第5話 迎えられぬ朝と覚めない夢
傘を指した明石を背負い、家路を急ぐ。雨は勢いを増している。人を一人背負っているはずなのに、重みを感じない。今の明石の様子から、少しの衝撃でも割れそうなガラス細工を持っている錯覚に囚われる。
(さっきの火傷は一体……)
先程見た明石の左頬にあった火傷、一瞬ではあったが確かに見た。何かとても触れてはいけないものに触れてしまったのではないか。心臓の辺りを掻き回されている様な不快感が付きまとう。額が痛い。
(思い出せ)
「黙れ」
小さく呟く。
忌々しい声が頭の中に響く。
(また逃げるのか?)
今程、お前の声を聞きたくない瞬間はないだろう。路地裏の会話から、明石とは話せていない。確かに今、彼女を背負っているのに、近くに居るのに、決定的な何かが離れてしまっている。
アパートに着いてしまった。
(このまま、彼女を一人にして良いのか)
そんな訳ない。 明石の表情は窺えない。長い髪の毛で隠している。
「着いたけど、大丈夫?」
大丈夫じゃないことは分かりきっている。
(なのに何故だ。何故、彼女のそばに自分は居てやれない)
雨が止まない。明石が上着を差し出す。
「ありがと、洗って返せなくてごめんね」
「あ、うん」
感情のこもっていない事務的会話。傘を返すと、明石は一○三号室へと向かう。
「え?」
驚いた明石が振り向く。自分は無意識に彼女の左手を掴んでいた。
(セクハラやんけ)
少し、いつもの調子が戻ってきた勢いに任せて……
「弁当の約束、まだ有効?」
引き留める理由も、気の利いた言葉も肝心な時に浮かばない。ならばと約束を持ち出す辺り、自分の器の矮小さが見て取れるかのようだ。
何でも良い。今、ここで。
引き留めた明石と目が合った。目の辺りは可哀想なほどに腫れ、涙の跡も残っている。こんな状況で何を言っているのか、そう思われても仕方ない。
(でも、それでも)
掴んだ手をゆっくりと振りほどき、彼女は言う。
「じゃ……」
明石の目はこちらと目を合わせようとはしなかった。
彼女を掴んでいた手に空虚なぬくもりだけが残った。
そこからは何も考えなかった。バイトをいつものように淡々とこなし、帰途につく。バイト帰り、コンビニで明日の朝飯を買う。先輩にクリームパンのお礼しよう。
いつもより多く、買い物をした。アパートに着く。このアパートは少々ボロなせいか深夜に近くを通るにはそれなりの勇気が必要なほど雰囲気が悪い。明石の様子が気になる。数時間前、ここであったことは夢だと言ってくれないか。
そんなあり得ない妄想をしてしまう程には後悔していたのだ。
自分の部屋に入る。隣の部屋からは物音一つ聞こえない。
明日の準備をする。疲れた体を更に酷使して、考え事をする余裕を無くす。
そうでもしないと寝られそうにない。
約束を持ち出した身である。まずは米を研がなければならない。いつもより多い、三合分の米を研ぐ。自分だけならいつもは一回しか研がないが、明石も食べるのだ。見栄を張って、三回研いだ。炊飯器に入れ、明日の起床時間くらいに炊き上がる様にセットする。
洗濯物を片付け、週末にコインランドリーに持って行くべきものをまとめる。柔軟剤は変えよう。今まで使っていたのは香りがキツすぎた。
この前無くした、ランタンのキーホルダーの片割れを見つけた。傘に付けているものと色違いのペアになっている。
昔、ゲーセンか何かで取ったのだろうか。部屋の片隅にある机に置いた。眠気が強くなってきた。思考がまとまらない。
(あぁ、眠い。どうか、どうか明日は良い日でありますように)
まとまらない思考が溶ける様にして、眠りにつく。
窓から朝日が差し込む。
玄関と対になる位置にある大きな窓のガラスは時代遅れなことに厚く、曇った作りになっている。そのため日が差し込むとガラスに日光が乱反射して眩しい。カーテンはあるが所々に穴が開いてるため、あまり効果は期待できない。
炊き上がった米を確認する。
(うん、出来は悪くないな)
朝飯をさっさと済ませ、炊き上がった米を釜ごと、厚手のタオルで包んで持つ。
(さあ、明石に届けねば)
明石の部屋、一○三号室の前の立つ。少し息を整える。先日の事もある。気まずいが、仕方なし。
このアパートにはモニター式ではないが、インターホンは存在する。ならすと耳障りな大音量が流れる。
(もしこれがモーニングコールになったら、さぞ不快だろうな)
ボタンを押す。ビーッと音が流れる。反応なし、まさか居留守使われているのだろうか。
あまり、良いことではないがもう一度押す。反応はない。
(くっそう、嫌われたか!こうなったら)
ボタンを連打。すぐさまピンポンダッシュが出来るよう、走る構えをする。
「え?」
そこでやっと、違和感に気付く。反応どころか、物音一つしない。
「もう学校へ行ったのか?」
そっと、ドアノブに触れてみる。
「えぇ、鍵締めろよ」
なんと開いている。さすがにこの状況で学校に行ってるとは考えられない。米の入った釜を一端玄関先に退避させる。ドアを開け放ち、中を確認する。
「は?」
厚手のガラスが、朝日を乱反射している。
眩しい程の光が、部屋に浮かぶ微細な埃に当たり煌めく。
そんな神々しい光景をバックに、
首を吊った明石の姿がそこにはあった。
……意識が遠きかけるのを必死に食い止める。
ついでとばかりに痛む額を押さえ、周囲を観察。
(カーテンレールにベルトを通して……首を吊ったのか)
明石の首は変色し、伸びてしまっているように見える。
血臭無し。
争った痕跡無し。
着衣の乱れ無し。
(マジかよ、これって)
「自殺か」
最悪の結末。
(何でこうなった?)
訳が分からない。額の痛みが許容量を超え、熱を帯び始める。
(痛い)
たまらず、額に触れる。
「はぁ、え?」
そこにはあるはずのものが、傷が無かった。
(思い出せ)
痛みが、増してゆく。
「ああ、そういうことか……これは夢だ」
本来、傷があった部分をなぞる様にして触れる。両手、親指を当てる。そして、自分が持ちうる全ての力を込めて。
自分の頭に指を入れた。
ズブリ。
嫌な音が頭の中に響き渡り、世界はバグが発生したゲームの様にフリーズする。
……そしてまた、夢が続くのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます