#140 幸せの探求者の敗北
星夏との口論から二日が経った今日。
俺は
告訴内容の説明のために向かった場所は星夏が住んでいたアパートだ。
事前に来ることは信さんから伝えられている。
意外にも、わざと出掛けたり居留守を使うこともなくすんなりと顔を合わせることが出来た。
諦観か自棄か……はたまたこの場に居ない星夏を責めるのか、いずれにせよやることは変わらない。
居間の中央に置かれたテーブルを挟む形で腰を降ろすと、信さんが咲里之へ名刺を差し出す。
「弁護士の雨羽です。事前にお知らせした通り、本日は娘である星夏さんに対する保護責任者遺棄罪についての説明に参りました」
「ふん、どーせアレから色々聴いてるんでしょ? ていうか、なんでそのガキがいるわけ?」
「俺は星夏の代理だ。もうお前と会わせるつもりはない」
「ッチ。偉そうに……」
そうしていざ相対した咲里之は、以前に会った時と変わらず不機嫌さを隠しもせず露わにしていた。
だが俺は部屋を軽く見渡して、些細な疑問を覚える。
少し逡巡して、何が気になったのかを悟った。
「清水さんは居ないんだな?」
そう、再婚したはずの清水さんの姿が見当たらない。
告訴が通った場合、彼には証人として話をして貰いたかった。
咲里之の性格を考えると、清水さんが居ない理由は恐らく……。
「ッハ。別れたわよ、あんなヤツ」
「……少なくとも向こうはアンタのこと真剣だったみたいだぞ?」
「あぁ、離婚を切り出したら色々言ってたわね。もう間違えないだの愛してるのはキミだけだの……ッハ。他の女に欲情した男の言うことなんか信用出来る訳ないでしょ」
やはり、二人は離婚したようだ。
彼の行為は咎められるべきモノだが、星夏への罵詈雑言を聴いた上でなお、咲里之と共にあろうとした心意気だけは歪んでいなかったらしい。
しかしそうして寄り添おうした彼も、星夏と同じように切り捨てられた。
咲里之にとっては再婚を決めたはずの清水さんでさえ、簡単に見限れる程度の存在だったのか……。
改めてこの女の独り善がりな性格を垣間見て、元から濃かった悪印象が更に上塗りされる。
「さて、咲里之侑香さん。今回は略式的な形での告訴内容の説明となりますが現在、あなたには主にネグレクト行為による保護責任者遺棄罪の疑いが掛けられており、他には暴言等から心理的虐待による脅迫罪と恐喝罪及び強要罪にも相当します。いずれも録音した実際の会話、近隣住人への聞き取りなどから十分に立件可能と判断される可能性は高いでしょう」
信さんがカバンから書類を取り出し、スラスラと咲里之が犯した罪状を挙げていく。
だが彼女は激昂することなく冷然としたままだった。
その様子を不気味に思っていると咲里之が口を開く。
「ふ~ん……録音とかしてたんだ。目の前から居なくなっても人の足引っ張ることしかしないとか、正真正銘の疫病神じゃない」
「テメェ……」
自分が罪に問われる可能性が高いと聴かされたはずなのに、まるで反省の色も見せないどころかこの場に居ない星夏を責める言い草を口にする。
堪らず怒りから睨むが、咲里之は大して気に留めないまま信さんに目を向けた。
「それで? 起訴になったらどうなるわけ?」
「目立った傷害や身体的な後遺症がないことを加味したとしても、三年近くの懲役または多額の慰謝料を支払う義務が生じます。星夏さんの親権については言葉上は絶縁を伝えられているので破棄と見ていますが、一応は審議される運びです」
「アレの親権なんか、審議なんて通さなくてもこっちから願い下げよ」
「……法律上、審議は必要なのでそうはいきません。仮に絶縁が認められた場合、接触が確認された時に違反と見なしますのでそのつもりで」
「フン」
星夏の親権を放棄とも言える程に軽く扱う物言いに、どうしようもない怒りを感じてしまう。
けれども信さんが冷静に話している以上、星夏の代理である俺が感情に任せる訳にはいかない。
それにしても咲里之の態度は本当に不可解だ。
なんでここまで落ち着いているのか、気味が悪くて仕方が無い。
逆上でもするだろうと思っていただけに、微塵も楽観視出来そうになかった。
……いや、この女は自分に非が無いと本気で思い込む性格だ。
となると自分に突き付けられた罪に関しても、星夏のせいだと思うことで真剣に受け止めていないんだろう。
最早、一種の現実逃避でしかない。
もうコイツには何を言っても、何をしても意味なんてないとすら諦観しそうになる。
「以上の告訴内容を家庭裁判所に提出し、受理されれば裁判で本格的な起訴となります」
「あっそ」
既に興味なさげに返す咲里之だが……。
「ですが、娘さんはあなたを告訴するつもりはないとのことです」
信さんが告げた言葉によって状況が大きく変わった。
「────…………は?」
それまで他人事にように流していた咲里之だが、こればかりは愕然と呆けた。
何気に初めて見た反応から、余程の衝撃を受けたのだと察する。
「……何言ってんの? 頭、おかしいんじゃない?」
やがて理解が追い付いたのか、咲里之はわなわなと声を震わせながら戸惑いを零す。
イヤでもコイツの気持ちが分かってしまう。
星夏が選択した答えは話の根本を容易く覆して、俺や会長でも驚きと動揺を隠せなかったのだから。
もちろん考え直せと言った。
いくらなんでも甘過ぎるって口酸っぱく何度だ。
それでも星夏は頑なに咲里之を訴えないと固持し続け、俺が折れるしかなかった
「嘘偽り無い事実です」
「じゃあさっきまでのアレコレは何だったの? とんだ茶番じゃない。バカにも程があるわ……」
毅然とした態度の信さんから真実だと返され、咲里之は呆れながらもその表情からは疑問を隠せていない。
訴えれば立件はほぼ確実で、戸籍上でも絶縁出来る上に多額の慰謝料も手に入るというのに、それを拒否した星夏が出した答えをコイツは永遠に理解出来ないだろう。
俺にとっては別にそれでも良いんだが、アイツから頼まれたことだけは果たすつもりだ。
だから俺は告げる。
「『どうか元気で幸せになって欲しい』」
「は? いきなり何?」
「星夏から預かった、アンタに向けた最後の伝言だ」
「…………」
あんな扱いを受けたというのに、それでも星夏は母親を想う情を捨てていなかった。
だが決別はもう避けられない。
でもだからこそ、彼女は自分の正直な気持ちを伝えたいんだと言っていた。
そんな一人娘の言葉を受けた咲里之は、目を見開いて絶句する。
ほんの数瞬の茫然から戻り、理解が追い付くと傍から見ても分かる程に全身を震わせ始め……。
「──っ、ふっ……ふざっっけんじゃないわよっっ!!」
俺と信さんの存在に構わず、かつてない程の怒号と共に両手で髪を掻き毟りながら激情を露わにした。
「幸せになって欲しいって、何様のつもりよアイツっ! 自分の方が幸せだから私は惨めで憐れだって言いたいワケ!? あぁぁあああぁぁぁぁぁクズのゴミカスのクセに、調子に乗って偉そうに見下してんじゃないわよクソクソクソクソっっ!!」
半ば狂乱したように星夏への恨みを吐き散らかす咲里之は、今までの強気な態度が完膚なきまでに崩れ去るくらい無様だ。
自分の罪を突き付けられても動揺しなかったのに、まさか伝言だけでここまで激昂するとは思わなかった。
あぁ、でもそういうことなのか。
優しさは時として凶器になる。
自分が見下して蔑んでいた星夏から向けられた情が、コイツにとって耐え難い苦痛を齎すナイフとなって刺さったんだろう。
星夏がこうなると意図して伝言を頼んだとは思えない。
だからこれは完全に咲里之の被害妄想だ。
そして……。
「言われたくらいで幸せになれたら、こんな人生送ってないわ! 幸せになりたくて何が悪いの!? 私だって幸せになりたいのに、どいつもこいつも邪魔ばっかしてうんざりよ!」
咲里之侑香という人間が、なんとなく分かった気がした。
金持ちの男と付き合ったり結婚したのも、放置していた星夏を無理矢理連れ戻して仮面の家族を演じたのも、全ては言葉通りに幸せになるためなんだろう。
別に幸せになりたい気持ちが悪い訳じゃない。
その目的自体は誰しもが懐く当たり前のことで、俺と星夏は互いが幸せであって欲しいと想い合っている。
きっと咲里之が求めているのはそういう幸せなんだろう。
だとしたら、この女にはどれだけの時間と手間を掛けても手に入らない。
何せ、自分一人だけの幸せしか考えていないからだ。
だから周りの人の感情や都合に目を向けず悉く無視する。
幸せになりたい自分が正しいと思い込んでいるから、物事の責任を他へ押し付けるんだ。
奇しくもそれは、閉じ籠もっていた時の星夏とどこか似通っていた。
もし星夏が俺と腐れ縁じゃなかったら、咲里之と同じく独り善がりの理想に縋っていたんだろうか。
あり得たかもしれない可能性にゾッと背筋が凍ると同時に、そうならなかった現実に止め処ない安心感を覚える。
「おかしいのはアンタもよ、このクソガキ!」
「あ?」
安堵に浸るのも束の間、何を思ったのか咲里之は唐突に俺を非難し始めた。
訳が分からず首を傾げてしまうが、その反応が気に食わない咲里之が更に吠える。
「あんなクズのどこが良いのよ! 顔? 身体? ッハ、ハ。どうせアレはアンタを捨てて他の男に尻尾を振るに決まってるわ! 今までだってそうだったんでしょ? そんなヤツが幸せになれるワケないじゃない! 精々ありもしない愛に浸ってなさいよ、このガキが!」
「……」
なんで俺はこんな女にわざわざ怒ったりしていたんだろうか。
そう思ってしまう程に、負け犬の遠吠えを続ける咲里之はあまりにも憐れで矮小な存在に映った。
……訂正だ。
俺の存在が星夏の支えにはなってるとは思いたい。
というかそうあって欲しい……でも、咲里之と星夏には決定的に違う部分があった。
それが分かったからこそ、俺は星夏を好きになって良かったと思える。
堪らず笑みが浮かんで頬が緩んでしまいそうだ……。
「なにヘラヘラ笑ってんのよ!」
おっと、本当に緩んでたのか。
思わず顔に出ていたようで、それが咲里之の気に障ったらしい。
えぇっとなんだっけ……星夏の良かったと思うところ?
あり過ぎて咄嗟に纏められそうにないけど、そうだな……。
「──アンタは……腐れ縁の独りぼっちが自殺しそうだって分かったら、自分を身体を差し出してでも止めたいと思うか?」
「……は?」
「良い人がいるなら、自分よりもその人と付き合うように奨められるか?」
「い、いきなりなに?」
「自分を貶して蔑む親を恨むどころか、その先の幸せを願うことが出来るか?」
「っ、するわけないでしょ、そんな面倒なこと!」
「だろうな」
どこまでも自分が幸せになることしか考えていないお前に、今言ったことが出来る訳がない。
でもそこなんだよ。
「何が言いた──」
「星夏はそうしたんだよ」
「ぃ……あ?」
お前が面倒だと切り捨てた事柄を、星夏は全て行ってきた。
「独り善がりで周りの幸せを妬むアンタと違って、星夏は自分以外の幸せを願ってそのために動くことが出来る。それが俺が彼女に惹かれた一番の理由だ」
処女じゃないからって、多少の恩がある自殺志望の腐れ縁に自分を抱かせたりしない。
それが出来たのは間違いなく、星夏が誰かの幸せを想える女の子だからだ。
だから俺は……捨てようとした命を奮い立たせるくらいに星夏を好きになって、彼女を幸せにしたいと強く願った。
どれだけお前がアイツをクズと切り捨てようが、それは決して覆らない。
「アンタが苛まれている敗北感と劣等感は、今まで周りを省みなかったアンタへの報いと責任だ。それだけはどんなに目を逸らしてもこの先ずっと抱え続けなきゃいけない。楽になる方へ逃げたその瞬間に、アンタは本当に自らの負けを認めることにもなる。それがイヤなら願われた以上に幸せになるんだな。……でなきゃずっと、惨めで憐れなままだぞ」
「……っっ!!」
最後にそう告げると、咲里之は脱力したように項垂れた。
もう言うことは何もない。
隣で静観していた信さんに一言声を掛けてから、一緒にアパートを出た。
彼の運転する車に乗ろうとした瞬間、アパートの方からガラスのような何かが割れる音が木霊する。
『~~っ! ……、~っ! ……~~っ!!』
よく耳をすますと、声にならない悲鳴が混ざって聞こえた。
多分、音と声の正体は咲里之だろう。
これから辿るであろう茨の道から、少しでも逃れようとしているのかもしれない。
そうして道から外れようとしても、今度は茨のトゲが刺さって更なる苦痛が齎される。
自らの幸せだけを求め続けた人間が歩む末路は、どこまでも虚しい先の見えない迷路みたいだった。
その先が望んだ未来に繋がっているかどうかなんて……俺は知らないし、知ろうとも思わない。
一瞥してから改めて信さんの車に乗って、アパートを後にするのだった。
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