バグったー

高山小石

バグったー

「じゃ、じゃあ、お先に」


「今日もハニーちゃんとデートか?」


 うなずく相原に、杉野は続けた。


「合コンがダメなら友達紹介してって頼んでくれよ」


 相原はあいまいに笑うと研究室の扉を閉めた。


 彼女との待ち合わせはいつも決まった時間と場所だが、いちおう確認しようとポケットに手を入れると、あるはずの携帯電話がない。

 閉じたばかりの扉に手をかけた時、研究室から内田と杉野の会話がもれ聞こえてきた。


「杉野センパイ、相原センパイによく軽口叩けますね。ジブンあの人殺しフェイスと目を合わすのもコワいっす。さっきも『ブチ殺す』って感じだし、声だって」


「慣れだよ、慣れ」


 杉野は、実際の相原が凶悪な見た目とは裏腹に気の弱い男だと知っているだけなのだが、都合のいい誤解をとくつもりはない。


「サスガっす。あ、相原センパイのカノジョさん、ジブンまだ見たことないんすよ。弁当とかスイーツとかよく作ってますけど、ナニ系なんですか? オカン系? まさかのお水系?」


「かなりカワイイ清楚系」


「ええェ? マジっすか?」


「ほんとなんで相原と一緒にいるのかわかんないくらいスペック高いんだよ」


「どうやってお付き合いに? やっぱ脅して」


 そこまで聞いて、相原は携帯電話をあきらめ、2人に気づかれないように静かに立ち去った。


 『どうしてつきあっているのか』

 それこそ相原が知りたいことだった。


 彼女に直接きいてみたいけれど、はっきり口に出してしまえば今の穏やかな2人の関係が終わってしまいそうで言えないでいる。


 約束の場所で嬉しそうに笑う彼女の顔に嘘はない、ように見える。

 腕をからめた瞬間、周囲から忌々しそうに立ち去る男の姿なんて見慣れたものだ。

 2人で歩けば、驚いた顔や心配そうな表情で振り返られるのもいつものことで。

 

 本当にわからない。

 どうして彼女は僕なんかとつきあっているのだろう?


 彼女と一緒にいるときは彼女の一挙一動に夢中で、なにも考えられない。

 もやもやするのは自宅に戻ってからだ。


 メールでたずねるのはどうだ?

 いや、文章だけだと微妙なニュアンスがよくわからない。やっぱり顔を見ているときだ。


 でも、面と向かってそんな質問はできないから、映画の最中にさりげなく。

 いやいや、せっかく映画を楽しんでいるときに質問してどうする。せめて終わってからだろう。


 それだと映画を観ていなかったみたいで失礼か。

 そもそも、どう言えばいいのかわからない。


 相原は練習のつもりで、口に出してみた。

「な、なんで僕とつきあってるの?」

 ストレート過ぎるか。


「じ、地味で会話力もない僕と一緒にいて、楽しい?」

 自虐的か。


 明るい電子音が相原の思考をさえぎる。

 自室で立ち上げたまま放置されていたPCに、杉野からのメッセージが表示されていた。


『ハニーちゃんもいいけど、研究もな!』


 相原は頭を切り替えた。


 杉野、内田と共同研究しているのは、蜂の行動を蜂自ら報せてもらう方法だ。

 2006年にアメリカでミツバチが大量にいなくなった。

 すでに複数の原因は解明済みだが、『蜂の異常の早期発見にはどうしたら良いか』が研究のテーマだ。

 相原たちは『蜂の居場所がわかればいい』と考えた。

 蜂に発信機をつけられるのなら簡単だが、超小型でも違和感や電波が生態に影響する可能性があるので、違う方法を考えるのが課題だった。

 ただ、その方法がさっぱり浮かばないので、早くも研究は頓挫していた。


 また電子音が鳴った。

『お友達紹介の話、ハニーちゃんにしたか?』

『てか、さっさとスマホにしろよ』


 メールはともかく、このメッセージのやりとりだけでも億劫なのに、まだ誰かの思考を読むなんて。

 蜂からなら喜んで読むんだけど。そもそも蜂は文字を使えない。

 写真でもいいな。

 鮮明じゃなくても、枚数があれば解明できる。

 そうだ。どうにかして蜂が見たままを送れないかな。


 良い考えだと思ったのに、翌朝になっても考えはまとまらなかった。


 昼休みの学食で、久しぶりに遭遇した友人、工学科の山下は、いつも以上に暗い声でつぶやいてきた。

「研究……進んでる?」


「す、進む以前。テーマが決まっただけで、どこに向かえばいいのかも、全然」

 そのまま相原は、思いついたばかりの『蜂から写真を送ってくれたら喜んで見るのに』という話をした。


 大柄で極悪顔の相原はラフスタイルでもストリートギャングに見える。対する山下はひょろ長い体を白衣に包み猫背で長髪に顔が隠れている。そんな2人がぼそぼそと話している様子は、まさに密談だ。


「ねぇ、今、写真送るとか聞こえたんだけど、脅しの材料?」

「視線合わせるなよ。巻き込まれるぞ」


 話し込む2人から漏れ聞こえるワードに、勝手に周囲の誤解は膨らみ、2人のまわりから人波が引いていくのだが、2人は気づかない。


「画像は……テキストより重い」


 真面目なダメだしに、そうだったと相原が沈んでいる間も、山下はブツブツ続けている。


「虫はさえずらない……音を……暗号化」


 しばらくしてから山下は顔を上げた。

「虫本体じゃなく、小型の盗聴器で、中継して暗号化、さえずる」


「と、盗聴? 蜂の巣を?」


 山下は白衣のポケットから愛用のメモ用紙とペンを取り出すと、図解し始めた。


 蜂の巣の近くに盗聴器を仕掛け、音を拾う。

 近くに中継地点をつくり、そこだけに音を送る。(だから電波は弱くていい)

 中継地点で音を分析する。(分析のため、蜂の行動パターンを先に調べて入力しておく)

 分析結果だけを、手元の端末に、テキストで送るようにする。


「いつも通りじゃない……しかわからない。でも、異常にはすぐに気づける」


 働き蜂の帰りがいつもより早いとか遅いとか、羽音を拾って比較して、結果を自分の携帯電話に送るってことか!


「あ、ありがとう! これで研究の方向も決まったよ!」


 方向が決まれば実践あるのみだ。


 問題は、盗聴器やら発信器やらの機器をどうするかだ。

 相原は生物は大好きだが機械は苦手だった。


「一緒に……組もう」


 聞くと山下チームの研究テーマは『小型化の技術』だった。

 機械好きの集まりなので、学生の技術の範囲内とはいえ、どこまでだって小型化する自信があるらしい。

 ただ問題は、「小型化するだけでは研究にはならない」と担当教授から言われたことだった。「小型化する理由、どうしても小さくないと困る動機がほしい」と。


「いい動機……ありがとう」


「こ、こちらこそ。助かるよ」

 山下率いる工学科チームが一緒なら、すぐに実践できそうだし、なにより心強い。


「あ、仲間にもきいてみないと」


 山下チームからはすぐに良い返事がきたが、相原の同期の杉野だけが渋っていた。


「それで成功したとしても、オレらよりソイツらが有名になりそうだからヤダ」


 山下に杉野の言葉を伝えると、意外にも山下は「むしろ……好都合だ」と返してきた。

 山下チームは卒業研究ができればいい。論文の最後に『工学科協力』とだけクレジットしてくれればいいのだと、謙虚な姿勢を示した。


 山下の提案は杉野にとっても願ったりかなったりで、すぐに工学科との共同研究が始まった。


 共同研究は順調だった。

 相原たちはすでに対象の蜂の巣を見つけていたし、山下たちの腕は確かで、細かい注文にも丁寧に対応してくれた。

 集めたデータを元に書いた論文も高評価で、大企業の目にとまり、相原と杉野、山下たち工学科の就職も決まった。

 大成功を祝う会で、飲みすぎた杉野が叫ぶ。


「オレはさァ、ゼッタイ、世界にオレの名を知らしめてやるんだ!」


「し、新種発見とか?」


 相槌をうった相原に、杉野は意味深に笑うと、山下と熱心に話し始めた。


 最初の頃からは考えられない仲良さそうな2人の姿に、この様子なら就職先が違っても年に一回くらい集まれるだろう、と数少ない友達とのつきあいが続きそうで相原はほっとした。


 

 就職して初めての夏、相原はテントウムシをよく見かけることに違和感を覚えていた。


 緑の多い地元や春先ならともかく、夏の都会では珍しい。

 近くにいた一匹に、思わず指先をさしだす。

 指にのらず、つまんで手のひらにのせても、ぐるぐる歩きまわるだけで、のぼってこない。


 妙だな。少しでも高い先端へといそいそのぼり、天辺から飛んでいくのがテントウムシなのに。テントウハラボソコマユバチに寄生されているのか?


 手のひらのテントウムシをじっくりと観察するが、今は内部にいる状況なのか、オレンジ色の幼虫もまゆも見当たらない。


 相原は持ち歩いている携帯ルーペを取り出すと、手のひらのテントウムシをころがし、腹側をよくよく見てみた。

 規則正しい小さな傷が、どこかアルファベットのように見える。


「で、D……ド、Dr.Bugドクターバグ?」


 つぶやいた瞬間、テントウムシは逃げるように飛んでいった。


 このことを山下にメールで伝えると、『杉野にきくといい』と返信がきた。

 山下は工学科出身で生物は専門外だったな。

 『奇妙なテントウムシを見つけた』と杉野にメールを送ると、『すぐに会おう』と珍しく電話で返してきた。


 杉野も新種かもしれないと期待しているのかな。同じような個体を見たという話が聞けたら面白いな。

 相原はしばらく味わっていなかった高揚感でいっぱいだった。

 

 杉野が指定してきた隠れ家みたいな飲み屋の個室で、注文の品物を並べた店員が遠ざかるやいなや、杉野は言った。


「どうしてオレだとわかった? あー。前にオレが名をしらしめたいって言ったからか」


 面食らっている相原をよそに、杉野は一人で納得すると語り出した。


「オレさ、今までずっと名前をからかわれてきたんだよ。だから、絶対にオレの名前をスゴいものにつけてやるって決めてんだ」


 相原は論文に書かれていた杉野の名前が読めず、たずねたことを思い出した。

 杉野は「『武具タケノリ』だよ」と慣れた様子で苦笑しながら教えてくれた。


「『武具ぶぐ武具ぶぐ、ブ~クブク~』ってからかわれたのはいい方だ。『武具(ぶぐ)なんだから、かたいだろ?』っていきなり叩かれたり蹴られたりもしたよ。弁当にノリが入ってれば、『名前通り、具がノリだ~』とはやし立てられた。親と名前を恨みすぎて一周したよ。絶対にヤツらを見返してやるってな。ま、そんなわけだから、オレの邪魔はしないでくれ。これ、口止め料」


 ぐいっと差し出されたのは硬質なケースに入った一匹のテントウムシだった。


「最新型だ」


 これ説明書、と、冊子を置いて、杉野はいなくなった。

 

 ケースの中のテントウムシは虫型盗聴器だった。

 相原はようやくかみ合っていなかった会話に合点がいった。


 なんてものを作ったんだと思う反面、これを使えば直接聞かなくても彼女の気持ちがわかるんじゃないか、と思いついてしまった。


 いやいや、盗聴なんてダメだろう。

 でも、これでスッキリするじゃないか。なんで素敵な彼女が僕とつきあってくれるのか、理由を知りたいだけだ。それさえわかれば、すぐにやめたらいい。それだけなら……。


 相原は彼女とデートの約束をとりつけた。


 デートの最中、彼女の鞄のポケットの中に、そっと設定完了したテントウムシをしかけた。

 彼女と駅でわかれてすぐに相原は携帯電話を見た。

 テントウムシは盗聴器だが、登録した携帯端末にショートメールを送ってくるのだ。

 拾った音を途中の中継地点で予想されるテキストに変換する仕組みらしい。

 卒業研究と同じ仕組みだから、おそらく山下チームもかんでいるはずだ。

 だからこそ山下も「杉野にきくといい」と返したのだろう。

 文字に変換されることで盗聴したままの内容ではなくなるため、精度は低いが、言葉の再現度は正確だと説明書には書いてあった。

 しばらくしてから、相原のケイタイにひっきりなしにメールが入るようになった。


『ぽーん』 駅の改札の音か?

『次は~○○液~○○疫~』 電車内のアナウンスだな。

『って歯ナシだぜ。脱ッサ』 口調からして乗客の会話だな。

『ぽーん』 駅の改札、ということは、ようやく電車を降りたようだ。


 乗客のくだらない会話は長かったが、彼女の最寄り駅に着いたのなら、あとは彼女のマンションまで歩いて帰るだけだ。

 なんとなく相原がほっとしていると、またメールの受信が始まった。


『秘さしぶりだな。比さし鰤ね。ちょっとカオ課せよ』 なんだこれは?


 彼女が帰宅途中にすれ違った誰かの会話であって欲しいと願ったが、受信は止まらない。


『居間なにしてんの。なんでもいいで賞。奸計ないん打から』 

『話そうぜ。いや。そこで井伊から。厭だって場。カランカラン。いらっしゃいませー』


 嫌な予感に急かされ、相原はタクシーをつかまえ彼女の最寄り駅へと向かった。

 特徴的なドアベルの音から、おそらく純喫茶とか、そういう感じの店に入ったはずだ。

 運転手に聞くと知っていたので、店に行ってもらう。

 その間にも会話は続いていた。


『さみしかったんだ呂。よりを藻どしてやる。勝手な古都いわ内で』


 どうやら過去の彼氏らしい男が復縁を迫っているようだ。

 彼女は断る言葉しか出していないのに、彼氏の方はまったくめげず、押し問答が続いている。


 到着するやいなや、相原は急いで喫茶店にかけこんだ。

 カランカラン

「いらっしゃいませー」


 店員を手で断り、店内を見回した相原は、すぐに彼女を見つけて駆け寄った。

「わ、忘れ物」


 驚いた、でも明らかにほっとした様子の彼女に、ブランド物のコスメポーチを差し出した。

 それは昔むりやり杉野から渡されたものだった。


『これさ、カノジョにあげたら「趣味じゃない」って返されたんだ。だからやるよ』

『い、いらない』

『そりゃお前は使わんだろうが、ハニーちゃんは使ってくれるかもだろ。中身も一式そろってて、けっこう高かったからもったいなくってさ』

 そんなもの余計に渡せないと断ったが、帰宅してから鞄に忍ばされているのを発見して、返しそびれていた。

 さらに以前に、杉野が内田に話していたことを思い出したからだ。

『化粧品一式は持っとくといざって時に喜ばれるぞ』

 そういうものかと彼女に渡さず自分で持ち歩いていたのだった。まぁまったく活用される機会はなかったが。


「ありがとう」

 相原の機転を察した彼女は、嬉しそうに自分の物ではないコスメポーチを受け取った。


「もう新しい男がいるのかよ」

 元彼らしい男は、相原を遠慮がちに見た。


 相原は口を開かなければ、とても堅気には見えない体格と鋭い顔つきをしている。

 特に今日はデートだと気合いをいれていたので、自由業の幹部風だ。


「私、あなたとお付き合いしたこともないですよ」


 元彼じゃない?


 相原がぴくりと眉を上げると、男がびくりと震えた。


「姉も妹も私もちゃんとお付き合いしている人がいるんです。もう私たちにつきまとわないでください! 次は警察よびますからね」

 彼女は伝票を掴んで立ち上がると、毅然とした態度で会計へと向かった。


 相原は、彼女が店を出るまでは男が追いかけて行かないようにと男を見ていたが、男からすれば、凄んだまま動かない相原に、いったいこれから俺はどうなってしまうのかと恐怖で汗が止まらなかった。


「……次はない」


 彼女が店を出るのを確認してから相原はつぶやいて店を出たが、男は、地を這う声の念押しに、こくこく頷き、二度と関わらないと心の底から誓った。


 店の外で彼女は相原を待っていてくれた。

「本当にありがとうございました」


「い、家まで送るよ」


 いつもなら遠慮する彼女も、今回ばかりは素直に受け入れてくれた。


「あの人、昔から私たち姉妹につきまとっていて。最近ちょっと度が過ぎてきて困っていたんです」


 男はストーカーだったようだ。


「そういえば、どうしてあのお店に? そうそうポーチお返ししますね。あれ、限定品ですよね。よく持っていましたね」


 彼女の危機に気づけたのも、スマートに事を運べたのも、杉野がくれたテントウムシ型盗聴器やポーチのおかげなのだが。

 言えない。

 杉野に感謝するのと彼女にすべてを打ち明けるのとは別だ。


 でも、せめて盗聴器だけでも回収しなくては。


「は、話がしたくて」


「私もです。部屋に来てもらってもいいですか?」


 一人暮らしの彼女の部屋に!?


 汗がふき出た相原だったが、なんとか頷いた。


 歩きながら、彼女はなんでもない風に話し出した。


「私の姉は妖艶な美女で、妹はやんちゃな小悪魔系なんです。地元では美人姉妹と有名で、さっきの人も、最初は姉に、次は妹に夢中で。どっちにも相手にされなくて、みそっかすの私を狙うようになったんです。『お前の相手をしてやれるのは俺くらいだ』って」


「そ、そんなこと」


 相原にとって彼女は唯一の存在だ。

 どんなセクシー美女や蠱惑的な少女が横に並ぼうとも、彼女以外はありえない。

 彼女が褒め称えるのだから魅力的なのだろうが、彼女自身が劣っているとも思えない。


「私のメイクやファッションは姉仕込みで、料理は妹に習いました。だから誰かに褒められても自分が褒められている気がしなくて。このままじゃいけないなって思って、一人暮らしを始めたんです」


 マンションに着き部屋の鍵を開けると、相原を招き入れた。


 初めて訪れた女性の部屋を珍しげに見ている間に、彼女は片付けられて清潔な部屋の空気を一旦通してからクーラーを入れ、台所へと向かい、香りの良いお茶を乗せたトレイを持って戻ってきた。


「どうぞ。……きっと私は、相原さんが私を見つめる目が好きなんだと思います」


 それは、相原がずっと知りたかった『どうして僕なんかとつきあっているのか』の答えだった。


「相原さんが、誰とも比べないで私を見てくれているのがわかりますから」


 思いがけずに彼女本人から肯定的な答えをもらえて、相原は感激を通り越して思考が停止していた。

 産まれてからずっと姉妹と比べられてきた彼女は、他人の視線に敏感だったのか。

 だからこそ、相原の見た目と中身のギャップも気にしなかったのだ。


 誰かと比べるなんてとんでもない。僕の方こそ君とつきあえて本当に嬉しい。こんな僕に表裏なく接してくれる君は僕の女神だ! とでも言えれば良かったのかもしれないが、声も怖いと言われる相原の口は重い。

 相原はそっと彼女を引き寄せると、優しく抱きしめたが、彼女の体はこわばったままだった。


「でもそれは、私の勝手な思い込みだったんですよね。さっきのポーチ、彼女さんのですか? あの喫茶店で待ち合わせしていたんでしょう? もう行っていいですよ」


 相原の鞄の中で長い間もまれたポーチは、未使用ながらも適度な使用感がついていた。

 彼女の盛大な勘違いに、こうなったら全部話してしまおうと相原は心を決め、口を開いた。


 タイミング良く喫茶店に現れられたかの説明に、テントウムシ型盗聴器の説明は外せなかった。

 ずっと気持ちが知りたかったからつい盗聴器を使ってしまったと、相原は正直に打ち明けた。


「ご、ごめん。どうか許して欲しい。もし許せないのなら、別れたくないけど……別れ、る」


 土下座して謝る相原に、彼女は「今回助かったのはこれのおかげですから」と許してくれたが、ポーチを手に入れた経緯を聞くと複雑な顔になった。


「中を確認してもいいですか?」


「も、もちろん」


 相原も中を見るのは初めてだった。

 杉野の言葉通り、中にはポーチと同じブランドの未使用化粧品一式が入っていて、キラキラした正方形のパッケージもあった。


「ち、ちがっ。中身は僕も知らなくて」


「杉野さんらしいですね」


 ポーチはお礼をつけて丁重に杉野に返そうと二人の意見は一致した。


「今度は相原さんが用意してくださいね」


 魅惑的に微笑む彼女と相原は熱い一夜を過ごした。


 相原はこれで終わったと思っていた。


 虫型盗聴器を使ったスパイシステムは、杉野が入社した会社の副社長の狙い通り、社長の弱みをにぎり、副社長が社長になった。

 新社長は杉野に多額の報酬を与えたが、杉野は満足しなかった。


「オレがほしいのはオレの証なんですよ」


 杉野は虫型盗聴器のすべてに自分の刻印を入れさせた。本名は長いので、名前の武具をもじってDr.Bug。

 刻印入りの虫型盗聴器は密かに世界を席巻していった。


 通常と違う動きをする虫に生物学者が気づき、虫型盗聴器だとわかると、機械ではなく虫自体で同じような働きができないかと考えた。

 生物学者は遺伝子学者と一緒に研究し、ついに虫単独でスパイ活動できる虫を作り上げた。


 スパイ活動する虫に気がついたのは、学者崩れだった。

 学者崩れは、スパイ虫を調べ上げ、自分の思い通りに動くように改造する方法を見つけた。

 その方法はインターネットを通じて爆発的に広まり、ネットにつながりさえすれば誰でもスパイ虫を動かせるようになった。


 スパイ虫から指定した端末にテキストが送られてくる。

 文章が微妙なことから、スパイ虫システムは『バグったー』と呼ばれるようになり、精度はともかく、PCやスマホを持っているならバグったーも入っているくらいの気軽さになっていった。


 もちろんスパイされて喜ぶ人間などいないので、対策が練られる。


 バグったーを使えなくするプログラムが開発されれば、そのプログラムを潰すプログラムが広まる、といったイタチごっこが続き、しばらくはそれでおさまっていた。


 スパイ虫の種類は、ゴキブリ、クモ、テントウムシとさまざまながら虫の姿だったので、対策に疲れた人々は、直接的に虫を殺すようになった。

 普通の虫もスパイ虫もぱっと見では区別がつかないので、どちらも動かないようにできる殺虫剤が売れに売れた。


 虫たちは激減していった。


 生物としての虫を擁護する団体ができ、虫がいなければ食料もままならない、このままでは戦争になるというところまで行き着いた時、バグったーが動かなくなった。


 今まで遺伝子操作で働きかけていたバグったーのプログラムを、なぜか虫たちが一切うけつけなくなったのだ。


 人間もスパイ合戦に疲れていたこともあり、バグったーは広まっていたのが嘘のように一気に収束した。


 そして杉野が逮捕された。 


 スパイ虫の制作者は杉野だと密告したのは、大学で後輩だった内田だった。


 卒業してからの飲み会で、杉野自身が「Dr.Bugはオレだ」とこっそりもらしていたらしい。

 虫を愛していた内田は、虫の虐殺を引き起こしたバグったーを許せなかったのだ。


 不満げに捕まる杉野をテレビで見た相原は、久しぶりに山下と連絡をとった。

 あの夏、不思議な動きをするテントウムシを見つけたとき、すぐに杉野の名前を出した山下なら、バグったーについて詳しく知っているだろうと思ったからだ。


「杉野は……スケープゴート。制作者は……杉野じゃない」


 やっぱり、と相原は思った。

 もしも杉野が自分の力で名を知らしめたのなら、たとえ不本意なことでも、もっと嬉しそうにしていたはずだ。


 山下は諜報機関で働いており、バグったーについても初めから知っていたと言う。

 そんなこと僕に話していいのかと相原が心配すると、大丈夫、勧誘するためだ、と答えた。


「避難させていた、正常な虫……増やして、世界に還元しよう」



 よく晴れた日、杉野が高い塀から出てくると、待ち構えていた相原に驚いた表情を見せた。

 杉野は車中で目隠しをされたので、行き先がどこかわからなかったが、目を開けると緑と生き物の楽園にいた。


「こ、ここで一緒に虫を育てないか?」


「……仕方ないな。おまえ友達少ないもんな」


 相変わらずの物言いだったけれども、杉野は言葉よりも嬉しそうな顔をしていた。


「あ、ちょっと待って。オレ彼女に連絡……って、え? なんでここにいんの?」


「なんでって、待ってたからに決まってんでしょ! ここでずっと働きながら待ってたんだよ! ムシ嫌いだし怖かったけどガンバってんの! いっとくけど、アタシの方がセンパイなんだからね!」


 彼女に抱きつかれ、杉野は笑いながら泣いていた。


 杉野が塀の中に入ってから、相原が杉野の彼女に会いに行くと、杉野の彼女は今でも杉野を好きだと言った。

 相原は山下に杉野の彼女のことを話し、自分と杉野、そして自分たちの彼女も還元メンバーに入れてもらったのだ。


 虫たちを育てて増やして還元していく贖罪は、長い時間がかかるだろう。

 それでも、彼女がいればきっとできる、と相原も杉野も思った。



 長い贖罪の途中で、杉野は新種を発見した。

 論文も通り、日本名として登録されたのは、杉野の彼女の名前だった。


 相原は今、大事な名前を考えていた。

「む、虫の字を入れたいんだけど、いい名前が思い浮かばない」


「こだわりすぎてオレの二の舞させるなよ。あー、なんかさ。オレたち虫と同じだよな。生きるって、求愛行動なんだな」


 すっかり屈託なく笑えるようになった杉野に、相原も心からの笑顔を返した頃、2人の彼女たちも別の場所で話していた。


「ここにいると、生きてるなーって思わない?」


 緑と土の香りに虫の声が響く。

 無数の生き物の気配がする大地は心地いい。


「まるで一匹の虫になったみたいですよね」


「え。うーん。アタシも生き物のひとつだなって、なんかウレシイの」


「あ。動きました」


「さわる! どこどこ?」


 2人の手のひらの下で、もうすぐ産まれる命が力強く主張した。  

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バグったー 高山小石 @takayama_koishi

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