冥土の恋人

花染 メイ

冥土の恋人

幼い頃、祖母が私に話した昔話のなかに、こんな話がある。


昔、あるところに名家に生まれた男がいた。やがて、年頃になった彼は、やはり立派な家の出である娘を妻として娶ったのだが、彼女はあっけなく早死にしてしまう。お見合い結婚だったものの、妻を愛していた男はその死を大層嘆き悲しんだ。


しかし、彼女の葬式から数日後のこと。

男は家の近くの海辺を散歩していた際、なんと、亡くなった妻そっくりの娘が、見知らぬ男と浜辺を歩いているのを見つける。

二人は体が透けており、幽霊の様だった。

男は二人の後を追い、その真正面まで来て声を掛け、女の方が自分の妻であることを確信する。


戻ってきてほしい、傍に居てほしいと必死に頼む夫に、幽霊の妻は首を横に振った。

自分はもう死者であり、この世に長くは留まれないのだと男を諭し、そして、今自分の傍らにいる男こそが結婚前、彼女の恋人であったことを彼に打ち明けるのだ。

あの世で再会した二人は、生前結ばれなかった分、今度こそ一緒になろうと約束したのだという。


どうか、あの世でこの人と添い遂げることを許して欲しい、と彼女は男に懇願した。また生まれ変わるその日まで、ずっと一緒にいたいのだと。

男は泣いた。泣いてそれを許した。


彼女は深く頭を下げ、恋人共々礼を言ったそうだ。


あなたのおかげで最期まで幸せだった。


自分の我が儘を受け入れてくれて本当に感謝している。


短い間だったが、あなたの妻として過ごせてとても良かった。

彼女は最後にそう言い残したという。


ゆっくりと帰っていく二人を見送り、男は妻であった彼女と、その恋人に背を向けた。

その後男は、一切振り向くことなくその場を去っていったと、そんな話だった。


さて、ここからは現代の話。

別の男の話をしよう。

この男も、早くに配偶者であった女性を亡くしている。

女々しい性格だった彼は、妻が死んで間もない頃は、まぁ、めそめそと毎晩のように泣き、弱音を吐きまくっていた。

そんな彼には子どもがいた。

妻が亡くなった当時、中学二年生だった彼の一人娘である。それが白木優寧しらき ゆね

私だ。現在高校二年生。


話題にしている張本人の父は今、台所でお湯を沸かしているところだった。今まで包丁の使い方も危うかったのに、母が亡くなってからというもの、父の料理の腕はかなり上達した。すっかり手慣れた様子で野菜の皮を剥く父を見ると、以前は複雑な気持ちになったものだったが、最近は見慣れた光景になりつつある。


今日は手抜きの日。

父は温めるだけで食べられるハンバーグや、出来合いのおかずをいくつか仕事帰りに買って帰ってきた。


「優寧、サラダ買ってきたから、皿に盛り付けといて。」


「はーい。」


戸棚からお皿を三枚取り出す。生前、母が雑貨店で一目惚れして買ってきた、とっておきの品だ。ちなみに、父はほんの少し前までこれを見る度に号泣していた。


ハムときゅうりが入ったマカロニサラダとクルトンがふりかけてあるシーザーサラダ。それらを三人分、お皿に取り分ける。温泉卵は底の深いお皿に入れておいた。

可愛い桜色で、二匹のうさぎが跳ねている柄の自分のご飯茶碗に炊いた白米を盛り、お揃いの柄の汁椀には味噌汁をよそった。父の茶碗は縁のところに青いラインが入っただけのシンプルなデザインだ。


汁椀は濃い茶色で、無地のもの。母は父と色違いの黄色いご飯茶碗と、薄い茶色の汁椀を使っていた。全員分のご飯と汁物を盛り付ける。


ハンバーグが温まったらしく、父がコンロの火を止めた。


「あっち!めっちゃ熱っ!」


父が大袈裟な程に熱がりながらハンバーグのパックをお湯から出している。そしてそれをお皿に移すと、やけに神妙な顔でこちらに運んできた。


「……さて、優寧さん。」


父は席につくなり、改まった口調で私に言う。


「ここにパパがなけなしのお給料はたいて買ってきたハンバーグが3つあります。」


「……うん。」


「しかも、近所のスーパーで買った半額のセール品じゃありません。◯◯デパートのちょっと高級な美味しいやつです。」


「……はい。」


「しかもなんと、3つ全部味が違う!チーズと和風とデミグラスソース!」


「……で?」


「じゃんけんで決めよう!勝った人が先に好きなの選んで良い!」


「もう、そういうのいいから!早く食べたい!どれでもいい!」


「え~」


つまんないよー、と不服そうに顔をしかめる父。

この人は、時折こういう変なことをする。全員に同じ味を買ってくればいいのに、わざわざ違う味を買ってくる。

昔からそうだったらしい。

生前、母から聞いた。


しばらく黙った後、父は渋々と言った調子でハンバーグの乗った皿を一つ手に取った。


「……じゃあ俺チーズ。」


「私デミグラス。」


「ひかりさんのは和風ね。」


父が味噌汁やご飯のお茶碗と、おかずの皿が乗ったお盆を仏壇の方へ持っていった。


ひかりさんというのは、私の母の名だ。

母は所謂姉さん女房で、いつも父に「さん」付けで呼ばれていた。


「はい。どうぞ。今日の夕飯です。」


お茶もどうぞ、と父が仏壇に置いたコップに麦茶を注ぐ。その様子は、なんだか小さい子がやる、おままごとのように見えた。母にお供えをする父の背中は、いつも小さくて頼りない。


父がおりんを鳴らして、手を合わせる。


「ひかりさん、最近優寧が難しいお年頃で、俺と全然遊んでくれません。パパ寂しいです。」


私も椅子から立ち上がり、父の隣に正座した。


「最近、父が以前にも増してめっちゃ絡んできてしつこいです。お母さん助けて。」


「優寧が冷たいよ、ひかりさん。」


「お父さんがうざいよ、お母さん。」


「マジ悲しいー。」


「マジ勘弁。」


「ちょっとは構って。」


「ムリ。」


当然、写真の中の母は何も答えない。

その表情が心なしか、呆れているようにも見えるのは気のせいだろうか。


母への挨拶を済ませると、父と私は再び席についた。


「「いただきます。」」


父が買ってきたデミグラスハンバーグは、ボリュームがあって結構美味しかった。

流石、デパートのちょっと高級品。

そこら辺のスーパーで売ってる平たい安物ハンバーグとはわけが違う。


その上に温泉卵をのせて食べると、夢のような味がした。

おかげで味噌汁やご飯が進むのなんの。私と父はサラダやハンバーグの皿をすぐ空にした。


「美味しかったー!」


「ねー。」


父が席を立ち、母の食器を下げにかかる。


また、父の背中が小さくなった。


その時、急に思ったのだ。

もしこの人が、あの昔話の男の立場だったなら、幽霊の妻と会った時どういう行動を取ったのだろうかと。

もし、母の隣に自分以外の異性の姿があったなら。やはり、主人公の男と同じように母を追いかけ、傍にいてくれと頼むのだろうか。

私はその背中に、思わず問いかけた。


「あのさ……」


私が祖母から聞いた昔話を話す間、父はそれを静かに聞いていた。


話が終わって「お父さんはどうする?」と私が尋ねると、父は少しだけ困った顔をした。


「そうだなぁ。」と、腕を組んで考えこむ。


「……うん、パパもひかりさんを追いかけるかも。」


父の答えに、私は首をかしげた。


「なんで?」


幽霊じゃ、一緒にいても生きてる時とは何かと違って大変そうじゃない?と、私。


「あー、いや、主人公の男の人とはちょっと違うな。これからも一緒に居て欲しいとは頼まないと思う。」


「……うん?」


どういう意味かと聞いてみると、父は笑った。


「なんかさ、そもそも親が決めた結婚ではなかったし、いまいち想像つかないけど。」


父は正座にしていた足を崩し、あぐらをかくくと、少し遠い目をして言った。


「やっぱり好きだったんなら、もう一回会いたいなー、くらいは考えると思わない?最期にちょっと話したいなー、とか。」


「……まぁ、多分?」


結婚はおろか、誰かと恋愛感情を持って付き合ったこともないので、父が考えているのとは少し違うかもしれないが、大事な人にもう一度会いたいと思う気持ちは大体想像がつく。


「でも、生前は俺がひかりさんを独り占めしちゃったんだし、ひかりさんが望むなら死んだ後くらい他の好きな人と一緒にいても嫌ではないなって、俺は思う。」


ひかりさんが選んだんなら、多分変な奴じゃないだろうし、と、父。

結婚相手としてこの父を選んだ時点で母の人選の基準はだいぶ謎だと思うので、母が選ぶ相手が変な奴じゃないかどうかはともかく、私は別のことに気をとられていた。


私が余程間抜けな表情をしていたのだろう。


「おーい、大丈夫かー?」と父に呼び掛けられ、はっとする。


「……うちのお父さんが珍しくまともっぽいこと言ってる……!」


「ひでぇな、おい。」


父は私の発言に対して凹み気味だが、これでも一応誉めたつもりだ。


もっと頭いっちゃってる奴だと思ってたよ。すまん、父。ちょっと見直した……かも。

多分。


想像とは違う父の答えに、私は少し驚いたものの、納得した。


「それに、ひかりさんはそんな寂しがり屋じゃないから、俺がいなくてもぶっちゃけ平気そうだしね。俺と会ってから結婚決めるまで、結婚は別にしないでいいやー、みたいなこと言ってたみたいだし。『独り身エンジョイ計画』とか立ててたらしい。」


だから、あの世で恋人とか作らない気がするんだよなぁ、と、父が笑った。


「なるほど……」


確かに私の知る母は、それほど結婚に執着している人ではなかった。


「あと多分、ひかりさんが生きてるうちに何かしらの原因で俺と離婚することになってたとしても、ひかりさんは寧ろ喜んで悠々自適に独身生活を楽しんでたと思う……」


「あぁ……」


それは大体想像がついた。


小さい頃、「なんで、お父さんと結婚したのー?」と母に聞いたことがあったが、「……なんでだっけ?」と心底不思議そうな表情で返されたことを思い出す。

ちなみに、子どもは父が欲しかったそうで、母はどちらでも良かったようだ。「あー、子どもがいるのも意外と楽しいねー。」と、ある日突然母が呟いたのを聞いた日には、流石に私も自分の存在を疑問に思った。


「まぁ、ひかりさんは地獄でも天国でもやっていけそうな強者だから、大丈夫でしょ。さてと、お風呂沸かそう。」


父が去っていった後の居間は、急に静かになった。


遺影の母に向かって、話し掛けてみる。


「……よかったねぇ、お母さん。」


線香の煙が私の息に触れて揺れた。香り付の線香から漂う白檀の香りが心地よい。


「お父さんが、ひかりさんが選んだ人はいい人だって。天国でも地獄でもやってけるってさ。かなり信用されてるよ。」


私は仏壇の前で体育座りをする。


「こっちも今のところ大丈夫だわ。心配しないで。」


あ、こっちに残してきた家族のことなんか全く心配してない?

あの母のことだ、その可能性も高い。


「……まぁ、いいや。また明日ね。」


私はそう言って仏壇に背を向けた。

私が居間を出ようとしたその時。


「いや、私どんだけ薄情な母親だと思われてんのよ。流石に悲しいわ。」


脳内にそんな苦笑混じりの声が響いた、そんな気がして一瞬立ち止まる。

しかし、それきり声は聞こえてこない。


「……気のせいか。」


再び居間を出ようとすると、風呂場から父の悲鳴が聞こえた。


「うわー!虫がいる!でかい虫ー!」


「え、まさか……ゴキ?」


もう秋の終わりだというのにヤツが出たのだろうか。


そう思っていると、「違う!でもパパ虫全般無理ー!」と情けない叫び声が返ってくる。


「はぁ……」


私はハエ叩きを片手に居間を出た。

廊下が冷え込んでいる。木で出来た床がひんやりと冷たかった。


季節は巡り、1つの年を乗り越えたら、またすぐに次の年が来る。もう何年か経ったら、私も誰かと結婚して、母となる日が来るのだろうかとそんな考えが一瞬頭をよぎった。


「……」


いや、私はまだもう少しの間、二人の『子ども』でいたい。

その言葉は口に出さずに、そっと心の中に閉まっておく。


「今行くー。」


窮地に陥った父を救うため、私は風呂場へ向かった。


もうじき冬がやって来る。

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