第7話 ひめごと 7


 数区画ほど走ったところで、わたしは走る速度を緩めた。足元に異変を感じたからだ。


 胸騒ぎを覚えつつ足元に目をやったわたしは、信じがたい光景に「嘘」と叫んでいた。


 わたしの『哀しい踊り子』は側面の皮が無残に裂け、踵が今にも取れそうになっていた。


 ――まさかよりによってこんな時に。……なぜ?


 わたしは歩を進めるごとに靴が壊れてゆくのを感じながら、それでも涼太の後を追い続けた。やっと彼の姿を見つけた時には靴はほぼ脱げかけ、足が半分以上露わになっていた。


「……ひとみさん?」


 バス停の前でわたしに気づいた涼太は、これ以上ないほど大きく目を見開いた。彼の目に浮かんだ驚愕の色を見て、わたしは自分がもう彼の知っている私ではなくなったことを知った。


「……知って欲しくなかった。できれば魔法が解けないうちにさよならしたかった」


「やっぱり……あなたなんですね」


「そうよ。これがわたしの本当の姿。この数日、あなたと会っていたのは別のわたしなの」


 わたしは一気に吐き出すと、目を伏せた。魔法はいつか解けるものだが、こんな形で終わるなんて思っても見なかった。わたしは彼が近づこうとするのを察して思わず後ずさった。


「……きっと、何か事情があるんですよね?聞かせて下さい」


 涼太はそう言ってわたしのつま先に目を遣ると、「思った通り、綺麗な形だ」と呟いた。


                 ※


「わたしの本当の年齢は五十歳。看護学生と言うのも嘘よ。本職は研究者。……たしかに昔、看護の勉強はしていたけど途中で人体そのものに興味が移って専攻を変えたの」


 わたしはバス停から少し離れた建物の陰で、隠し続けていた真実を語り始めた。


「じゃあ、僕と会っていた時の姿は、靴の魔法によるものだったんですね」


 涼太は少し悲し気な声で、わたしを責めることなく淡々と言った。


「ええ、そう。最初は驚いたわ。靴を履いている間だけ、二十代の姿に戻れるんですもの。わたしは比較的自由になる時間が多いことを利用して、バーで働き始めたわ。ただ、細かいことを聞かれないようなお店は、品のないところが多かったけれど」


 わたしは言葉を切ると、ぼろぼろになって魔力を失った靴に目線を落とした。


「靴を脱ぐと魔法の威力が消えてしまうから、小上がりの店に行くのを避けたんですね」


「そうよ。できるなら靴を脱いであなたにつま先を見せたかった。でもそんなことをしたら、あなたとの楽しい時間も終わってしまう」


 わたしは自嘲気味に漏らすと、目を伏せた。今は早く彼の眼差しから逃れたかった。最初から本来の姿で接するのと、魔法が解けて同情の目を向けられるのとでは辛さが違う。


「それで、今は……お一人なんですか?」


 涼太の思いがけない問いかけに、わたしの冷え切った胸に一瞬、小さな火が灯った。

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