二 瞬間

「――ただいま〜」


「あら、お帰りなさい」


 昭和に建てられた磯野家のような我が家へと帰り、台所に立つ母親に声をかけると、念のため家の中をあちこち見回してみたが、やはり異次元などではなく住み慣れたいつもの自分の家だ。


 これが家に帰ってみるや、まるでヨーロッパの宮殿のような大豪邸になっていたり、SFに出てくる近未来的な銀色の建造物になっていたりなんかしたらおもしろかったのにな…などと、またバカげた空想を抱きつつも二階の部屋へ上がった僕は、ベッドにごろりと横になって、いつものように今月の『モー』を読んだりなどして夕飯までを過ごすことにした。


「――うーん……あれ? もしかして寝てたか?」


 だが、ふと気がつくと僕は『モー』を投げ出し、枕に顔を沈没させてちょっと意識が飛んでいる……どうやら読書をする途中に、ついつい寝落ちをしてしまっていたらしい。


 どれくらい眠っていたのだろう? 僕は自然と壁にかけられた時計に目を向けてみる。


「5時半か……え!? 5時半?」


 その時計の針を見て、僕は自分の目を疑った。


 僕が家に帰って来たのが5時半頃だ。それから本を読んで眠ったのだとしたら、どんなに浅い眠りでも30分近くは経っているはずだ。それなのに、なぜまったく時間が経ってないんだ?


 時計の針は時針・分針はおろか、秒針までもが止まってしまっている……もしかして、時計の電池が切れていたのか?


 怪訝に小首を傾げながら、帰って来た時、外して机の上に置いておいた腕時計も確認してみたが、やっぱり時刻は壁時計と同じ5時半だ。三つの針もすべて微動だにせずに止まっている。


 二つの時計が同時に止まるなんてことはまずありえない……いったい何が起きているのだろうか? もしかして、強い電磁波でもどっかから出ているのか?


 そんな疑いを持ち、今度は窓の外へ視線を向けてみた僕はさらなる異常に気づく。


「……なんで……なんでまだ夕焼けのままなんだ?」


 窓から見える空は、帰って来た時と同じ橙色オレンジと淡い紫に染まった夕暮れ時の色をしている……本当なら、もうとっくに真っ暗になっていていいはずだ。


 ……おかしい……どうにも様子が変だ……これじゃまるで、時が止まってしまっているみたいじゃないか!


「……そうだ! 母さんだ……」


 不意になんとも言い難い恐怖と不安に苛まれ、背中に怖気おぞけを感じた僕は、慌てて階段を駆け降りると母さんにも確認してみることにした。


 なんと説明すればいいのかわからないが、「うちの時計、全部壊れちゃったのよ」とか、「今日は日の沈むが遅いわねえ」とか言ってくれれば、この得体の知れない不安感から救われる……。


「母さん! 時計が変なんだ! ぜんぜん針が進んでないみたいだし、それに空もずっと夕焼けのままな気がするんだよ!」


 台所へ行くと、いまだ流しの前に立って何かやっている母さんの背に、掴んだ腕時計を差し出しながら、僕は祈るような気持ちで口が動くままに尋ねた。


「ええ? 時計が動かないの?」


 僕の質問に、ずっと洗い物をしていたらしいその手を止め、母さんは静かにこちらを振り返る……。


  そして、いつもの穏やかな笑みを湛えたママ、


「当たり前じゃない。この世界は時間が止まっているんですもの」


 そう、さも当然というように答えるのだった。


 その言葉を聞いた瞬間、僕は全身の血が一瞬で凍りついたかのような感覚に囚われ、わなわなと脚に震えがくる。


 ……そうだったのだ……僕は大きな勘違いをしていた……。


 ここは、もといた僕の世界なんかじゃない……一見して同じように見えるけれども、じつは時間の流れのない似て非なるもの……あの〝黄昏小路〟は、確かに異次元の世界へと繋がっていたのである!


 ……戻らなくちゃ……早く、もとの世界へ戻らなければどうなってしまうことか……。


 気がつけば、僕は偽の・・母さんの前で踵を返し、そのまま玄関を飛び出していた。

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