三 時間

 靴をどうやって履いたのかも憶えていない……とにかく僕はあの商店街の裏の大通りを目指し、沈みそうで沈むことのない・・・・・・・・・・・・夕陽に照らされた赤い街を懸命にひた走る。


 いつ、あの二つの世界を繋ぐ道が閉されてしまうかわからないからだ。


 いや、今度は来た時とは逆に大通り側から〝黄昏小路〟を抜けてみるつもりなのだが、仮にそうしたところで、無事にもとの世界へ帰れる保証すらどこにもない……。


 だが、今はそれを試してみるしかないのだ。それが唯一、今の僕に残された一縷の望みなのである。


 道すがら、すれ違う人々は相変わらずどこも変わった所のない、ごくごく普通の人間達だ。


 あの偽の母さんもだが、彼らはいったい何を考えて、この似て非なる異次元の世界で生きているのだろうか?


 いつまで経っても時間の経過がない、ずっとこのままの赤く染まった世界でいったい……。


 そのことを考えると、いたって普通に見える人々がむしろ不気味に感じられる。


「……ハア……ハア……ハア……ハア……」


 そんな僕一人だけが異物である世界の中、ともかくもあの小路の大通り側からの入口へと僕は到着した。


 時間の経過はなくとも、長い距離を走ればやはり息はあがるらしい。


 だが、ずいぶんと時間は経っているはずなのに、やはり頭上の空はこちらへ来た時と同様の、日の暮れる瞬間の色をしたままだ。


 幸いにというべきか、ウワサに聞く〝黄昏小路〟の繋がる時間的条件は揃っている……。


「……ハア……ハア……頼む! まだ繋がっていてくれ!」


 荒い息を整える間も惜しみ、僕は心の中で神に祈りながら、再び〝黄昏小路〟へと足を踏み入れた。


 薄暗く圧迫感のある狭い隙間……見た目も雰囲気も、来た時とまるで変わらない。


 だが、前回よりもさらに足早に、僕はその隙間を無言のままに突き進んだ。


「……うっ!」


 出口から射し込んでくる日暮れの太陽の、金色に輝く光の中へと飛び込んだその瞬間、一際その光が眩しさを増して、一瞬、僕は目を瞑ると顔をしかめる。


「…………帰って、来たのか?」


 やがて、くらんだ両の目がだんだんと視力を回復するのと同時に、僕の目の前には相変わらずの、夕暮れ時の商店街の景色が広がっていた。


 だが、あの異界ともとの世界とは、一見して変わり映えがしないのですぐには判断がつかない。


「あ、そうだ!」


 その時ふと、手にした腕時計のことを思い出した僕は慌ててその文字盤を凝視した。


 すると、秒針がコチコチと微かな音を立てながら、5時半から1秒、1秒、着実に時を刻んで動いている……時間が、ちゃんと流れているのだ。


「ハァ……よかった。戻れたんだ……」


 僕はどっと身体の力が抜けるとともに、膝に手を置くと大きく安堵の溜息を吐く。


「……いや、待て……なんだろう? 何かが違う……」


 しかし、安心して顔を上げ、見慣れたはずの商店街の景色を改めて見渡してみた僕は、そこになんとも形容し難い、そこはかとない違和感を覚えた。


 商店街に並ぶ各々の店構えもどこか小ざっぱりとした感じだし、行き交う人々の服装もなんだか妙だ。


 流行りのボディコンとか着た女性がまるでいないし、男性も肩パット入ったジャケットなんかのナウい格好をした者が誰一人としていない……けど、だからといってけしてダサいわけではなく、なんというか、むしろ欧米のファッションみたいにクールでスタイリッシュだ。


 それに、長い髪をワンレン・・・・にした女の子もまったく目につかず、反面、不良みたいに髪を脱色した若者は男女ともにたくさんいて、とにかく平成の世とは思えないファッションセンスなのである。


 また、みんなポケベルらしきものを持って弄っているが、それは僕が知ってるのとは少々違っていて、どれも非常に薄く、もっとサイズが大きいし、弄り方もなんだか指で画面を弾くような感じで変である。


 ……いや、それよりも何よりも、最も違和感を覚えさせているものの正体に、僕はようやくにして気づいた。


 マスクだ! 誰も彼も一人残らず、老若男女を問わずに全員がマスクをしているのである!


 最初は冬も近いし、風邪かインフルエンザでも流行っているのかと気にも止めなかったが、気づけばこの場でマスクをしていないのは僕ぐらいの者である。


 それに、よく見れば白いマスクだけでなく、黒だったり、グレイだったり、中には市松模様のような和柄とか、異様に派手な生地でできたものまである。


 そういえば、一人だけマスクをしていないせいなのだろうか? 前を通り過ぎる通行人達がなんだか変質者を見るような視線を僕に向けていくような気もする。


「ここは、本当に僕がいたもとの世界なのか……」


 もう一度、腕時計に目をやると、確かに針は動いている……だが、そんなこの世界への疑念を持ち始めた僕の視界に、偶然にも足下に捨てられた皺くちゃの新聞の束が映り込んだ。


 何か、ここがもとの世界であると証明するような証拠は書かれていないものだろうかと、僕はそれを拾って眺めてみる……。


「はあ!? 令和二年!? なんだ令和って? 今は平成二年だろ!?」


 だが、そこに印字されていた日付けは、むしろその疑いの方を証明してしまうものだった。


「……年号が違う……ここは、やっぱりもとの世界じゃないのか……」


 平成ではなく〝令和〟なんていう聞いたこともない年号……なんか音や字面が似ているし、もしかして、ここは昭和のパラレルワールドか何かだったりするのだろうか?


「もとの世界へ帰るどころか、余計、変な世界に迷い込んでしまった……」


 僕は、知ってるようでいてじつは知らない夕暮れ時の景色の中、何処の何者とも知れぬ人々の往来をぼんやりと眺めなが、しばしその場に呆然と佇んだ。

                                                            (黄昏小路 了)

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黄昏小路 平中なごん @HiranakaNagon

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