその事件の被害者の少女。監禁期間が長かったが為に中絶できなかった忌み子だよ」


 私の中で、形容しがたい汚泥のような感情が膨れ上がる。


「おぞましい」


 研究員の一人が吐き捨てるように言う。


「でも、それなら遠慮なく実験に使えますね。犯罪者の落とし子なんて、生きてて良い訳ないですし」


 今、発言をした一番若い研究員が目の前にいたら、私は殺していただろう。


「そう言うこった。こいつの母親は、コイツをここの門において自殺した。その事が不憫でならん」


「しかし、皮肉な名前ですね。『ぜん』だなんて。母親はどういう気持ちでこいつにそんな名前を……」


「犯罪者の子供が何やったってな訳があるか。だから捨てられたこいつの登録をする時、父親の方の名字にしたんだと。名前は自殺した被害者の意思を尊重してそのままだがな」


 善は何も言わない。ただ反吐が出るような言葉を、彼の生まれさえ否定する言葉を淡々と聞き流す。


「まぁ、せいぜい有効活用させてもらおう」


 善の感情はうかがい知れない。


 視界が、暗転する。


 そして視界が開けると、また目線が高くなっている事に気付く。ノイズは止まない。


「博士」


「ん?」


 善に呼びかけられ、答えるのは私の父だった。


『お父さん……』


 在りし日の、もう二度と見られない光景。


「憎いって何ですか?」


 善が問う。


「まぁ、大嫌いに似たような感情かな。憎悪は愛の対義語とする考え方もある」


「え? でも愛の対義語は無関心だって本に書いてあったよ」


「『人間失格』か、意外と本読んでるじゃないか」


「でしょー」


 善は誇らしげに胸を張る。しかし私の父が目を逸らすと、その表情は暗くなる。憎しみを知ったから。


「善、お前の専用の補助器具は何がいい?」


 実験体、脳核型ブレインコアタイプだけに与えられる専用武装。


「……傘がいい」


「ほう、それなんでまた」


 父はあくまで、善に聞く。


「雨が、止まないんだ」


 そして気付く。最初、葦戸博士のオペレーションによる影響だと思っていたノイズ。


 それは全て雨音だった。

 善にはずっと、降ってもいない雨の音が聞こえ続けている。


「欲しい機能は?」


「どんな雨でも防げるほど頑丈に」


「ああ」


 優しく父は相づちを打つ。


「敵を確実に殺せるくらいの鋭さを」


「炸薬も入れるか」


「だからどうか」


「……」


「もう、目の前で人が死ななくて良いようにしてくれ」


 まるで祈るかのような懇願に、それでもと食いしばられた口元は血が滴っていた。


 視界が暗転する。







 




 














 



 


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