#137 不相応な期待なんかより



 ──梓河あずかわ星夏。


 それが両親が離婚するまでのアタシの名前だった。

 離婚を機に咲里之の姓になった当初、梓河と呼ばれることがとてもイヤだったっけ。

 こーたが初めて名前で呼んでくれてから、誰かの口から梓河の名前を聞くことはなくなった。


 後は忘れるだけだったけれど、アタシの記憶からお父さんだった人──梓河晋吾の顔と名前は消えないまま残り続けてしまう。

 浮気なんてする最低な人なのに、忘れたくても忘れられなくて……。


 あの人の浮気相手が真犂さんだったなんて思いもしなかった。

 決して深く知ってる訳じゃないけど、少なくとも浮気に付き合うような人には思えないからだ。

 そんな彼女の失敗談……浮気をしたんだからそう例えてもおかしくない。

 でも流石にただの昔語りじゃないことくらい、アタシでも分かった。


 集中して話を聴くためにも、真犂さんを中に入れて互いに腰を降ろす。

 自分がどうすればいいのか決めるためにも、ちゃんと耳を傾けようと心に決める。


「晋吾と出会ったのは八年くらい前……あたしが大学生の頃だ。当時のバイト先だった居酒屋にアイツは会社の上司と飲み会に来たんだ」


 八年前……浮気の発覚と離婚が七年前だから、二人は一年も交流があったみたい。

 その頃にはあの人はアタシ達に愛想を尽かしていたのかな……。


 もう会うこともないから、別にどうだって良いけど。


「その時にちょっとしたトラブルに巻き込まれてな。そこで晋吾に助けられたのを切っ掛けにちょいちょい会うようになって、二ヶ月経った頃には付き合うようになった」


 かなり省いてるけど、真犂さんにとって話す必要が無い部分ってことだと思う。

 アタシだって自分の元父親が浮気に至った経緯とかどうでもいいから特に気にしない。


「付き合ってる時は文句なしに楽しかったよ。やることやって、それこそお前らみたいに燃え上がるような恋をしてな」


 そういう真犂さんの表情には、隠しきれない自嘲が滲んでいた。

 未練、というより後悔?

 どうしてそんな表情をするのか気になって仕方が無かった。


「付き合ってこそはいたけど、そこまで頻繁に会ってた訳じゃねぇんだ。精々が二週間に一回とかな。理由を聴いたら仕事が忙しいからって言われたけど、あたしはそれを社会人と大学生じゃ時間が合わなくても仕方が無いって都合良く解釈したんだ」

「それは……」


 仕事が忙しいなんて嘘だ。

 浮気が発覚する瞬間まで、アタシ達は表向きは普通の家族と変わらなかったのは憶えている。

 真犂さんと会うために出張や残業を言い訳にし続けるのも不審だから、時間を空けることで疑われないようにしたんだと思う。


 それなのにスマホのロックを掛けてなかった凡ミスでバレたんだけど。


「で、だ。あたしにとっては順調な交際だった訳だが、終わりが来るのは唐突だった」

「終わり……」


 多分、それが真犂さんがあの人と別れることになった原因なのかな。


 何があったのか耳を傾けて……。


「そろそろ付き合って一年になるって頃に、いきなり金の入ったバッグを渡されて別れようって切り出されたんだよ。金の方はつまり手切れ金な」

「っ!」


 お母さんがクズと評した通りの身勝手さで以て、真犂さんはあっさりと捨てられたと聴かされた。

 付き合って一年ってことは、離婚してから間が空いてないってことになる。

 アタシとお母さんを捨てただけじゃなくて、あの後に真犂さんも切り捨てたんだ


「あまりに唐突で、金なんかまるで気にならなかった。晋吾になんでだって問い詰めたらさ、アイツなんて言ったと思う?」


 当時の自分を思い返してか、自嘲しながら一呼吸の間を空けてから続けた。


「『別れた妻子と関係を絶つ代わりに、怜との関係も絶つように実家から言われた』ってさ。その時に初めて晋吾が妻子持ちだったことを知ったんだ。自分の恋がアイツの浮気に付き合わされてたって気付いた時は思い切り絶望したもんだ」

「そんな……」


 真犂さんはアタシとお母さんのことを知らなかった。

 知らない内に裏切りの片棒を担がされていたなんて、どうして想像出来るんだろう。


 真犂さんがあの人に向けていた気持ちは紛れもない本物だっただけに、その真実を知った時の絶望は計り知れない。


 そんな風に彼女を捨てておきながら、あの人は平然と新しい家族を作っていた。

 もしこの話を先に知っていたら、それこそ目の前で吐いていたかもしれない。

 そう予感すると同時に、この身体に流れる血の半分がより一層悍ましく思える。


「手切れ金は一千万ぐらいだった。アイツにとってあたしの価値は、そんだけの額で切り捨てられる程度なんだろうさ。っま、そんな金はさっさと手放したかったから、店を建てる資金にしてやったけどな」


 そこでハーフムーンの開店に繋がるんだ。

 大学生の頃から喫茶店を開く目標があったからこそ、思い切って使い切れたのかも。


 あれ、でもそれならおかしくない?


「あの、これって失敗談なんですよね?」

「おう」

「だったら真犂さんの失敗ってなんですか? 浮気の片棒を担いだこと?」

「いんや、それよりもっと前の段階の失敗だ」

「前の段階?」


 要領を得られなくて疑問符を浮かべるアタシに、真犂さんはどこか遠い目をして口を開く。


「なぁ星夏。人が人に向ける感情で一番強いのは何か分かるか?」

「え……? け、警戒心、とか?」

「残念ながらノーだ。正解は『期待』だよ」

「き、期待……?」


 なんでそうなるの?

 言いたいことがイマイチ分からなくて首を傾げてしまう。

 そんな反応をするアタシがおかしいのか、真犂さんは笑い声を殺しながら続ける。


「つっても信頼を寄せての期待じゃねぇぞ? よぉく思い出してみろ。お前は元カレ達から告白されて付き合う時、何を期待した?」

「……り、理想の人だったら、いいなって……」

「そういうことだ。人間ってな、無意識に誰もが誰かに向けて『こうあって欲しい』っつー期待を大なり小なり向けるんだ……善悪問わずな」

「ぁ……」


 そう言われて何が言いたいのかを悟った。


 思い返してみれば、心当たりはいくつもあったからだ。

 元カレ達からの告白もそうだけど、アタシがエッチしたくないって断ったらいきなりフラれたのもそういうことなのかな。


 テレビで見る俳優やアイドルが何かしらの騒動を起こした時に、裏切られたって騒ぐ人達みたいなのが近いのかもしれない。


 逆に悪印象を持つ人に対してもそうだ。

 お父さんだった人はアタシの中では『浮気をして妻子を捨てるような人』だって決め付けている。

 その決め付けこそが、そういう人であって欲しいっていう期待なんだ。

 だからどれだけ今の家族を大事にしても、その言葉を信じられない。


 そう理解した今でも、あの人への認識を正す気は無いけど。


「恋愛だと特に寄せる期待は大きくなりがちだ。なまじ理想の異性像があるヤツ程、その型に嵌めてまともに現実のソイツを見ようともしない。そのくせ期待に応えられなかったら見損なったとか裏切ったとか騒ぎやがる。星夏なら分かるんじゃないか?」


 見透かすような真犂さんの物言いを、否定することなく頷いて肯定する。


 言われたとおり、こーたに対してもアタシは勝手な期待を寄せていた。

 こーたならアタシを見捨てないとか、こーたならアタシを何より優先してくれるとか。

 もしかしたらこーたの方も……そう思えるくらいには腑に落ちた。


「昔のあたしもそうだった。晋吾はあたしを大事にしてくれる、とかバカみたいな期待を向けてばかりで、性格とか好みとか具体的な仕事とか何も知ろうとしなかった」

「知ろうと、しなかった……」

「あぁ。。ありもしない空想に縋らずに現実のアイツのことをちゃんと見ていれば、浮気の片棒をもっと早く下ろせたかもしれない。それがあたしにとって一番の失敗だ」

「……」


 好きの気持ちに浸って相手を理解した気になる……。

 その悔いの言葉を聞いて、アタシは胸の奥が締め付けられるような錯覚を懐いた。


「好きって気持ちは確かに大事だ。けどそれだけで相手に何もかも期待して良いわけじゃない。ソイツの人となりや趣味趣向とか、隣り合っていくために知ることは山ほどあるもんだ」

「でも、もしそれで嫌われたりしたら……」


 真犂さんの言いたいことはなんとなく分かる。

 自分のことを知りもしない人、逆に自分が知らない人から好きとか言われても迷惑なだけだから。


 けれど、自分を知って貰う中で嫌われたらどうするの?

 好きな人の苦手な部分を知って嫌いになったら?

 そう考えると、どっちも深入りしない方が良いんじゃないかって思えてしまう。


「──ッハ」


 そんな後ろ向きな言葉に、真犂さんは鼻で笑って一蹴する。


「変にデカい期待を持つから、応えられなかった時に出来る傷だってデカくなるに決まってんだろ。んな膨らみすぎて重荷でしかない期待なんて捨てた方が楽だぞ? そのためにまずは何でも良い……康太郎と話し合え」

「話し合う……?」

「おぅ。一回腹の内を曝け出し合って、アイツのことを知っていくんだよ。期待する姿なんてあやふやなモノより、良いとこも悪いとこも見知った現実の姿の方がよっぽど信頼出来るだろ? 一個短所を知ったって二個の長所を見つけりゃ良いだけだし、そもそも……汚い部分を知ったからって、康太郎の良いところが無くなったりしねぇーっつの」 

「──っ」


 真犂さんの言葉を一つ一つ呑み込む度に、冷たい胸の内に灯る熱が温度を上げていくような気がした。


 やっと分かったことがある。

 アタシは現実から逃げて目を逸らすのに必死で、差し伸べてくれていた手を無視してたんだ。

 お母さんの言った通りになりたくない一心から自分のことばかり考えて、こーたの気持ちを決め付けてちゃんと分かってなかった。


 そんな態度を取られ続けたら、いくらこーたでも怒るに決まってる。


 謝らなきゃ……でも……。


「──不安か?」

「っ……はい。あんなに怒らせたのに謝って許して貰おうなんて虫が良すぎるかなって……。元通りになれなかったらどうしようって考えちゃって……」


 今度は後ろ向きな思考で頭が一杯になって、駆られた不安から気落ちしてしまいそうだった。


 それだけのことをしでかしたんだから、簡単に許されるはずがない。

 最悪の場合、こーたに嫌われてる可能性だってあり得る。


 考えても悪いことばかり思い浮かんで、坩堝に嵌まったみたいに抜け出せなくて……。


「コラ」

「った……」


 不意に額に小さな痛みが走った。

 何なのか顔を上げて、真犂さんにデコピンされたことに気付く。


 茫然としているアタシに、彼女は仕方ないなって呆れたように微笑みを浮かべた。


「安心しろ」

「ぇ」

「康太郎はこんなことで初恋を捨てる薄情なヤツじゃねーよ。閉じ籠もるくらい怖がったってことは、それだけアイツのことが好きだって証だろうが。心配しなくても、お前らはまだ恵まれてる方だっつの」

「め、恵まれてる……?」


 思いがけない言葉に戸惑いながらも聞き返すと、真犂さんは『おぅ』って頷きながら続ける。


「あたしの時は唐突で話をする暇も無いまま、金だけ渡されて捨てられた。けどお前らはちゃんと互いに向き合おうとして、そうして話すだけの時間も余るくらいある。第一まだ学生だろうが。燃え上がる恋をしてるんだったらまずは気持ちをぶつけ合って、後のことは二人で考えりゃ良いんだよ」


 あたしはそういうガキっぽい恋なんざ二度とゴメンだけどな、って真犂さんが話を切り上げた。


 堪らず吹き出しながら、改めて気付かされる。

 また難しく考え込んじゃってたんだって。


 そっか、うん。

 確かにそう言われるとアタシは凄く恵まれてる。

 心配してくれる人がいて、過去を明かしてでも間違いに気付かせてくれる人がいて…………好きになってくれる人がいるんだから。


 血の繋がった両親がいなくたって、それだけアタシを気に掛けてくれる人がいるんだって痛感した。


 そんな人達にアタシが出来ることがなんなのかはまだ分からない。

 でも少なくとも……ついさっきみたいに疑心暗鬼になったり、甘えるだけなのはやめた方が良いっていうのは分かる。


 そのためにもまずは……。


 ──バンッ。


「──星夏!」

「!」

「お?」


 一番大事な人と話をしなきゃいけないよね。


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