第2話 彼女視点 後編

「好きにしなさい。私はもうお代わりを頼んでいるわ」

「ああ、わかった」


 彼は救われたような穏やかな笑みで、私の隣に座った。隣に居ることが嬉しくてたまらない、そんな雰囲気をあからさまに出す。何の嫌がらせだろうか。


「お待たせしました、ピニャコラーダです」

「ありがとう」


 グラスにはクリーム色のカクテルが出された。パイナップルと淡い色合いのハイビスカスの花が添えられている。甘い香りが僅かに私の緊張をほぐしてくれた。


「お連れの方は何をお作りしましょうか?」

「オリンピックを」

「かしこまりました」


 オリンピック。オレンジリキュールの独特なほろ苦さとブランデーを使ったカクテルだ。パリの有名な高級ホテル「ホテル・リッツ」で生まれたという。しかし、そのカクテルを選んだことに私は違和感を覚えた。

 オリンピックには「待ち焦がれた再会」という意味が込められている。その意味だけを切り取ると『弟子は私に会えたのを喜んでいる』と言うことになるのだが、たったそれだけで状況判断をするほど楽天的ではない。


「突然いなくなってすまなかった」


 謝罪。だから何だというのだろう。

 それは相手の気持ちが軽くなるだけで、私が救われたりなどしない。むしろ大の男が頭を下げる姿を前に、これで許さなければ私が悪者ではないか。

 勝手すぎる彼に心の中で憤慨しながらも私は本心を隠す。


「もう過ぎたことよ。要件はそれだけ?」

「いや。……俺は」


 彼は意を決して口を開きかけた瞬間、私を見て言葉を切った。その視線はグラスを手にした左指へと注がれる。


「連れ合いが……できたのか?」

「…………」


 呟いた声は、酷くショックを受けたように聞こえた。私は自分の薬指にある銀の指輪に視線を落とす。責めるような言い回しに、私は彼の左指を睨んだ。


「それはお互い様でしょう」

「ちが……」

「十年だもの。いくら私が不老不死だったとしても、連れ合いがいたって可笑しくはないでしょう」


 可愛げのない言葉を吐き出す。私に連れ合いなどいないし、この十年はすっかり色を失って、どこに行っても心から楽しいとは思えなかった。だというのに、それをもたらした元凶である彼の無神経な発言にイライラした。


「そうか。……今、幸せか?」

「ええ。貴方と一緒に居た時よりもずっとね」


 半ばやけになって叫ぶように答えた。だが、彼は「そうか」と今にも泣きそうな顔で、微笑んだ。それはまるで私の幸せを切に願っていた──そんな姿に、不覚にもドキリとしてしまった。


「お待たせしました。オリンピックでございます」

「ありがとう」


 紅茶色のオレンジの香りがするカクテル。彼は味わいように、そして一口で飲み干した。 


「マヤ、今日アンタを呼んだのはアンタが幸せかどうか、知りたかったからだ。……色々事情があって、アンタの傍を黙って離れてすまなかった」


 彼の目は僅かに潤んでいた。

 私は頭を振った。怒りが消えた訳ではない。けれど踏ん切りがついたというようなものだ。きっと彼には彼の事情があるのだろう。

 けれど彼に何があったのか触れたくはなかった。触れればまた思い出してしまうから、思い出は美化されて過去に囚われてしまう。塞いだ気持ちがまた溢れてしまうのは嫌だった。


(私は師匠なのだから、せめて別れ際ぐらいそれらしくしなきゃ……!)


 私と彼の関係は修復できない。その事実が形となって目に見えてしまったのだから、未練がましく彼を想うのは終わりにしよう。


「貴方は──幸せだった?」


 私の問いに彼は少し複雑そうに微笑んだ。


「全然。けれど大事な人の事を想えば……なんとかやっていけたよ」

「そう」

「今日は俺に会ってくれてありがとう。アンタが幸せなら──それでいい」


 一方的に話をまとめると、彼は席を立って店を後にした。まるで嵐が通り過ぎたかのようだ。私は追いかけなかった。これ以上、恥を上塗りしたくない。

 結局、彼は何がしたかったのか。私には最後まで分からなかった。


「おや、お連れの方は?」


 カウンターから外れていた老紳士マスターが、私の隣の席を見て訪ねてきた。私はピニャコラーダを口にしながらほろ苦さを噛みしめ、微苦笑する。


「さあ、想い人のところじゃないかしら? ほら、今日はクリスマス・イブでしょう?」

「想い人? 彼の想い人は貴女だと伺っておりましたが」

「え?」


 耳を疑う言葉に、私は困惑する。


「この店の予約をされる際に、そう話してくれましたよ。ここで大切な人との約束を果たす、と」


 そういって老紳士は戸棚から藍色の箱を私の前に差し出した。それは手のひらほどのしっかりとした箱で、恐る恐る開けると、金色の指輪が収まっていた。

 しかもその金の指輪には見覚えがある。


「まさか」

「ここで貴女に『ポートワイン』を出してくれとも言われたのです」


 ポートワイン。ポルトガルのブランデーがブレンドされたワイン。これを男性から女性に薦めると「愛の告白」の意味となる。そして女性がそれを飲み干せば「愛を受け止める」という意味に代わるという。

 いつだったか、彼がお酒を飲めるようになったら私にプロポーズをすると言っていた。


「じゃあ、私をここに呼んだ本当の理由は……」

「プロポーズをするつもりだったのでしょう」

「そ、じゃあ、なんであんな指輪なんて……!」

「貴女と同じ気持ちだったのではないですか?」

「……」


 彼が座っていた席を眺めた後、私は入口へと視線を向けた。今から追いかければ──。だが、なんといえばいいのか。


「……それと、今追いかけなければ、あの方とはもう二度と会うことは難しいでしょう」


 その言葉に私は慌てて立ち上がった。


「どういうこと!?」

「簡単です、彼は──」








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