第8話 泣き疲れ少女と夜更かしラーメン
時刻は午前一時を過ぎている。
自室に戻るなり、強烈な吐き気が襲ってきた。
「ウッ……」
えずいてしまうが何とかこらえる。額の痒みは痛みとなって、視界が回る。
(ほうら、無理してやがる。今に限界が来るぞ)
「……はん、大丈夫さ。このくらいでへばったら、博士みたいな凄い人になれねェからな」
誰にも聞こえない声と一人で会話。端から見れば不気味な光景だろう。
(おかしな声が聞こえる、まともですらない奴がよく言うぜ)
博士は自分たちを救ってくれた。誰かの為に、自らの全てを捨てでも進もうとする後ろ姿に自分は憧れたのだ。
「なのに」
徐々に、吐き気は収まってくる。
「仲良い女の子一人救えなくて、何が善だよ」
『善』という概念が、自らの名前と今の自分の有り様の間に大きな隔たりが有ることを自覚させる。だいぶ、落ち着いてきたか。
思考も一致し始めた。呼吸を整える。
このまま心傷風景の実験に参加し続ければ自分がどうなるか。なんとなくではあるが予想はつく。しかしそれでも、あんな物を見て、ただジッとするという選択は自分には無い。
一○二号室にて四畳半の中心、0.5畳になっている畳をめくる。そこには収納スペースがあり、自分は保存食をいくらか買いだめしていた。
「よし」
その中から探していたのは、コンビニ限定のカップラーメン。特別な日にしか食べないと決めている贅沢品だ。なぜこんな物を出したのか。およそ金も大した頭も無い身、人を励まそうと、何かしてあげたいと思った時、思いついたのは……
「美味しい物、一緒に食べよう……か。何のともまぁ、芸の無い」
我ながら、思考の貧弱さに嫌気がさしてくる。
そして、さらなる問題として……
「どうやって誘う?」
まだ夢から覚めていないのか、額を確認する。醜い、肉膨れが確かにそこにはあった。ならば自分は明石と半ば喧嘩別れのようにして、バイトに行った後か。気まずいなんてもんじゃない。
(……一方的過ぎて、喧嘩にもなっていなかったがな)
いきなり、声が思考から分離して話し始めるが気にしない。
額に触れる。汚らしい肉膨れは、ここが現実で有ることを教えてくれる。
「これは、夢じゃ無い。って事は、今はバイトから帰った時間帯で間違いないのか?」
時計の時刻は夢を見たとき、確認して居なかった。だが午前二時、このくらいに帰ってきたような気がしなくも無い。
「あの夢は予知夢なのか。だとしたら今夜中に、明石は首を吊るのか……」
体中の血液が役目を放棄したのか。サッと血の気が引いていくのが分かった。急いで玄関に飛び出す。遠くない、その距離にを走るのにき急に世界が鈍化したかのような錯覚に襲われる。一○三号室の前に立つ。
「明石ィ!!!」
夢で見た、あの光景の不安が焦らせる。やめろ、頼む。頼むから!
「(死なないでくれぇ……)」
弱々しく情けない声が漏れる。一○三号室のドアに寄りかかる様にして、崩れ落ちる。ドアが開く。
「え、ちょっと。何、来島くんどうしたの?」
「……エッ?」
え、明石生きてる……。
自分が地面に崩れ落ちている為、必然的に明石を見上げている。明石は、自分の様子に驚いている。左頬の傷は隠していない。ただそこに有るだけ。
「って事は、アレは予知夢では……なかったのか?」
「え、何の話?」
自分の会話の突飛さに、明石は完全に置いてけぼりを食らっている。
「いや……何でも無い。何でも無かったんだ」
現状を説明するならば、これよりふさわしい言葉はないだろう。
「そう……なの?」
明石はこちらの様子に軽く混乱している。無理も無い。夜中にいきなり隣人が自分の名前を呼びながら、自室も扉の前で崩れ落ちている。軽くホラー展開だ。だとしても自分には、明石へのフォローよりも、彼女が生きていた事への安堵が勝ってしまっていた。
「なぁ、明石」
「うん。何?」
ドアを開けて、しゃがみ自分と目線を合わせる明石。泣き腫していた瞼は、少し落ち着いていた。だが目はまだ少し赤く、髪も少し跳ねてしまっている。そんな状態なのにどうして彼女は自らでなく、他人を心配する素振りをするのだろうか。
(一番辛いのは、君だろう……)
だが、だからこそ……
「ちょっとさ、夜更かししないか?」
少しでも、貴方の悲しみが癒えることを願って。
「夜更かし?」
明石は不思議そうな顔をする。
「ああ、こんなの有るんだ。一緒に食べない?」
そう言って、コンビニ限定のカップ麺を取り出す。
「色々種類あるよ。良かったらどう?」
「こんな夜中に、犯罪的だね……」
少しの間、明石は呆気にとられてはいた。
しかしすぐに悪戯っぽく微笑むと、いくつかある中でも最も犯罪的と言えそうな『背脂MAX麺』なる物を選んだ。
「お目が高い……」
「お褒めに預かり恐悦至極」
一見意味の無いやりとりが、今はたまらなく愛おしい。
こんな時間が続けば良いのにと、出来もしないことを願ってしまう。
「そうだ、せっかくだから庭か河原で食べない?」
「河原が良いかな」
このアパートのコンロはカセット式の為、こういった際に持ち運べるのが便利だ。手鍋に水を入れ、湯を沸かす。
「なぁ、今日。ごめん」
「急にどうしたの?」
確かに脈絡がなさ過ぎた。
「いや、今日ってか。昨日か。ほら、火傷の痕見た時、驚いてしまって……」
言葉を慎重に選ぶ。何が明石のトラウマに触れるのか……。火傷が直接の要因では無いことは心傷風景から分かっている。
「……いいよ。私こそ取り乱してごめん……」
(謝らせて、何がしてぇんだよ。てめえは)
ああ、本当にな。吹きこぼれそうになった湯をカップ麺の容器へと注ぐ。
「五分待ってね」
「うん」
五分待って、これを食べ終わる前に、決着を付ける。
「火傷のこと、聞いても良いかな?」
これは、もはや賭けだ。この一言が彼女を傷つければ、もう夢のようにやり直しは効かない。
「これはその対価って訳?」
カップ麺を指し、彼女は言う。その表情は少し笑っているのは何故だろう。隠されていない頬の火傷は、月明かりに照らされて彼女が生きている事を主張する。
「嫌なら……。いや頼む。聞かせて欲しい。対価って訳じゃないよ。足りないだろ。こんなのじゃ……」
(対価はお前の正気だもんな)
うるさいよ。揚げ足を取るな。
「いいよ、話す……」
良かった、のだろうか。これで。
「昔、私ね。引きこもりだったの」
明石は語り出す。おそらくは悲しみや憎しみだけではとても言い表せない、その感情の内側を。
「お父さんが死んでから、お母さんはおかしくなっちゃって、家に毎日、違う男の人達が出入りするようになってね。私のことを見つけると殴ったり、蹴ったり、煙草の火を押しつけたりするようになってね」
「(…………)」
「それが嫌で、私は一歩も部屋を出なかった。学校も正直、行きたくなくなっちゃって……」
眉間にしわが寄る。何故か手が熱いと思ったら、血が滲む程に握りしめていた。
「そしたらさ、お母さんが男の人達に頼んで私の部屋をこじ開けたりもしてぇ……」
額の傷が熱を帯びてくる。
「私、それが怖くて。ライターオイル撒かれてねぇ。お母さん、それに火を付けたの。私自身にもオイルが少しかかってたみたいで、顔とかぁ体も少し焼けちゃったぁ」
明石の話し方に違和感を感じ始める。
(…………)
声は何も言わなくなった。ならば、
「火傷って、今までどうやって隠してたの?」
必死で話を逸らす。それに意味など無いかも知れないのに。
すると明石は少し恥ずかしそうに、
「笑わないでよ」
そう言って、肌色の水性絵の具を取り出した。
「(え? マジ?)」
「……むう」
不満そうにしてる明石。
「(えぇ、嘘やん……)」
あまりの衝撃に、声との思考も一致始めたではないか。眉間に寄っていた皺は解放され、今や困り眉状態である。
「……っく。あはははははっは! 何、その顔!」
唐突に明石が笑い始める。そこには初めて会った時のような悲しみはどこにも無く、純度百パーセントの笑顔だろうか。
「ふ、いひひ」
気持ちの悪い引き笑いだが、つられて笑う。二人でひとしきり笑った後、時間が過ぎて、伸びてしまったカップ麺を二人で食べた。
今夜の月は明るく、そして美しい。でも多分それは彼女が隣にいるからで、一人なら決して見上げもしないのだろう。
食べ終わり、ゴミを片づけていると明石はまるで自らに言い聞かせる様に小さくつぶやいた。
「もう、大丈夫。私ね、信じてるんだ。止まない雨は無い、明けない夜は無い。いつか必ず辛い日々が報われる日が来るって。だから、もう……」
急に、額に激痛が走る。何故、今こんな感情に襲われるのか。
自分は今、猛烈に怒っている。
その言葉を聞いて彼女が前向きになれたと、普通ならば思えただろう。しかしあの心傷風景と首を括った彼女の光景が、引き下がる事を自分に許さない。その言葉の先を言わせてなるものか。
「止まない雨は無い、明けない夜は無い…………ふざけるな」
「え?」
溢れ出した感情は濁流のごとく止まらない。
「雨が止まないなら、傘を持って君を迎えに行こう。夜が明けないなら、朝日見えるまで灯をともして君の側に居よう」
心傷風景で彼女を助けていた傘持ちの化け物。
現実の彼、もしくは彼女なら多分そうしたと思うから。
「本当に?」
まるで恐る恐るといった様子で彼女は問う。
「ああ、約束する」
どうか、貴方が泣かなくても良い夜が来ますように。
そう、願わずには居られないから。
「あ、でも君が嫌ならすぐに消えるから、いつでも気軽に言ってね!」
「すぐそうやって茶化す……」
(良いのかよ、出来もしない約束は取り付けるもんじゃねえぞ)
何が何でもこの約束だけは守りたいんだ。すまない。今だけは自分の言葉で語らせてくれ。
(……分かったよ、好きにしな)
明石の泣き腫らした瞼から、涙がまた頬を伝う。
「ありがとう。その言葉、信じても良いかな」
一度は拒絶されかけたが多分貴方は優しいから、また一人で背負い込もうとするのだろう。そんなこと、させてなるものか。
「ああ、もちろん」
傘持ちの化け物みたいには出来ないかも知れない。
それでも、貴方の自分に向けてくれたあの笑顔を夢になんてしたくないから。
これから明石は幾千もの夜に泣くのだろう。
でも、もし許されるのなら側に居て支えたい。
一夜ずつでいい、彼女の悲しみを溶かし、笑える明日を迎えられるように。
自分の持てるものはを全て賭けよう。心傷風景を覗ける以外にたいしたことは出来ないが、例え自分が狂い果ててでも、彼女の涙が報われるように。
いつか、夜が明けた先。
彼女が幸せになった時、そこ自分が居る必要は無いのだから。
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