第18話 確かな傷と自覚する感情

「あーもう、汚いなあ」


 服に着いた血や臓物が固まり膠のようになっている。

 しかも臭いはかなり酷い。


 鉄錆の臭いに混じって、臓物を破った特有の鼻を刺すような異臭がする。


 「ぜん? 善?……」


 明石は同じ単語を繰り返す。しかし自分たちには分かる。

 これは確認作業なのだ。彼女の瞳に浮ぶ、不安を消し去るための。


「ああ、お迎えに上がったぜ。泣き虫ちゃん」


「もう……憎まれ口は変わらないね」


 苦笑し、嬉しそうに彼女は泣く。しかし汚れすぎたこの手では彼女の涙を拭う事なぞ出来はしない。

 

「ゴメンね。本当に、ホントに……君を待たせてしまった…………」


 溢れる。感情が溢れる。やっとだ。やっと自分はたどり着けたのだ。

 ボロボロと、涙がこぼれる。

 狂人に、許される筈も無い感情が、今の自分の中で溢れ出る。


「いいよ……許してあげる」


 涙を流し、微笑む彼女。未だ深い夜に月だけが明るい。

 血臭漂う四畳半にて、彼女が背にする窓から差し込む光。


 チグハグな光景が、何処かずれてる自分たちには相応しいのかもしれない。


「落ち着いた?」


 泣いてる奴が言う言葉では無いだろうけど。


「うん……少し眠い、かな……」


 優しげな眼差しに、映るに相応しくなれただろうか。

 貴方に寄り添える資格は、自分にあるのだろうか。


「横になって、ええんやで! ワシが見守っといてあげますわぁ!」


 そんなもの、分かりはしない。

 だから茶化す。笑って誤魔化す。

 無理に笑うから、笑顔は歪む。感情を強制するから、心が軋む。


「……ありがとう」


 なのに貴方は……


 辛いだろうに。

 苦しいだろうに。

 何もかもが憎いだろうに。


 何でそんなにも綺麗に笑うんだ。


 明石は部屋の隅に畳まれていた布団を敷く。

 その隣で呆けたように自分は立ち尽くす。

 彼女は静かに横になると、程なくして穏やかな寝息が聞こえる。


 ここに、自分は居るべきでは無い。

 本能が鳴らす警鐘。


 ここに居ると、暖かな何かが胸の内を満たしていくのを感じる。

 多分、この温みが自分を満たした時。

 

 言ってはならない一言が、口からこぼれ落ちてしまいそうで。

 立ち去ろうとした。


「約束……」


 体を起こした明石が、恨めしそうにこちらを見てくる。


「え、いや、だって……」


 適当な言い訳は見つからない。

 当たり前だ、自分の中に湧いたこの感情を。

 何と名付ければ良いかすら分からないのだから。


「一緒に居て」


「へ?」


 間の抜けた声が出る。


「だから! 私が! 寝る時、手を繋いで……」


 明石の語気を荒くなる。

 差し込む柔らかな月光が照らす。彼女の頬が赤くなっているのは何故だろう。


「分かったよ」


 手を差し出すと彼女は少し強引に自分の手掴む。

 明石自身の頬へと触れさせる。

 見ただけでは分かりにくいが、そこには確かに火傷が存在する。

 明石がもう片方の手で自分の額に触れようとする。


「いい……かな?」


 恐る恐る、確かめるように。


「いいよ」


 彼女の手が、額の肉膨れに触れる。

 皮が薄いのか、他の皮膚より確かに、より鮮明に彼女の体温を感じる。


 ただ、ただ。

 単純に、自分はこの人が。


 明石優という人間がどうにも好きらしい。


 こんな感情は、持つべきでは無いのに。

 夢の中で彼女を死なせる自分が、平気で人を殺す化け物が。

 こんなに幸せで良いはずが無いのに。


 だから、彼女の幸せに自分が居る必要など無かったのだ。

 邪魔なだけなのだから。

 覚悟をしたのに。決意もしたのに。


 なのにどうして。


『彼女の幸せの中に、自分も居たら』……だなんて。


 愚かな事を考えてしまうのだろう。



 この気持ちは沈めていよう。二度と浮き上がってこないように。

 


 しばらく、お互いの傷に触れていた。

 やがて疲れた明石が布団に横たわる。

 その間も、明石の左手と自分の右手は繋がれたままだった。


 緩やかに流れる時間の中で、彼女の寝息が聞こえてくる。

 微かな頭痛と共に押し寄せるまどろみに、薄れる意識の只中に。


 懐かしい、を見た。

 






 


 


 

 

 

 






 


 


 




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