第8話 ひめごと 8
「……ええ、家族はいないわ。そこだけは本当よ。もっとも医学生だった遠い昔、同じ学部の男性と結婚していた時期もあったわ。でも一年足らずで別れてしまった。堅実なヴィジョンを持っていた彼にとって、理想しか見えていなかったわたしは物足りなかったのね」
そう、かつてのわたしは地に足がついていなかった。少女のように無邪気で、ありえない魔法ばかり追いかけていた。恋だって楽しいばかりではない。甘いロマンスの先には必ず、苦い現実が待っている。でも若い頃のわたしはいつか魔法が解ける日が来るなんて想像すらしなかったのだ。
「その……先のことはわかりませんが、もし嫌でなければ、僕とお友達になってください」
「お友達……?」
おずおずと切りだした涼太の目をわたしが戸惑いつつ見返した、その時だった。歩道の方でなにやら人が騒ぐ気配があった。
「ひったくりです、誰か捕まえてください!」
遠くで女性の叫び声が聞こえたかと思うと、それに反応した涼太が歩道に飛びだした。
「――うわっ、なんだっ」
一呼吸遅れて続いたわたしの耳に、男性の声と自転車が倒れるような音とが聞こえた。
「くそっ、畜生、離せっ」
歩道に出たわたしが目にしたのは、複数の通行人に取り押さえられてもがいている若い男性と、その傍ではいつくばって荒い息をしている涼太だった。
「大丈夫?」
わたしが声をかけると、涼太は「だ、大丈夫……」と掠れ声で応じた。やがてゆっくりと顔を上げた涼太を見た瞬間、わたしは思わず「嘘……どうして?」と叫んでいた。
「えっ……僕がどうか……あっ、まさか」
涼太は狼狽をあらわにすると、腕の時計をあらためた。祖父の形見だという涼太の腕時計は自転車にタックルした時の衝撃で止まっていた。
「そんな……トラックに跳ね飛ばされても壊れなかったのに」
呆然と時計を見つめている涼太の風貌は、つい先ほどまでのそれとは異なっていた。
「あなたも……魔法を使っていたのね」
わたしはすべてを理解した。涼太の外見は若者のそれではなく、それ相応の時間を刻んだ壮年の物に変わっていた。
「……そうです。インテリアデザイナーだったことは事実ですが、今は小さな家具メーカーを営む自営業者です。ひとみさん……僕が嘘をついていたことを軽蔑しますか?」
白い物の混じった髪を掻きあげながら、僅かに青年だった頃の面影を残す涼太が言った。
「ううん、わたしだって自分を偽っていたんですもの。お互いさまだわ。でも……」
互いの真実を知ってしまった以上、もう数十分前のわたしたちには戻れない。それだけは動かすことのできない残酷な事実だった。
「もし、こんなわたしでも構わないのなら、ゼロから……お友達からはじめましょう」
わたしはかろうじて今言える本音をぶつけた。もちろん、先のことはわからないけれど。
「時計が止まった以上、もう魔法は使えません。それでもいいんですか?」
「ええ。わたしの靴もきっと、もう直せないわ。お互い魔法の時間は終わりにしましょう」
わたしは今の自分に作れる精一杯の笑みを浮かべると、涼太の手を取った。
「……もっと早く出会いたかった」
「仕方ないわ。魔法がここをスタート地点に決めてしまったんだもの」
わたしはポケットに手を入れると、真新しい木工品の犬を愛おしむように握りしめた。
〈FIN〉
ひめごと 五速 梁 @run_doc
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