その六

 早苗は芸術大学の二部でイラストの基礎を学び、卒業した。

 当り前の話だが、幾ら基礎技術を身に着けたからといって、すぐにその世界で食べて行けるほど甘くはない。

 卒業後、伝手つてを頼ってこの教会の付属施設・・・・彼女が子供時代を過ごしたと同じ児童養護施設で、指導員としての職を得た。

 幸い、大学時代に美術教師の資格も取っていたから、それが役に立ったんだろう。

 一通り話を聞き終わってから、俺はコートのポケットに手を入れ、預かっていたビロードのケースを出してテーブルの上に置き、紅茶で唇を湿らせてから、依頼の主旨について話し始めた。

 早苗の方は目を伏せ、黙って俺の話を聞いている。

 話を聞き終わると、彼女はケースを見て、

『構いませんか?』

 と、ごく自然な調子で訊ねた。

『ええ』

 俺は答える。

 早苗はケースを手に取り、蓋を開けた。

 中には例の、なんて事のない銀色のリングと、そしてその先に付けられた、凡そ0.1カラットあるかないかという、米粒みたいなダイヤである。

 依頼人の安田耕三氏が言っていたように、どこの宝石店でも買える安物、恐らく1万円で売れればいいところ。

 彼女はしばらくその指輪を眺め、それから蓋を閉じ、テーブルの上に置いた。

『で、どうします?』

 俺の言葉に彼女はしばらく何も答えなかった。

 黙って紅茶を飲み、時が流れる。

 彼女はそのまま、ケースをしまい、それから顔を上げ、俺の目をまっすぐ見つめながら言った。

『その・・・・安田さんて方、今どこにいらっしゃるんですか?』

 彼女の言葉には、父親に対するというより、どこかよそよそしい調子が感じられたが、少なくとも悪意や敵意と言ったものは漂ってこなかった。

『どこかは私にも分かりません。何しろ彼の置かれた状況が複雑ですからね。で、

 聞いてどうするつもりです?まさか・・・・』

『いいえ、ただお目にかかってお礼が言いたいんです。本当にそれだけです。』

『分かりました。依頼人にはそう伝えます』

 俺はそう答え、残りの紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『ほんとに、ほんとに彼女がそう言ったんですかい?』

 安田耕三は、ベッドに横たわったまま、俺の方に顔を向けた。

 片方の腕には点滴のチューブが刺さり、リンゲル液がゆっくりとした速度で、彼の体内に落ちている。

 

 ここは、都内にある某慈善病院。ここ一週間ほど、彼はここに入院している。

 体調が思った以上に悪くなったからだ。

 彼は”今更入院したってどうにもならない”と渋っていたのだが、親分が説得し、そして彼のはからいで、やっとこの病院に落ち着くことが出来たという。

『ああ、確かだよ。だから彼女にここの住所を教えてもいいな?』

 俺の言葉に、彼は嬉しそうな、しかし何だか戸惑ったような声を出した。

『思ってもいなかった。そんなこと・・・・でも、向こうがそう言ってくれたな

 ら、一度くらいは会ってもいいかな・・・・』

『よし、じゃ、教えるよ』

 彼は黙って頷き、それから枕の下にしまってあった財布から10枚程度の現金を取り出し、

『今手持ちはこれしかありやせん。残りは親分に預けてあるんです。心配しねぇでください。』

 俺は椅子から立ち上がり、

『いや、これだけあれば十分だよ。僅か10日にも満たない仕事で余分に貰うなんざ、筋が通らんでしょう。私だってそんなに因業じゃありませんからね』

 それだけ言うと、そのまま病室を後にした。

 公衆電話から(くどいようだが、俺は携帯は嫌いだ)から、病院の名前と住所、そして連絡先を早苗に教えて置いた。


 その日は、年末とはいえ、風も吹かず、嫌な雲もどこかに行って、久しぶりに温かい日よりだった。

 俺はデスクの上に足を投げ出し、掃除の終わった事務所で、のんびりと午睡ひるねを楽しんでいた。


 今年ももう、やるべきことはやったんだ。

 後は暢気に年を越すのを待つだけだ。

”なんだよ。またあんたお得意の尻切れトンボか”

 うるさいな。

 少し黙っててくれないか。

 まあ仕方ない。

 話してやるよ。

 早苗はあの後、病院を訪ね、俺の依頼人と面会したそうだ。

 言葉はなかった。

 ただ、

”母のことをそこまで思ってくださって有難うございました。”と、感謝の気持ちを述べ、

”指輪、大切にします。母の形見だと思って”そう付け加えたという。

 依頼人の安田氏も、何も言わずに涙を流し、彼女の手を握りしめた。

 それで終わりさ。

 もういいだろ。

 え?

”怖い組織の残党はどうなった”

 さあ、どうなったかね。

 どうせあんな連中の事だ。

 ロクな目に遭ってないことだけは確かだろうな。

                              終わり

*)この物語はフィクションです。登場人物その他全ては作者の想像の産物であります。






  

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