ビート板 in the Pool with

メンタル弱男

ビート板 in the Pool with

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 プール授業の思い出。カナヅチの俺にとって、それはあまり思い出したくないものだが、その中心にあるのは間違いなくビート板だ。


 俺はカナヅチだが、本当にびっくりするくらいに全く泳ぐことが出来ない。渾身の、プールをぶち壊すくらいの勢いでけのびをして終了だ。あとは息が切れるまで待って、足を床につける。水の中にいる時の、『ポコポコッ、ポコポコッ』というあの独特の音が苦手で、いち早くプールから出たくなる。プールの横側から芋虫のように這い出ると、先生はいつも『まあまあやな』と言いながら、僅かに哀れみの目を向ける。

『まあまあってなんやねん!0点や、こんなもん!』とは口に出さず、心の中で叫ぶ。そしてゆっくりと歩いて、プールサイドで肩を抱きながらぶるぶる震えていた。濡れた身体に吹きつける風はあまりにも冷たすぎる。プールを囲むフェンスに色とりどりの巻き巻きタオル(ラップタオル?)が無造作にかけてあり、それを手に取って身体を包み込むと、緊張してひきつった頬がじんわりと緩んでいく。


 話は少し逸れてしまったが、そんな俺はプールの中でビート板だけが頼りだった。これがあれば、顔を出しながら少しは泳げる。まるでビート板に引かれるようにして、溺れた子供が助けられているように見えたかもしれない。ただ、ビート板さえあれば、溺れかけで沈みそうな身体がどこにでも行けるような気分になれたのだ。


 プールと言ったらビート板。プールと言ったらビート板。



          ○


『あれ、なんでそんなん持ってきてんの?』

『めっちゃ練習する気満々やん。』


『いや、これはちょっと、、、』


 高校の頃、クラスメートの男女数人でプールへ遊びに行った時、みんなが浮き輪やビーチボールを手にして集まった中、俺は立派なビート板を背負って行った。その日行ったのは流れるプールがメインのところでどちらかというとガッツリ泳いでいる人はいないプールだ。もちろんのこと、俺も泳ぎたいわけではない。だが、俺にとってプールと言ったらビート板なのだ。とは言っても、少し頭が回らず迂闊だったかもしれない。みんなの持ち物を見て、悠々とビート板を持って来たことを後悔した。


『なんか木下くん、一人だけビート板持ってきてるよ。』

 女子達からもクスクスと笑い声が聞こえる。

『ビート板でどうやって遊ぶねん。』と、多数派によくみられる高圧的な態度で笑いながら言われたので、『ビート板の価値を誰も分かってないねん!』と、適当に返事をしたら、奥の方で井上さんが笑っていた。


 井上さん。俺がずっと気になっていたクラスメートの女の子で、まだあまり話したことはなかった。


 みんなでプールに向かって歩き始めた時、ゆっくりと井上さんは俺に近づき、後ろのビート板を触った。そして、

『いいやん、ビート板!』と言って笑ってくれた。


『ありがとう!!ビート板!!』

 俺はこの時ビート板を家宝に認定した。



          ○


 今では転勤の多い仕事に就いたが、引越しの度にビート板も持って行く。プールは大嫌いだが、インテリアのように壁にしっかりと飾っている。もうこのビート板は、ビート板として使われる事はない。ここにある事が大切なのだ。だが、このビート板はプールに帰りたがっているのかもしれないと、ベッドに横になりながら考えたりもする。


『あぁ、俺もいつの間にか大人になってしまったんだな』と不意に一人呟いた。何故かとてもセンチメンタルな気分だ。



        

          −1



 今日は、青い空。とても気持ちがいい。私は大きく息を吸い込み、腕を上にあげた。世の中の全てがこの空のように透き通っていれば良いのに。。。


 また面接に落ちた。目の前の景色が急に暗く縮こまり、喉を通る空気がチクチク冷たい感覚。仕事を辞めてから、何度この気持ちを味わっただろう。ゆっくりと間違った方向へ進んでいるのかもしれないという恐怖は、誰かと楽しく話している時でも、心の裏側からすうっと顔を覗かせる。


 怖い。そして弱い自分が嫌になる。私はいつからこんな人間になったんだろう?働いていた時はもう少し、前向きで明るい性格だったと思う、、、。いや、気のせいかな?


 コンビニで特に興味のない週刊誌を手に取った。レジには5、6人が列を作っていた。会計をして外に出ると交差点では沢山の人が行き交っていた。(みんなどこへ向かっているのだろう?とても慌てているように見える。)電車に乗って、週刊誌をパラパラとめくった。そして家に帰ってベッドに腰掛けた。


 その時私はふと、一人だけ世の中の大きな流れから取り残されているような孤独を感じた。深く深く考えていくうちに、底が見えなくなってしまったのかもしれない。ベッドが突然柔らかく沈み込み、真っ暗なところへ落ちていく私は、懸命に手を伸ばし這い上がろうとする。そんな錯覚すら起こしてしまう。



          2


 壁に掛かったビート板を眺めながら、スマートフォンで音楽を聴いていた。ザ・バンドのアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』。音楽というのは、頭の中で素早く記憶に触れてくる。聴いていた当時に見た景色や匂い、心情などが一気に思い出される。ザ・バンドを熱心に聴いていた高校生の頃の思い出が頭の中で巡った。


 ビート板を大事にするようになってから、良い事が身の回りで沢山起きるようになった。

 例えば、突然模試の成績が上がった。もともと平均点など夢のまた夢というくらいで、問題を解くスピードも遅く、最後の設問まで到達したことは無かった。それが急にゆっくり見直しまでできるほどに改善され、ぐんぐんと成績は向上し、学校内ではトップクラスに入るまでになった。

 また別の例では、趣味でやっていたゲームセンターのパンチングマシンで、突如全国ランキング上位に浮上した。特にトレーニングをした訳でもないのに、芯を捉えた見事なパンチングは周りの観客達を沸かせ、そのゲームセンターではちょっとした有名人になり、より一層強くなりたい一心で本格的に筋肉トレーニングを始めると、見る見るうちに身体が大きくなっていった。そして学校の友人達からは、ガリ勉マッチョマンと呼ばれ崇められていた。

 他にも部活動や学校行事でも、次々と良い事が起こっていったが一番印象深いのはやはり、全ての起点である井上さんだろう。


 ビート板をそれ以上のものに昇華してくれた井上さん。あのプールでの一件のあと、これまた偶然か必然か、席替えで隣同士になりそれまでの『何か話題はないか』と考えてばかりでなかなか話せなかった頃とは打って変わって、些細な事でたくさん笑い合った。井上さんの言葉一つ一つが高貴で神聖なものに思える程、俺は彼女に心酔していた。それだけで幸せだった。俺は彼女の笑顔を見るたびに生きている実感を強く持つ事ができた。だから、それ以上は何も望まなかった。。。


 本当に望まなかったのだろうか?


 俺はあまり人生の振り返りをしない。立ち止まる事なく前に進んできたつもりだ。そしてそれは間違いなく今の自分を作っていて、決して後悔している訳ではない。

 ただ、あっという間に過ぎ去っていく日常の中の判然としない一コマを、手に取って考える事はできなかった。特に高校時代の限られた時間の中で、モヤモヤとした感情を横目に、タイムオーバーになるのを待っていたのではないか。自分に言い訳をしながら。

 

 俺は井上さんの方へ、もう一歩踏み出す事ができなかった。


 ビート板よ。俺はあの時どうすれば良かったのか。たくさん与えてくれた幸せの中で唯一俺が目を背けたもの。あれから十年近く経った今でも心の片隅に居座り続けている。


『なるようにしかなりません。チャンスが目の前に現れたら、逃さない事。これからはそれを忘れないように。』


 俺の心の中で、ビート板が微笑みながら俺に語りかける。とても穏やかな声だった。



          ○


 俺は何を思ったか、ビート板を背負って街へ歩き出した。どこへ向かっているのかは分からないが、お守りとしてビート板を持ち歩きたいと強く思ったのだ。何も理解できないまま、夢中になって歩き続ける。


ふと、俺は今、未来を探しているのだと感じた。



          −2


 なんでもない毎日は自分の進歩の無さを浮き彫りにする。音の無い部屋の中、纏わり付くような重い空気に囲まれていると、もういっそ全てを終わりにしたいと思う時もある。暗いところへ沈み込んでいくのに抵抗して、溺れているかのように必死にもがいていたが疲れてしまった。暗い事を考えていると、何もかもが暗く見えてくるというのは本当らしい。私の目には、好きだった街の景色はもう無くなってしまった。

 

 ただ、もう決まっている面接だけはしっかりと受けなければ。私の為に時間を取ってくれているのだから。


 スーツ姿の自分をスタンドミラーでチェックすると、不意に涙が溢れた。これが今までの経験の集大成なのであれば、過去の自分になんと言い訳したら良いのだろう?

 街へ出て、なんて事ない足取りで歩く。私なりの精一杯で、社会に溶け込んでいく。


『雨だ。。。』


 突然の大雨。天気予報では晴れとあったから傘は持ってきていない。少し混み合ってはいるが商店街のアーケードで雨宿りする事にした。

 ついてないな。人が多くて苦しい。私はもう駄目なのかな。


『助けて。』


 色んな思いが込み上げる中、静かに呟いた心の言葉は、喧騒に埋もれて消えていった。



          ±0

 

          ○


(本日午後五時頃から突然の大雨です!各公共交通機関が乱れ、街の方でも傘を持っていない多くの人が商店街の中で雨宿りをしています!ここで何人か、少しお話を伺ってみましょう。)


(晴れの予報にも関わらず、突然の大雨ですね。やはり傘が無いのでここで待機しているということでしょうか?)

A『もうほんとに、びしょ濡れで大変!前が見えないくらいの雨だし、少し収まるのを待ってるのよ。』

(なかなか無い、猛烈な雨の勢いですからね)

A『ところでこれは何?何かの撮影?生放送?ガッツリ私映ってるわね。』

(これは研究兼趣味で撮っているインタビュー映像です。どこにも公開しませんが、ご迷惑だったでしょうか?)

A『迷惑じゃないけど、“インタビュー良いですか?”くらいの一言があった方がいいんじゃないの?』

(すみませんでした!確かに最初の一言が何もなければ無礼ですね。良い意見ありがとうございます!そしてインタビューもありがとうございました!)


(インタビューよろしいでしょうか?)

B『はい、大丈夫ですよ。YouTubeか何かですか?』

(いえ、研究兼趣味で撮っているやつです!お兄さんは傘を持ってるようですが、雨宿りですか?)

B『そうですねぇ、これは傘があっても流石に行けないです。風も強いし。買った本が濡れるのは嫌なんで。』

(ちなみに何を購入されたんですか、、、。あっ!!これはメンタル弱男の新作書き下ろし『ハエ、そして一つのセレナーデ』じゃないですか!!読みたかったんですよ、これ。僕も後で買おっかな。)

B『なんか二話あるうちの一話目らしいですよ。僕も早く読みたいのに、雨が一向に止む気配がない、、、』

(止んだらすぐ読みましょう!僕も読みます!どうもインタビューありがとうございました。)


(インタビューよろしいでしょうか?)

C『はい、いいですよ。』

(それはなんですか?背中にある、、、、、ビート板??)

C『そうです。あるいはお守りです。ずっと何年も家に置いてたんですけど、持ってきました。』

(プールに行かれる予定でした?)

C『いいえ、持ち歩いているだけです。その事が大事だという気がするんです。』

(面白い理由ですね。僕には到底理解できません!)

C『僕にも全く理解できません。』

(なかなか興味深いです!またどこかで会ったらインタビューさせて下さい!)

C『ぜひぜひ!』



          ○


 私は目を疑った。人混みの中、遠くに見えるビート板、あれは確か、、、。


 私は高校生の頃を思い出す。ずっとモヤモヤとしていた感情。一歩踏み出す事ができなかった、覚悟が足らなかった自分の弱さ。


 ずっと木下君の事が好きだった。


 話しかける勇気を持てないまま、思いだけが増していく日々に疲れてもいた。


 でもあのビート板が全てを変えてくれた。私はあのビート板がきっかけで自分から話しかける事ができた。苦しさや悩みなんて一気に吹き飛んで、目の前が明るくなった。こんな些細なきっかけで未来の色がこんなにも大きく変わるなんて思わなかった。大袈裟かもしれないけれど、あのビート板には見えない力が漲っていると思う。


 私は迷わなかった。急いでビート板の方へ近づいた。そこにいたのは、、、。


『あっ!!、、、』


『うん。久しぶりだね、木下君!』


『久しぶり!』



          ○


 また沈みゆく私をビート板が救ってくれた。木下君とのこの出会いは私を前に向かせてくれた。

 これはビート板が繋いでくれた、木下君と私の物語。



          ○


 人生は些細なきっかけで大きく変わる。



 

 




          


 




 

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